時計台広場の審判
どす黒い雲から降り注ぐ酸性雨が、錆びついたトタン屋根を激しく叩き、スラムの空気を鉄錆とオゾンの臭いで満たしていた。第十三特区の中央に聳える「時計台広場」。その中心にある巨大な時計台は、歪んだ文字盤の針を不規則に痙攣させながら、まるで世界の終わりを告げる秒読みのように、冷酷なカチカチという音を響かせている。
「頼む、頼むから許してくれ……! 来月には必ず、倍にして払うから!」
泥水に塗れたコンクリートの上で、一人の男が額を擦りつけて泣き叫んでいた。その男の背後では、刻命会の回収班に羽交い締めにされた八歳の少女――チカが、恐怖に瞳を大きく見開いて震えている。
「来月だと? おいおい、耳の穴にゴミでも詰まってんのか?」
派手な金髪を乱し、高級ブランドの毛皮コートを羽織った男――骸原鉄平(ムクハラ・テッペイ)が、下品な笑みを浮かべながらチカの前に歩み寄った。耳にいくつも嵌められたピアスが、広場を照らす不気味なネオンの光を反射してぎらぎらと輝いている。
「刻命会のルールは絶対だ。時間税の支払いが一日遅れるごとに、残余寿命から『十時間』を没収する。払えねえなら、そのガキの細い腕から直接吸い上げるだけの話だろ」
「そんな……チカはまだ八歳なんだ! そんなことをされたら、この子は死んでしまう!」
男の絶望的な叫びを、鉄平は鼻で笑い飛ばした。彼はチカの細い腕を乱暴に掴み上げ、その手首に埋め込まれた青白いデジタルメーターを睨みつける。
「安心しろよ。全部は奪わねえ。……いや、やっぱり全部奪って『寿命電池』にしてやるのもいいな。叔父貴の心臓を維持するためだ、お前らみたいな泥水すすって生きてる貧民の数日なんて、一秒の価値もねえんだよ」
鉄平の合図で、黒い防護服を着た回収班の構成員が、不気味な吸引ノズルが突き出た「強制回収グローブ」をチカの小さな胸元に押し当てた。チカの手首のメーターが激しく点滅を始め、その数字が恐ろしい速度で減少し始める。
「いやあああ! お父さん! 痛い、痛いよぉ!」
少女の悲鳴が、雨音を引き裂いて時計台広場に響き渡る。周囲を取り囲む「分級保有者」の貧民たちは、恐怖に身をすくめ、ただうつむいて嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。逆らえば、その場で自分の時間も吸い尽くされ、砂となって消える。それが、この第十三特区を支配する冷酷な「時間搾取」の掟だった。
「そこまでにしてもらおう」
その時、広場の端から、低く、冷徹なまでに静かな声が響いた。
群衆がざわめき、モーセの十戒のように道が開く。そこから歩み出てきたのは、ボロボロの白衣を羽織った青年――時任刹那(トキトウ・セツナ)だった。雨に濡れた黒髪の右側は真っ白に染まり、前髪の隙間から覗く右目は、灰色の文字盤のような虹彩を宿して鈍く光っている。
「先生……!?」
人込みの影から、ショットガンを構えたジン・ヴァレンティンが驚愕の声を漏らした。ジンは、妹リサの治療を終えたばかりの刹那が、これ以上の無茶をするのを止めようと追ってきたのだ。だが、刹那の歩みは止まらない。
「あぁ? 誰かと思えば、赤虎の右手を壊したっていう噂のヤブ医者じゃねえか」
鉄平はチカを構成員に預け、首を鳴らしながら刹那を睨みつけた。
「身の程を知らねえ医者が、何の用だ? お前もその薄汚い白衣ごと、砂にしてやろうか?」
「私は医師だ。患者を目の前で殺させるわけにはいかない。その少女を解放しろ。彼女の時間は、彼女のものだ」
刹那は無表情のまま、白衣の袖口に隠した「クロノ・スカルペル」のグリップを静かに握りしめた。彼の脳内では、すでに極限の戦術計算がミリ秒単位で開始されていた。
(鉄平の足元……あのブーツは、クロノス軍事開発部のプロトタイプ『時間加速の靴』だ。局所時間加速者(アクセラレーター)の能力を機械的に増幅させている。まともに動けば、常人の二倍の速度で襲いかかってくる。私の現在のデバイス同調率はわずか三十パーセント。無駄な動きは一瞬で死に繋がる)
「ハッ! 正義の味方ごっこかよ。反吐が出るぜ!」
鉄平が獰猛な笑みを浮かべ、右足のヒールを強く地面に踏み鳴らした。瞬間、彼のブーツの側面に取り付けられた超小型の時間結晶が青く発光し、激しい放電のような光の粒子が彼の両脚を包み込んだ。
シュウウウ、とコンクリートの泥水が一瞬で蒸発し、白い蒸気が立ち上る。
「消えろ、ヤブ医者!」
鉄平の身体が、視界から完全に「消失」した。
常人の動体視力を遥かに超越した、二倍の時間加速。鉄平の踏み込んだ地面の泥水が、まるで静止画のように空中に固定された瞬間、刹那の死角である左後方から、大気を引き裂く凄まじい風圧が迫る。鉄骨をも一撃で粉砕する、超高速の回し蹴り。ターゲットは、刹那の脳幹だ。
だが、その蹴りが到達する「一秒前」。
刹那の右目の網膜に、激しいテレビの砂嵐のようなノイズが走った。視界が真っ赤に染まり、自身の頭部が鉄平の蹴りによって無残に粉砕され、白い脳漿と血反吐が泥水に散る「死のビジョン」が、脳裏に直接投影される。
――死の予感(デス・フラッシュ)感知トリガーが、強制起動したのだ。
「――そこか」
刹那は思考よりも早く、肉体の生存本能を極限まで開発された「神の知覚」と同調させた。蹴りが彼の側頭部に接触するわずか「〇・二秒前」、彼は一切の無駄な動作を排し、垂直に体勢を低く沈めた。
ゴオオオオッ!
頭上を、鉄平のブーツが通過していく。加速された大気の刃が、刹那の白衣の肩口を切り裂き、背後の錆びついたドラム缶を真っ二つに両断した。凄まじい金属音が広場に響き渡る。
「なっ……!? 躱しただと!?」
鉄平の顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。時間加速の靴による超高速の奇襲を、事前の予備動作すらなしに完璧に回避されたことなど、彼の格闘人生において一度もなかった。
「化け物め、二撃目で――」
鉄平が着地し、再び軸足を加速させようとしたその瞬間。
ズドォン!
時計台の陰から、鼓膜を震わせる爆音が響いた。ジンの放ったショットガンの特大スラッグ弾が、鉄平の足元のコンクリートを直撃し、激しい火花と砕け散った石片が鉄平の視界を遮った。
「チッ! リベリオンのネズミが!」
鉄平が反射的に顔を覆い、わずかに体勢を崩す。刹那はその一瞬の隙を逃さなかった。泥水を蹴り、低く滑り込むようにしてチカを拘束している構成員の元へと突進する。
「させるか!」
構成員が慌てて強制回収グローブのノズルをチカに突き立てようとする。だが、刹那の右手はすでに白衣の袖口から「クロノ・スカルペル」を引き抜いていた。刃先から極微細な青いレーザー状の時間遅延波動が展開される。
キィン、という澄んだ金属音と共に、スカルペルの刃先がグローブの吸引回路のバルブを正確に切り裂いた。分子結合を一時停止された金属のパーツが、火花を散らしてバラバラに崩落する。
「ぎゃあああ! 俺の手が!」
回路のショートによる時間逆流を浴びた構成員が、悲鳴を上げてチカを放り出し、泥水の上に転がった。刹那はすかさずチカの小さな身体を左腕で抱き寄せ、自らの背中で庇う。
「チカ、もう大丈夫だ」
だが、安堵の言葉をかけた刹那の視線が、チカの手首に留まった瞬間、彼の全身の血の気が一瞬で引いた。
チカの手首のデジタルメーターは、強制回収の直撃を受け、すでに「00:00:08」を刻んでいた。チカの小さな身体は急速に体温を失い、肌は土気色に変色し、瞳の光が急速に失われつつある。手首の数字は、無慈悲に、そして冷酷に減少を続けていく。
「00:00:06」
「00:00:05」
「00:00:04」
物理的な蘇生や、通常の医療ナノマシン溶液の投与など、到底間に合わない。あと数秒で、この少女の心臓は完全に停止し、その肉体は灰の砂となって、この酸性雨の中に溶けて消えてしまう。
「おい、ヤブ医者……! そいつの時間はもう終わりだ! お前がどれだけ足掻こうが、スラムのガキの命なんて、最初から砂時計の砂と同じなんだよ!」
足元の泥を払い落とした鉄平が、再び時間加速の靴を起動させ、獰猛な笑みを浮かべながら近づいてくる。
「00:00:03」
チカの手首のメーターが、血のように赤い光を放ちながら、最期の警告音を鳴らす。周囲の群衆の息を呑む音が、スローモーションのように引き延ばされた静寂の中で響いていた。
刹那は、自らの胸に手を当てた。衣服の下で、埋め込まれた「生体時間維持デバイス」が、まるで主人の決断を促すように、ドクン、ドクンと激しく、不気味に脈動を始めている。
(ここで全身の時間を巻き戻せば……同調率三十パーセントのこの肉体は、等価交換のエントロピーに耐えきれず、心臓と肝臓が十歳分急速に老化する。吐血し、昏睡し、最悪の場合は私が即死する)
だが、刹那の脳裏をよぎったのは、数年前に同じように寿命を吸い尽くされて冷たくなっていった妹ハルカの、あの動かない小さな手の感触だった。
(二度と、目の前の命を見捨てないと誓ったはずだ)
「00:00:02」
刹那は深く息を吸い、右目の灰色の文字盤の虹彩を、極限まで逆回転させた。胸のデバイスが、激しい熱を放ちながら、コバルトブルーから血のような赤色へと変色していく。
「骸原鉄平。……お前たちの時間は、ここで私が巻き戻す」
刹那の指先から、世界の物理法則を根底から覆す、禁忌の灰色の砂嵐が吹き荒れようとしていた。
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