忍び寄る時間波形
酸性雨がトタン屋根を叩く絶え間ない金属音が、第十三特区の夜を支配していた。空を覆う巨大な防壁の隙間から漏れる不気味なネオンの光が、錆びついた鉄骨とヘドロの泥水を毒々しく彩っている。この街では、水も空気も、そして人々の命たる「時間」さえもが、すべて搾取の対象だった。
スラムを見下ろす防壁の頂上――時守(タイム・キーパー)のスラム監視砦の最上階。防音ガラスに保護された冷徹なオフィスに、二人の男が立っていた。
「実に興味深い波形だと思わないかね、レイヴン?」
高級な三つ揃いのスーツを完璧に着こなした男――クロノス本部から派遣された特別監査官、時任(ジトウ)は、手元のホログラムディスプレイを細い指先で弄びながら、サディスティックな笑みを浮かべた。その手首に刻まれた「年級」のメーターは、眩い黄金色の光を放っている。スラムの貧民から吸い上げられた寿命の結晶が、彼の肉体を永遠の三十代へと固定していた。
時任の背後に影のように佇むのは、時守第三部隊の隊長、レイヴンだった。顔の半分を覆う黒い鉄の仮面と、重厚な装甲コートが、彼から人間的な温もりを完全に剥奪している。腰に携えた二振りの時間刀が、主人の冷徹な殺気を体現していた。
「時計台広場で観測された、一時的な『時間逆行』のノイズ……。不純物の多いスラムの波形にしては、あまりにも周波数が整いすぎている」
時任はホログラムに表示された、チカ救出時の因果の歪み波形を指し示した。それは、世界の因果律を書き換える神聖な権能――時間の絶対神が放つ、神権の断片そのものだった。
「骸原(ムクハラ)の犬どもが仕損じた『アノマリー(特異点)』だ。レイヴン、お前の部隊を動かせ。このスラムに潜む『逆行者』を特定し、その心臓ごとデバイスを回収するのだ」
「御意、監査官」
レイヴンは鉄の仮面の奥から、低く、冷徹な機械の如き声で応じた。その瞳には感情の揺らぎなど微塵も存在しない。クロノスの「法と秩序」を執行することのみをプログラムされた戦闘マシーンの佇まいだった。
「それと、骸原には『時間税』の上納ノルマを二倍に引き上げるよう圧力をかけておいた。時間が枯渇すれば、貧民どもは暴動を起こす。そうなれば、ネズミは必ず巣穴から出てこざるを得なくなる」
時任は喉の奥でくくくと笑った。他者の命を極限まで絞り出し、絶望の淵に追い詰めるプロセスそのものを楽しむ、底知れぬ邪悪さがそこにあった。
同じ頃、クラウス診療所の周囲には、異様な気配が漂い始めていた。
泥水に濡れた古いトタン壁の影。ボロボロの浮浪者の衣服を纏った男が、診療所の勝手口をじっと見つめていた。男の名は黒蛇(クロヘビ)。刻命会がスラム全域に放った、陰湿な密偵だった。
黒蛇は自身の「存在確率の希薄化技術(シャドウ・フェイズ)」を極微量だけ起動させていた。自身の時間軸を現実世界から数ミリ秒だけずらすことで、足音や体温、さらには殺気すらも周囲の空間に拡散させ、完全に気配を消す技術。彼の瞳は、暗闇の中で獲物を狙う蛇のように細められていた。
(あのボロ診療所……ボイラーの排気から、不自然な『高周波の時間波形』が漏れ出ている。ヤードから逃げ帰ったヤブ医者どもが、何かを隠し持っているのは間違いない)
黒蛇は懐から、超小型の遠隔盗聴・録画カメラを取り出すと、音もなく勝手口の扉へと近づいた。
一方、診療所の地下室では、重苦しい空気が流れていた。
簡易ベッドに横たわる時任刹那の肉体は、極限の疲労と時間毒の侵食に悲鳴を上げていた。先の戦闘で心臓に刻まれた熱瘢痕が、呼吸をするたびに鋭い痛みとなって胸を突き刺す。彼の髪の右側は雪のように白く染まり、右目の視界は霧がかかったように不鮮明だった。
「先生、まだ動いちゃダメだ!」
弟子のレンが、心配そうに刹那の肩を押さえた。その手には、リン特製の「蒼い液薬」の空き瓶が握られている。ロイから無償で提供された無汚染血液の輸血により、刹那の体温は辛うじて維持されていたが、生物学的年齢「四十九歳」の刻印は、彼の肉体を確実に蝕んでいた。
「……ジン、ヤードから回収した『遮蔽合金のスクラップ』の配置は終わったか?」
刹那はかすれた声で、部屋の隅でショットガンの手入れをしていたジンに問いかけた。
「ああ、シンが地下室の壁全体にスクラップを溶接してくれた。これで、地下室の中でどれだけ時間操作を行っても、砦の『時間波形探知機(タイム・スキャナー)』には検知されないはずだ」
ジンは赤いバンダナをきつく締め直しながら、鋭い眼光で応じた。シンは地下の作業台で、回収した真鍮製の「プロトタイプデバイス用予備バッテリー」を熱心に解析している。だが、そのバッテリーはまだ未調整であり、デバイスにインストールすることはできていなかった。
「じいさんが命がけで回してくれたバッテリーだ。無駄にはできねえからな」
ジンはテツへの恩義を噛み締めるように呟いた。刹那もまた、テツが犠牲にした遮蔽合金の価値を理解していた。だからこそ、この診療所を、そしてスラムの住民たちを絶対に守り抜かなければならないという、医師としての、そして「因果の逆行者」としての静かな闘志が、彼の胸の奥で燻っていた。
その時だった。一階の廊下から、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「だ、誰かいるの!?」
レンが不審な気配を察知し、錆びたメスを手に取って地下室の扉を開けようとした。
「待て、レン! 一人で行くな!」
刹那が制止するよりも早く、レンは階段を駆け上がっていった。レンは診療所のボランティアスタッフとして、また刹那の弟子として、不審な侵入者を追い払おうと焦っていたのだ。
一階の薄暗い廊下。勝手口の扉が微かに開き、冷たい酸性雨の風が吹き込んでいた。レンは周囲を見回したが、そこには誰もいないように見えた。しかし、黒蛇はすでに「存在確率の希薄化技術」を用いて、レンのすぐ目の前の影に潜んでいたのだ。レンの拙い接近は、プロの密偵である黒蛇にとって、ただの格好の標的に過ぎなかった。
(ガキが……。やはり、この地下に何かがあるな)
黒蛇は気配を完全に消したまま、レンの背後をすり抜け、ボイラー室へと滑り込んだ。ボイラー室の最奥、錆びついた古いボイラーの裏側には、刹那たちの地下研究室へと続く隠し扉が存在する。黒蛇はその扉の前にしゃがみ込み、特殊なピッキングツールを取り出してロックに触れた。カチリ、と金属の擦れる微かな音が響く。
地下のベッドの上で、刹那の脳裏に激しい静電気のようなノイズが走った。
(――『死の予感(デス・フラッシュ)』か!?)
いや、死のビジョンではない。だが、網膜の端で、地下室の隠し扉が抉じ開けられ、自分たちのすべての秘密――デバイス、クロノ・ドライブ、そして予備バッテリーが、黒蛇の手によって刻命会本部に露呈する最悪の未来の確率が、急激に跳ね上がっているのを、彼の肥大化した松果体が物理的に知覚していた。
「……黒蛇が、地下室の前にいる」
刹那の言葉に、ジンの表情が凍りついた。
「何だと!? クソ、いつの間に侵入しやがった!」
「待て、ジン。今ここで銃を抜いて戦えば、ボイラー室は破壊され、銃声で周囲の密偵どもに診療所の関与が完全に露見する。時守の探知機がスラム全域をスキャンしている今、大々的な戦闘は自滅を意味する」
刹那はベッドから強引に上体を起こした。心臓が激しく脈動し、喉の奥から鉄の味が競り上がってくる。だが、彼の右目はすでに、冷徹な因果の計算を開始していた。
「アスク、ボイラーの圧力制御バルブの緊急オーバーライドを実行しろ」
『了解。ボイラー内圧、規定値の百八十パーセントまで上昇中』
球体関節の医療ドロイド、アスクが静かに機械アームを操作する。刹那は右目の前髪を払い、自身の「右目の時間知覚」を極限まで解放した。彼の右目の虹彩が、灰色の文字盤のように変化し、不規則に高速回転を始める。
「――『時間流追跡(タイム・トレース)』」
刹那の視界がセピア色に染まり、空気中に残された微細なエントロピーの揺らぎが、青い光の残渣となって浮かび上がった。ボイラー室の暗闇の中、黒蛇が歩いた正確な軌跡が、美しい光の粒子となって診察台の壁を透過して見えた。黒蛇の指先が、隠し扉のダイヤルロックに触れ、鍵が開く――その『三秒前』の因果のベクトルが、刹那の網膜に完璧にマッピングされた。
(あと、三秒。黒蛇がダイヤルを回しきる瞬間に、ボイラーの排気バルブの時間を『一秒巻き戻す』)
刹那は右目の焦点を、ボイラーの排気バルブのボルトへと固定した。全身の血管が、焼け付くような逆流のエントロピーによって軋み始める。口元から一筋の鮮血が流れ落ち、彼の右目の視界が、急激な過負荷によって徐々に真っ赤に染まっていく。
(――今だ)
刹那が脳内でトリガーを引いた瞬間、ボイラー室の排気バルブの時間が「一秒前(バルブが完全に閉鎖され、圧力が限界に達していた瞬間)」へと物理的に巻き戻された。
ドゴォンッ!
不自然な圧力の瞬間逆流により、錆びついた排気バルブが爆音と共に吹き飛んだ。臨界に達していた高温の有毒蒸気が、隠し扉を開けようとしていた黒蛇の顔面と右腕に向けて、至近距離から爆発的に噴出した。
「ぎゃああああああっ!?」
暗闇の中で、黒蛇の絶叫が響き渡った。顔半分と右腕を熱水蒸気によってドロドロに焼かれ、彼の「存在確率の希薄化技術」が強制的に解除される。黒蛇はピッキングツールを落とし、顔を抑えてのたうち回った。
さらに、その爆音に反応したサイバネティクス軍用犬「バディ」が、ボイラー室の影から牙を剥いて突撃した。金属の首輪を震わせ、バディは黒蛇の足首に深く牙を突き立てる。
「ひっ、狂犬が! どけ、退けえっ!」
黒蛇は激しい出血と火傷の痛みに耐えかね、隠し扉の開放を完全に断念した。彼は窓ガラスを蹴り破ると、夜の酸性雨の闇の中へと、血を引きずりながら這々の体で逃げ去っていった。
「……ふぅ、っ、……」
刹那はベッドの上に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。彼の右目からは、過負荷による鮮血が涙のように流れ落ち、視界の半分が真っ赤に染まっていた。心臓の鼓動が不規則に乱れ、生物学的年齢がさらに削られていく感覚が彼を襲う。
「先生!」
レンが慌てて駆け寄り、刹那の右目の血を清拭する。地下室の露見は辛うじて防いだ。ボイラーの破裂という「突発的な事故」に見せかけることで、診療所への直接的な疑惑を曖昧にすることには成功したのだ。
しかし、ジンの表情は依然として険しかった。彼は、逃げ去った黒蛇が残した床の血痕を見つめ、静かに言った。
「黒蛇は生きて逃げた。あの傷だ、刻命会の本部に『診療所のボイラー室に、異常な時間熱源(デバイスの余熱)がある』というデータは確実に持ち帰られたはずだ」
「……ああ。骸原鉄平は、この報告を受ければ、もはや小細工はしてこない」
刹那は、血に染まった右目を細め、冷徹に未来を見据えた。鉄平一派による、診療所の完全な焼き討ち――その最悪のタイムリミットが、すぐ目の前まで迫っていることを、彼は確信していた。
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