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二十四時間の境界線

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酸性雨がトタン屋根を叩く、くぐもった重い音が、ひび割れた窓ガラスを抜けて診察室に響いていた。第十三特区の夜は、錆びた鉄骨と排気ガスの臭い、そして安っぽいネオンの光に塗り潰されている。


 クラウス診療所の一階ロビーは、先ほどの襲撃の爪痕が生々しく残っていた。叩き割られた受付カウンターの木片が散らばり、床には赤虎(アカトラ)が流した鮮血の跡が黒ずんだシミとなって広がっている。


「……よし、これでよし。ボブ、動くなよ」


 時任刹那(トキトウ・セツナ)は、ボロボロの白衣の袖をまくり、ベッドに横たわる大柄な門番の頭部に最後の縫合糸を結びつけた。医療用自動メス「クロノ・スカルペル」はすでに白衣の袖口に隠され、今は古びた持針器と縫合針だけが彼の指先で正確に蠢いている。


「すまねえ、先生……。俺がだらしねえばかりに、ロビーをめちゃくちゃにされちまって」


 頭部に包帯を巻かれたボブが、痛みに顔を歪めながらも、申し訳なさそうに声を絞り出した。


「気にするな。お前が身を挺して扉を守ってくれたおかげで、奥の病室の患者たちは無事だった。お前は門番としての役目を十分に果たした」


 刹那は冷淡とも取れる平坦な声で言いながら、血のついたガーゼをトレイに放り投げた。その表情には、自らの心臓が悲鳴を上げていることなど微塵も表れていない。だが、彼の白衣の胸元、皮膚の下に埋め込まれた「生体時間維持デバイス」は、衣服越しにも微かに熱を帯び、コバルトブルーの光を明滅させていた。


 先ほど赤虎の銃の撃鉄を「一秒」巻き戻した代償――時間逆行における等価交換の法則により、刹那の心臓は確実に数日分の寿命を失っていた。喉の奥にこびりつく鉄の味を、彼は冷たい唾液と共に無理やり飲み込む。


「先生、お茶を持ってきたわ。……それと、ボブの容態は?」


 診察室の扉を開け、看護師の遠野紗季(トオノ・サキ)が湯気の立つマグカップを手に、心配そうな面持ちで入ってきた。彼女の背後では、弟子のレンが、ロビーの床に転がっていた赤虎の「特殊合金棍棒」を大事そうに抱えて立っている。


「ボブの硬膜外血腫の兆候はない。脳震盪の症状が落ち着くまで、数日は絶対安静だ。レン、その棍棒は地下の研究室へ運んでおけ。シモンに解析させる」


「わかりました、先生!」


 レンは力強く頷くと、急ぎ足で地下への階段へと向かった。あの棍棒に埋め込まれた「低純度タイム・コア」は、現在の刹那にとって、デバイスの稼働時間を維持するための貴重な『燃料』となるはずだった。


「……おや、時を返したお方が、また血を流しておられるねえ」


 診察室の隅、古びた揺り椅子に腰掛けていた老婦人が、かすれた声で呟いた。紗季の祖母、遠野ウメである。八十歳を超える彼女は認知症を患っており、普段は虚空を見つめて手毬を弄んでいるだけだが、時折、スラムの誰も知らない「過去の記憶」を口にすることがあった。


「おばあちゃん、またそんなわけのわからないことを言って……。先生を困らせちゃだめよ」


 紗季が困惑したようにウメの肩を抱くが、ウメは細められた温かい目で、じっと刹那を見つめ続けていた。そして、カサカサに乾いた手で、刹那の白衣の裾を不意に強く掴んだ。


「砂に呑まれる前に、時計の針を進めなさい。時間は万人に平等に流れるもの。それを貪る者たちに、お前の命を差し出してはならんよ……」


 ウメの瞳の奥に、一瞬だけ、澄み切った黄金色の光が宿ったように見えた。だが、次の瞬間には、彼女は再び何事もなかったかのように手毬に視線を戻し、意味のなさない鼻歌を歌い始めた。


(時計の針を進めなさい、か……)


 刹那は自らの左手首を見つめた。そこには、第十三特区の住民全員に埋め込まれた、冷酷なデジタルメーターが青白く発光している。表示されている残余時間は、わずか数日分。このスラムでは、時間が「格差と支配の通貨」として機能している。


「ライフ・ライン配給所」のネオンが窓の外で虚しく明滅しているのが見えた。貧民たちは日々の重労働の対価として、手首のメーターに数時間分の「タイム・クレジット」を転送してもらい、それでようやく「クロノ・エキス」という依存性の高い粗悪な延命剤を買う。そして、刻命会が定めた非道なルール――「スラムの24時間寿命保持禁止令」により、住民が一日以上の寿命を蓄積することは許されない。富を蓄え、スラムから脱出する希望は、物理的に完全に断たれているのだ。


「不条理な世界だな」


 刹那が静かに呟いたその時、診察室の影から、低く、引き締まった声が響いた。


「全くだ。だが、その不条理をただ見過ごすか、それとも牙を剥くかで、人間の価値は決まる」


 刹那は驚くこともなく、声のした方向へ視線を向けた。いつの間にか、診察室の窓際に、一人の青年が立っていた。逆立ったアッシュグレーの髪、鍛え抜かれた肉体を傷だらけの革ジャケットに包み、腰にはカスタマイズされたショットガンを携えている。スラムの自警団「リベリオン」を率いる若きリーダー、ジン・ヴァレンティンだった。


「……不法侵入だな、ジン。ここは診療所だ。治療が必要な患者以外は、入り口から入ってもらいたい」


 刹那はカルテの束を整理しながら、冷淡に応対した。


「堅苦しいことを言うなよ、ドクター。表の扉はボロボロで、門番のボブはあの様子だ。裏の窓から入る方が、お互いにとって都合が良いと思ってな」


 ジンは不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと刹那のデスクへと近づいてきた。その鋭い眼光が、刹那の顔、そして白衣の袖口に隠された右手を値踏みするように見つめる。


「赤虎の右手を木っ端微塵にした『ヤブ医者』がどんな奴か、この目で確かめたくてな。あいつは単なる暴発事故だと言い張って逃げ帰ったそうだが……俺の目は誤魔化せねえ。あのタイミングでの暴発は、あまりにもできすぎている」


「私は外科医だ。事故の瞬間に、彼の橈骨動脈を正確に圧迫しただけだ。超能力などという大層なものは、この診療所には存在しない」


「はっ、相変わらず冷たいツラをしやがる」


 ジンは肩をすくめ、懐から一枚の暗号化されたデータプレートを取り出し、刹那のデスクの上に放り投げた。プレートの表面には、クロノス本部の監査局が使用する、黄金の文字盤の紋章が刻印されている。


「だが、これを見ても同じことが言えるか? 刻命会が、スラム全体で大規模な『デッド・スイープ(一斉寿命回収)』を計画している。骸原(ムクハラ)の寿命が尽きかけているらしく、スラムの全住民から強制的に時間を吸い上げるつもりだ」


 刹那の指先が、カルテをめくる動作の途中でピタリと静止した。


「デッド・スイープ……。そんなことをすれば、スラムの住民の半数が一晩で『秒級』に転落し、砂化して死ぬことになるぞ」


「ああ、奴らにとって俺たちは、ただの『使い捨ての寿命電池』に過ぎねえからな。そして、その一斉回収を裏で指示し、骸原に圧力をかけている本部の監査官がいる。……姓は『時任(ジトウ)』。お前と同じ名前だ」


 ドクン、と刹那の胸のデバイスが、激しく脈動した。


「……時任、だと?」


 刹那の右目の奥で、灰色の文字盤の虹彩が微かに蠢き、診察室の空気温度が急激に低下した。ジンの表情から余裕が消え、無意識に腰のショットガンに手を伸ばすほどの、冷徹で圧倒的な『神の威圧感』が、刹那の全身から溢れ出ていた。


「おい、ドクター……? そのツラ、ただの偶然じゃなさそうだな」


 刹那は深く息を吐き、右目の虹彩を通常の黒い瞳へと戻した。彼の脳裏には、数年前に「初期エーテル実験」の犠牲となり、若くして命を落とした妹ハルカの姿が、鮮明に蘇っていた。あの実験を指揮し、ハルカの寿命を限界まで吸い尽くした男の顔――。同姓の別人などではない。あの「時任」という監査官こそが、ハルカの命を奪った張本人に違いなかった。


「……ジン。その情報、確かに受け取った。刻命会の動きを止めるためなら、お前たち自警団に協力してもいい」


「話が早くて助かるぜ。俺たちの武力と、お前のその『知略』があれば、骸原の鼻を明かすことも――」


 ジンの言葉は、ロビーから響いた悲鳴と、凄まじい大扉の激突音によって遮られた。


「先生ッ! 大変だ! リサが、リサが――!」


 レンの、裏返った叫び声。診察室の扉が乱暴に押し開けられ、自警団のメンバーが、十二歳ほどの少女を抱きかかえて転がり込んできた。亜麻色の髪を乱し、苦しげに胸をかきむしっているその少女は、ジンの実の妹、リサ・ヴァレンティンだった。


「リサッ!?」


 ジンの顔から一瞬で血の気が引き、妹の元へと駆け寄る。


「突然、ロビーで倒れて……! 血を吐いて、身体が、身体の時間が――!」


 レンが怯えた声で叫ぶ。刹那は瞬時にリサの元へと歩み寄り、彼女の細い手首を掴んだ。手首のデジタルメーターは激しく明滅し、「00:00:12」という、死のデッドラインを刻んでいた。それだけではない。リサの皮膚の表面が、不自然に波打っていた。ある部分は急激にシワが寄り、老婆のように乾燥し、またある部分は子供のように瑞々しく戻る――細胞の老化速度が完全に不規則に暴走する奇病、「時間崩壊症(タイム・コラプス)」の突発的な大発作だった。


「カハッ……! おに、い……ちゃ……」


 リサの口から、どす黒い血液が噴き出し、刹那の白い白衣を赤赤と染め上げた。彼女の心臓の鼓動は、通常の数倍の速度で超加速し、血管がその圧力に耐えきれず、内側から次々と破裂していく音が、刹那の鋭い聴覚に届いていた。


「アスク! 緊急救命オペの準備を! 紗季、止血帯とナノマシン溶液を持ってこい!」


 刹那は叫びながら、リサの身体を抱き起こし、診察台へと運んだ。だが、彼の脳内の「医師としての計算」は、すでに冷酷な事実を弾き出していた。


(通常の外科手術では、結合を試みたそばから細胞が崩壊していく。縫合が間に合わない。リサの心臓は、あと十秒で内側から破裂する……!)


 ジンの絶望に満ちた叫びと、リサの細い手首で非情にカウントダウンを続けるデジタルメーターの光が、暗い診察室を不気味に照らし出していた。刹那は、自らの臓器の寿命を削る禁忌の能力を、ここで使うべきかどうかの絶対的なデッドラインに立たされた。

HẾT CHƯƠNG

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