死へのカウントダウン
第十三特区の夜を切り裂く酸性雨は、クラウス診療所のトタン屋根を激しく叩き、耳障りな金属音を響かせていた。地下室へと続く錆びついた鉄扉が勢いよく開き、湿った冷気と共に、神代千代が泥まみれの時任刹那を抱きかかえるようにして滑り込んできた。
「レン君! ハインツ先生! 早く、先生が……!」
千代の悲痛な叫び声が、薄暗い地下室の静寂を打ち破る。彼女のセーラー服は泥と雨水、そして刹那が吐き出した黒い血で赤黒く汚れていた。千代自身の鼻孔からも、時間の「観測」に伴う脳への過負荷による赤い血が一筋、顎へと流れ落ちている。しかし、彼女は自分の痛みなど意にも介さず、ただ腕の中の冷たくなっていく肉体をベッドへと横たえた。
「先生ッ!」
十六歳の弟子、レンが血相を変えて飛び出してきた。ベッドの上の刹那は、目を疑うほどに無残な姿だった。実年齢二十四歳のはずの彼の髪は、右側が完全に雪のような白髪へと変貌し、肌は土気色に乾燥している。何より、その胸部に埋め込まれたプロトタイプ「生体時間維持デバイス」が、不吉な赤色に激しく明滅し、バチバチと黒い火花を散らしていた。
診療所の隅に控えていた球体関節を持つ旧式医療補助ドロイド「アスク」が、軋む駆動音を立てて刹那の傍らに滑り寄る。機械の瞳が赤く点滅し、合成音声が冷酷な数値を弾き出した。
『警告。患者の心拍数急落。百二十……八十……四十……。心筋の線維化および急激な機能不全を検知。バイタル、フラットに移行します。十、九、八……』
「心停止!? そんな、嘘だろ……!」
レンの指先が小刻みに震える。チカという少女の命を救うため、広場全体の時間を「十秒間」も巻き戻した代償――それは、刹那の心臓と肝臓を一気に十歳分老化させ、累計二十五年もの寿命を奪い去るという、等価交換の容赦なき鉄槌だった。
「レン、落ち着け! アスク、強心剤を投与しろ!」
地下室の奥から、煙草の煙を吐き出しながら現れたのは、隣区の闇病院を経営する老医師ハインツだった。彼はクラウスの旧友であり、刹那の肉体の限界を誰よりも理解している男だ。ハインツの鋭い怒声に、アスクが即座に反応する。
『了解。アドレナリン及び強心剤、投与します』
アスクの金属アームから注射針が伸び、刹那の静脈へと突き刺さった。しかし、薬剤が注入された直後、アスクのモニターには非情なエラー表示が点滅した。
『警告。薬剤のレセプター機能不全。心筋細胞が部分的に硬化・老化しているため、化学的刺激に対する反応が見られません。効果ゼロ』
「心臓が硬くなってる……!? 薬が効かないなんて……」
レンは絶望に目を見開いた。十秒の逆行による老化は、刹那の心筋を物理的に「老人のそれ」へと変貌させていたのだ。若い肉体ならば機能するはずの強心剤も、老衰した心臓にはただの無駄な水分に過ぎない。
「アスク、除細動器だ! レン、シンが作った『リブーター』を持ってこい!」
ハインツの指示に、レンは弾かれたように動き、壁際に置かれていた重厚な緊急バックパック――携帯用簡易心肺蘇生器「リブーター」を掴み取った。ジャンク屋のシンが、古い除細動器を改造して作り上げた、刹那の即死回避専用のデバイスだ。
「電極パッド、装着完了! チャージ、二百ジュール!」
レンは刹那の乾燥した胸部にパッドを叩きつけた。デバイスの赤い明滅が、外からの物理的干渉を拒絶するように激しさを増す。
「放電します! 離れて!」
バチィッ! と激しい放電音が地下室に響き渡り、刹那の身体が大きく跳ね上がった。しかし、その瞬間、刹那の胸の生体時間維持デバイスから目に見えない衝撃波が放たれ、リブーターの電撃を完全に中和してしまった。火花が散り、リブーターの基盤から細い煙が立ち上る。
『エラー。外部からのエネルギー干渉を検知。デバイスの防衛プロトコルが作動し、電流を時間軸のバグとして無効化しました』
「だめだ……! デバイスの時間干渉のせいで、電気ショックが心臓に届かない!」
レンは泣きそうな声を上げた。デバイスは刹那の肉体を「保護」するために、外部からの急激な変化(電気ショック)を異物とみなして、その因果を巻き戻し、無効化しているのだ。これでは、心臓が停止したまま肉体が崩壊していくのをただ見ていることしかできない。
「ハインツ先生、どうすればいいんだよ!? このままじゃ、先生が本当に死んじゃう!」
ハインツは咥えていた煙草を床に吐き捨て、刹那の胸元のデバイスを鋭い眼光でにらみつけた。
「デバイスの時間干渉を一時的にフリーズさせるしかない。レン、リンの『蒼い液薬』はあるか!」
「えっ……? はい、でもあれは先生の臓器老化を早める副作用が……」
「背に腹は代えられん! あの液薬は脳と神経系に局所的な時間遅延を発生させる。それをデバイスのキャリブレーションポートに直接注入するんだ。デバイスのエネルギー循環を『凍結』させ、その隙に物理的なショックを叩き込む!」
ハインツの言葉に、レンは迷いを捨てた。棚から闇の調剤師リンが精製した不気味なコバルトブルーの液薬「蒼い液薬」を取り出し、注射器に吸い上げる。刹那の胸元、真鍮製のデバイスの側面に隠された極小のメンテナンスポート。レンの手が震える。
「落ち着け、レン。お前はクラウスの弟子だろう」
ハインツの低い声が、レンの背中を支えた。レンは深く息を吸い、ポートの奥へと正確に針を突き刺した。プランジャーを押し込むと、蒼い液薬がデバイスの内部回路へと注入されていく。
瞬間、デバイスの不気味な赤い発光が、ピキリと凍りつくように静止し、冷たい青色の光へと変色した。黒い火花が消え、時間干渉フィールドが一時的に消失する。残された時間は、わずか五秒。
「今だ、レン! 最大出力で撃て!」
「うおおおおおッ!」
レンはリブーターの再起動ボタンを力任せに押し込んだ。瞬間、チャージされた高圧電流が、デバイスの防壁をすり抜けて刹那の心筋へと直接叩き込まれた。
バチィィィンッ!
激しい放電が刹那の肉体を震わせ、焦げたオゾンの臭いが地下室に立ち込める。刹那の背中がベッドから大きく浮き上がり、そして力なく崩れ落ちた。
静寂が、地下室を支配する。アスクのモニターが、静かに波形を描き始めた。
トクン……。
かすかな、しかし確かな鼓動の音が、スピーカーから漏れた。波形が緩やかに立ち上がり、不規則ながらも一定の周期を刻み始める。
『バイタル、微弱ながら回復。心拍再開。同調率三十パーセントに復帰』
「やった……、息を吹き返した……!」
レンはその場にへたり込み、涙を拭った。千代もまた、胸をなでおろすようにして刹那の手を握りしめる。だが、ハインツの表情は依然として険しいままだった。
「まだ安心するな。血流が足りていない。心臓が弱りすぎて、全身に酸素が行き渡っていないぞ。このままでは脳死に至る」
「俺の血を使ってください!」
地下室の扉の影から、一人の青年が歩み出てきた。スラムの若者、ロイだった。彼はかつて刹那に怪我を無償で治療してもらった恩があり、診療所の危機を聞きつけて駆けつけていたのだ。
「俺の肉体は健康だ。時間ドラッグも、エキスの汚染も受けていない。先生を救えるなら、いくらでも抜いてくれ!」
「助かる、ロイ。お前の『無汚染血液』があれば、心筋の細胞壊死を食い止められる」
ハインツは迅速に輸血チューブを接続し、ロイの若々しく健康な血液が、チューブを通じて刹那の静脈へと流れ込み始めた。新鮮な生命力を得たことで、刹那の右目の灰色の文字盤虹彩が静かに収縮し、元の深い黒色へと戻っていく。呼吸が、徐々に深く、安定したものへと変わっていった。
現実世界での死闘が繰り広げられる中、刹那の意識は、深い暗黒の深淵を彷徨っていた。
そこは、光も音も存在しない、凍りついた時空の隙間だった。頭上を見上げると、巨大な黄金の文字盤が、不気味な音を立てて逆回転しているのが見える。それは、かつて彼が全宇宙を統べていた時の、絶対的な神権の残影だった。
「愚かな器よ」
暗黒の奥から、自らのものと同じでありながら、冷徹極まりない「声」が響き渡った。黄金の文字盤の前に、光り輝く巨大な影が浮かび上がる。それは、刹那の精神世界の最深部に眠る、かつての「原初の時の神」の意志だった。
「矮小なる人間の命を救うため、自らの神聖なる臓器を老いさらばえさせるとは。お前は時間の神でありながら、時間の流れという絶対の秩序に逆らい、自らを滅ぼそうとしている」
神の残影は、冷酷な黄金の瞳で刹那の意識を見下ろした。
「等価交換の法則からは、何者も逃れられぬ。お前が人間としての温もりに溺れ、目の前のゴミ屑どもを救うたびに、お前の内臓は砂へと還る。お前が神の座に戻る前に、その器は完全に崩壊し、虚無へと消え去るのだ。……今すぐその無駄な医師の白衣を脱ぎ捨て、冷徹なる時間の秩序へと回帰せよ」
その言葉は、生物としての根源的な死の恐怖を、刹那の魂に直接突き刺してきた。巻き戻すたびに、自分の肉体が崩壊していく恐怖。ハルカのように、自分もまた砂になって消えるのではないかという絶望。
だが、刹那の意識は、その冷徹な神の威圧を真っ向から見据えた。
「……黙れ」
刹那は静かに、しかし揺るぎない意志を込めて言い返した。
「私は、神の座に戻るために生きているのではない。目の前で消え去ろうとする命を、ただ見過ごすことができないだけだ。医師とは、患者に与えられた時間を守る盾。ドクター・クラウスが遺したその信念を、私は決して捨てない。……たとえ、この肉体が砂になろうとも、私は私の時間(いのち)を使って、彼らの明日を繋ぎ止める」
刹那がそう宣言した瞬間、黄金の文字盤が激しく軋み、精神世界が砕け散るようにして光に包まれた。
「――はぁっ!」
刹那は大きく息を吸い込み、ベッドの上で目を開けた。視界に飛び込んできたのは、古いコンクリートの天井と、涙を浮かべたレン、そして自身の手を握りしめる千代の姿だった。胸のデバイスは、静かなコバルトブルーの光を取り戻し、ロイの血液が身体を温めていくのが分かった。
「先生……! よかった、本当に……!」
レンが刹那の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。刹那は動かない左手で、レンの頭を優しく撫でた。
「すまない、レン……。心配をかけた」
「無茶をしおって、この大馬鹿者が」
ハインツが腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。しかし、その手には、刹那の脳構造をスキャンしたホログラムデータが握られていた。ハインツの表情は、驚愕と、そして深い絶望に満ちていた。
「ハインツ先生……、私のスキャン結果はどうでしたか」
刹那は医師としての冷静な声で尋ねた。ハインツはため息をつき、ホログラムデータを刹那の目の前に展開した。そこには、異常なまでに肥大化した脳の松果体が、青い時間エネルギーのパルスを放っているビジョンが映し出されていた。
「お前の脳構造の異常だ。松果体が通常の十倍に肥大化し、脳幹から全身の神経系に向けて、時間操作の波動が常時放たれている。お前が『時間逆行』を行えるのは、この異常な脳が時間エネルギーを物理的に知覚・制御しているからだ」
ハインツはホログラムの数値を指し示した。そこには、赤く染まった心臓と肝臓のグラフィックが表示されている。
「だが……、肉体は完全に限界を超えている。今回の十秒の逆行による老化ダメージ、そしてデバイスの拒絶反応による瘢痕組織の形成……。お前の心臓と肝臓の生物学的年齢は、すでに『四十九歳』に達している」
ハインツの非情な宣告が、地下室の冷たい空気をさらに凍りつかせた。
「実年齢二十四歳のお前の肉体に、四十九歳の、それもボロボロに傷ついた臓器が埋め込まれている状態だ。いいか、刹那。お前の肉体の絶対的な老化デッドラインは『七十四歳』――つまり、あと二十五年分しか、お前の臓器は老化に耐えられない」
ハインツは刹那の肩を強く掴み、その濁った右目を真っ向から見据えた。
「あと数回……、いや、一度でも無理な広範囲の逆行を行えば、お前の心臓は完全に石灰化し、砂となってその場で即死する。お前はすでに、死へのカウントダウンの渦中にいるんだ」
死へのカウントダウン。その冷酷な現実を突きつけられても、刹那の黒い瞳は、微塵も揺らぐことはなかった。彼は静かに、ベッドの傍らに置かれた「動かない金色の懐中時計」を見つめ、誓いを新たにするのだった。時間の絶対神としての覚醒と、医師としての死へのデッドライン。その境界線で、刹那の新たなる戦いの幕が上がろうとしていた。
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