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記憶を紡ぐ観測者

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第十三特区の冷たい雨は、容赦なく時任刹那の頬を濡らし、白衣の裾を泥で汚していく。時計台広場のネオンが、血のような赤と病的な青を交互に放ちながら、雨粒のカーテンを不気味に透かしていた。


「〇〇:〇〇:〇二」


 刹那が抱きかかえる少女、チカの手首に埋め込まれたデジタルメーターは、最期の瞬間に向けて非情な点滅を繰り返している。強制回収グローブによって生命時間を根こそぎ吸い取られた彼女の肉体は、すでに末梢神経から冷たくなり始めていた。肌は弾力を失って土気色に変色し、細い指先がかすかに震えている。あと二秒。一呼吸置く間もなく、この幼い命は世界の物理法則に従って「灰の砂」へと崩壊し、酸性雨の中に溶けて消え去る運命にあった。


「おい、ヤブ医者……! そいつの時間はもう終わりだ!」


 数メートル先で、時間加速の靴を起動させた骸原鉄平が、過熱放電の青い火花を散らしながら獰猛に笑っている。彼の目には、刹那の抵抗が滑稽な悪あがきにしか映っていない。スラムの人間にとって、時間は絶対的な支配の通貨であり、それを奪うことこそが刻命会の、ひいてはクロノスの絶対的な正義なのだから。


「〇〇:〇〇:〇一」


 死のデッドラインが、刹那の網膜に赤いノイズとなって焼き付く。脳幹が熱い鉛を流し込まれたように激しく脈動し、耳鳴りが嵐の音をかき消していく。


(ハルカ……)


 刹那の脳裏に、かつて同じように冷たくなっていった最愛の妹の姿が重なった。あの時、自分は何もできなかった。ただ、動かなくなっていく妹の手を握りしめ、静止していく金色の懐中時計を見つめることしかできなかった。


(だが、今は違う。二度と、目の前の命を見捨てないと誓ったはずだ)


 刹那は自らの胸に右手を強く押し当てた。皮膚の下で、埋め込まれたプロトタイプ「生体時間維持デバイス」が、主人の決意に呼応してドクン、ドクンと激しく、そして不気味な脈動を開始する。デバイスのスリットから漏れ出す光が、穏やかなコバルトブルーから、警告を告げる血のような赤色へと変色していく。


「生体時間逆行術式――発動」


 刹那の唇から漏れた静かな呟きは、豪雨の音に掻き消された。しかし、その瞬間、世界の歯車が完全に噛み合わなくなった。


 カチ、という巨大な時計の針が戻るような幻音が、広場全体に響き渡る。次の瞬間、世界から一切の色彩が失われ、すべてが灰色の濃淡に染まった。降り注いでいた酸性雨が空中でピタリと静止し、重力から解き放たれたように、一滴、また一滴と天に向かって逆流を始める。泥水の中に飛び散っていた赤い血の雫が、重力を無視して空中に浮き上がり、チカの裂けた血管の中へと吸い込まれていく。


 これこそが、因果律に直接干渉する禁忌の異能『生体時間逆行術式』。世界の熱力学第二法則を力ずくでねじ曲げ、確定した過去を書き換える神の権能の断片だった。


「十、九、八……」


 刹那は脳内で正確に秒数をカウントダウンする。逆行の範囲はチカの肉体を中心に、時計台広場全体の十秒間。巻き戻る時間の流れの中で、刹那の指先から灰色の砂のような光の粒子が放たれ、チカの身体を包み込んでいく。彼女のメーターが、巻き戻る時間の砂時計に従って「〇〇:〇〇:〇二」、「〇〇:〇〇:〇五」、「〇〇:〇〇:一〇」と、逆回転を始める。老婆のように萎びかけていた彼女の肌に、みるみるうちに瑞々しい張りが戻り、体温が内側から満ちていく。


 しかし、奇跡には必ず、それと同等の残酷な対価が求められる。等価交換の法則は、時間の絶対神であった刹那に対しても容赦なく牙を剥いた。


「ぐっ……、あああああッ!」


 逆行が完了する瞬間のエントロピーの逆流が、見えない灰色の稲妻となって刹那の肉体を直撃した。胸の生体時間維持デバイスが激しい黒い火花を散らし、過負荷による異音を立てる。デバイスの同調率はわずか三十パーセント。逆流した老化のエントロピーの七割が、デバイスの防壁を突き破り、刹那の心臓と肝臓へと直接突き刺さった。


 心筋細胞が急速に線維化し、肝小葉が機能を停止していく。内臓が内側から焼け付くような、生物学的な崩壊の痛みが刹那の全身を襲った。彼の肝臓と心臓が、一度に「十歳分」急速に老化していく。実年齢二十四歳の彼の肉体が、内側から強制的に老いへと引きずり込まれる恐怖。呼吸が完全に停止し、喉の奥から熱い塊がせり上がってくる。


「ガハッ……!」


 刹那は口から大量のどす黒い酸化した血を吐き出し、コンクリートの泥水の中に両膝をついた。視界が急速に狭まり、右生え際の白髪がさらにその領域を広げていく。右目の灰色の文字盤虹彩が、過負荷によって激しく明滅し、右目の視力が著しく低下していくのが分かった。


 だが、書き換えられた「現在」は、すでに確定していた。


「は……? 空振り……だと?」


 逆行が完了した瞬間、書き換えられた現在において、鉄平は混乱の極みにあった。彼の認識では、完璧に刹那の脳幹を狙って放ったはずの回し蹴りが、なぜか空を切り、自身が泥水の中に不格好に着地している。十秒前の位置に強制的に戻された鉄平には、時間を巻き戻されたという自覚が一切ない。ただ、自分の超高速攻撃が不自然に外れたという事実だけが、彼の傲慢な脳を混乱させていた。


「おい、お前ら! 何をしてやがる、そのガキを早く――」


 鉄平が振り返った時、チカを拘束していたはずの構成員は、すでにスカルペルでグローブを破壊され、泥水の中でのたうち回っていた。そして、チカの身体は、すでにそこにはなかった。


「先生、チカは俺が預かった!」


 時計台の影から飛び出してきたジン・ヴァレンティンが、完全に生命力を回復したチカの身体を逞しい腕で抱きかかえ、スラムの暗い路地裏へと一瞬にして逃走していく。ジンの動きに迷いはなかった。彼は刹那が何を行ったのか完全には理解していなかったが、この一瞬の隙が、命を救うために作られた唯一の奇跡であることを見抜いていたのだ。


「クソがッ! 追え! 全員追うんだよ!」


 鉄平が激昂し、雨の中に怒号を響かせる。構成員たちが一斉にジンの後を追って走り出し、広場の群衆もまた、何が起きたのか分からないまま、一時の混乱から逃れるように散り散りに去っていく。時間の巻き戻しによって、広場にいたすべての一般住民の記憶は書き換えられ、彼らにとっては「鉄平が攻撃を外し、その隙にリベリオンがチカを救出して逃げた」という現実だけが残されていた。


 激しい雨の音だけが、再び時計台広場を支配していく。


「はぁ、はぁ……っ……」


 刹那は泥水に塗れたコンクリートの上に崩れ落ち、胸を強く掻きむしりながら激しく喘いだ。呼吸をするたびに、繊維化した肺が悲鳴を上げ、心臓が不規則な破裂音を立てて波打っている。吐き出した黒い血が、雨水に薄められて足元に広がっていく。全身の痛覚が、死への恐怖を生物学的な信号として脳に送り続けていた。指先が一ミリも動かない。意識の端が、暗い虚無の淵へと引きずり込まれていく。


(ここまで、か……。デバイスの調整が……間に合わなければ、私の器は……)


 冷たい酸性雨が容赦なく刹那の顔に降り注ぐ。誰もいないはずの広場の中心。自ら蒔いた因果の反動に押し潰され、孤独な死を迎える。そのはずだった。


 しかし、泥水に突っ伏した刹那の視界に、一対の、泥に汚れた古びた靴が映り込んだ。


 カサリ、と静かな足音が雨音に混ざる。その足音は、逃げ惑う群衆のそれとは明らかに異なり、確固たる意志を持って刹那へと近づいてきた。


「――巻き戻したのですね、先生」


 鈴を転がすような、しかしどこか超然とした静かな少女の声が、刹那の耳元に届いた。


 刹那は微かに残る視力を振り絞り、顔を上げた。そこに立っていたのは、十五歳前後の少女だった。ボロボロのスラムの街において、少し古びたセーラー服を端正に着こなし、黒髪のおさげを濡らした少女――神代千代。彼女は、静かに刹那の傍らに膝をつき、その華奢な手で刹那のボロボロの白衣の肩を優しく抱き起こした。


「千、代……なぜ、お前が……。逃げ、ろ……」


 刹那はかすれた声で警告しようとした。だが、彼の言葉は、千代の瞳を見た瞬間に凍りついた。


 千代の澄んだ瞳は、普段の黒い色彩を失い、神秘的な黄金色に輝いていた。そして、その瞳の奥には、時計の文字盤のような光の紋章が浮かび上がり、現実の時間とは異なる速度で静かに回転していたのだ。


「私は逃げません。だって、私は観測者ですから」


 千代は静かに微笑んだ。その瞳に宿る黄金の文字盤は、時間の巻き戻しという因果の矛盾を完全に認知し、保持していることの物理的な証拠だった。


 時間の絶対神である刹那が時間を巻き戻した時、世界全体の記憶と因果は再構成される。しかし、この世界でただ一人、神代千代だけは、書き換えられる前の「失われた時間」の記憶を完全に保持し、何が起き、誰がその代償を支払ったのかを正確に理解していた。


「あなたの心臓の音が、とても苦しそうに響いています。……また、ご自分の命を差し出したのですね。あの女の子を救うために」


 千代は、自身の小さな手のひらを刹那の胸の生体時間維持デバイスの上にあてがった。彼女の手を通じて、デバイスの異常な振動が微かに和らいでいく。千代の瞳の奥の文字盤が、刹那の右目の文字盤と共鳴するように、静かに明滅を繰り返していた。


 これこそが、因果の特異点(アノマリー)――神代千代の真の姿だった。彼女は、刹那が改変した世界線の矛盾をすべて引き受け、記憶を紡ぎ続ける唯一のバディ。しかし、その温かい微笑みの裏で、千代の鼻孔から一筋の赤い血が静かに流れ落ち、泥水へと滴り落ちていく。


 刹那は、薄れゆく意識の中でそれを見た。千代が前の時間線の記憶を保持するたびに、彼女の脳細胞にもまた、世界の検閲による深刻な負荷が蓄積しているという残酷な真実を、医師としての本能が瞬時に察知した。


「千代……お前の、頭部、は……」


「私は大丈夫です。先生を、ここでは死なせません」


 千代は刹那の冷たくなっていく手を強く握りしめ、黄金の瞳で広場の闇の奥を見据えた。鉄平一派の怒号が、雨音の向こうから再び近づいてくる。防衛能力を完全に失った最弱の医師を抱え、観測者の少女は、迫り来る刻命会の牙から彼を救い出すための、新たなる因果の糸を紡ぎ始めるのだった。

HẾT CHƯƠNG

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