一秒の微小逆行
雨音を切り裂くように、診療所の古びた鉄扉が激しく打ち鳴らされた。
「開けろッ! ヤブ医者! 刻命会(コクメイカイ)の監査だ!」
泥水と錆の匂いが混ざり合う「第十三特区」の深夜。クラウス診療所のロビーに、暴力的な怒号が響き渡った。叩きつけられる衝撃に、歪んだ鉄扉が悲鳴を上げる。一階の簡易病室で身を寄せ合っていた貧民患者たちが、恐怖に身体を震わせた。
「チッ、うるさいねえ。嵐の夜くらい大人しくしていられないのかい」
地下室から上がってきたばかりの看護師、遠野紗季が顔をしかめるが、その指先は微かに震えていた。彼女の隣で、弟子の少年レンが錆びたパイプを握りしめて身構える。
だが、扉の前に立ちはだかったのは、診療所の「門番」であるボブだった。元港湾労働者の屈強な肉体が、侵入者を拒むように扉を内側から押さえる。
「ここから先は、ドクターの聖域だ。お前たちのような吸血鬼を通していい場所じゃない」
「あぁ? 誰に口を利いてるんだ、ボロ雑魚が!」
凄まじい衝撃と共に、鉄扉が内側へ吹き飛んだ。ボブの巨体が床を滑り、受付の木製カウンターを叩き割る。倒れ込んだボブの視線の先、立ち込める雨霧の向こうから、赤く染めた髪を乱暴に揺らす男が歩み出てきた。
「刻命会」鉄平一派の切り込み隊長、赤虎(アカトラ)だ。顔に刻まれた不気味な虎のタトゥーが、明滅するネオンの光に照らされて蠢いている。その手には、青い不気味な光を放つ鉱石が埋め込まれた、鈍器のような「時間結晶棍棒」が握られていた。
「おいおい、時間税の支払いが滞ってる診療所が、ずいぶんとデカい面をしてくれるじゃねえか。骸原(ムクハラ)の頭への上納金が足りねえんだよ。ここにある医薬品と、そこに転がってる『寿命電池』どもをすべて没収する」
赤虎の後ろから、十数人の構成員たちがゾロゾロと診療所内へ侵入し、棚の薬品を乱暴に掻き出し始めた。
「やめろ! それは患者たちの命綱だ!」
レンが叫び、錆びたパイプを振り回して突撃するが、構成員の一人に簡単に蹴り飛ばされる。床に転がったレンの頭部へ、赤虎が冷酷な視線を向けた。
「ガキが、目障りなんだよ。ボブとか言ったか? お前から『回収』してやる」
ボブは痛む身体を引きずりながら立ち上がろうとしたが、赤虎は時間結晶棍棒のスイッチを押し込んだ。棍棒に埋め込まれた低純度タイム・コアが激しく脈動し、赤虎の周囲の時間軸を一時的に「加速」させる。常人には不可視の速度で間合いを詰めた赤虎が、ボブの脳天に向けて棍棒を振り下ろした。
鈍い破壊音。ボブは防衛姿勢を取る間もなく、頭部を強打されて床に崩れ落ち、意識を失った。激しい出血が、緑色のリノリウムの床を汚していく。
「ふん、手応えのねえ。次は――」
赤虎は懐から、スラム製の粗悪な自動拳銃を引き抜いた。銃口が、倒れ伏すボブの頭部へと正確に向けられる。見せしめの処刑。引き金にかけられた人差し指が、ゆっくりと力を帯びていく。
その時、診療所の奥から、冷徹なまでに静かな足音が響いた。
「そこまでにしてもらおう」
ボロボロの白衣を羽織った青年――時任刹那が、影の中から姿を現した。生え際の右側が真っ白に染まった黒髪、そして前髪の隙間から覗く右目は、灰色の濁った光を湛えている。その手には、一本の細いメスが握られていた。クラウス診療所の最先端医療器具、医療用自動メス「クロノ・スカルペル」だ。
「あぁ? お前が噂のヤブ医者か」
赤虎は銃口をボブから外さず、刹那を睨みつけた。
「大人しくそこにある薬品を渡せば、命だけは助けてやる。ただし、そこの門番の寿命は『税』として全回収だ」
「医師の前で患者を殺させるとでも思ったか。それに、ここは私の診療所だ」
刹那は無表情のまま、一歩ずつ赤虎へと近づいていく。彼の脳内では、極限の計算が開始されていた。
(デバイスの同調率はわずか三十パーセント。ここで『十秒の全体逆行』を使えば、私の心臓はエントロピーの逆流に耐えきれず、確実に即死する。使えるのは、範囲を極限まで限定した『微小逆行』だけだ。だが、そのためには、対象に直接接触しなければならない……)
赤虎が引き金を引くまで、残り時間はコンマ数秒。
「舐めてんじゃねえぞ、医者崩れが!」
赤虎の指が引き金を絞り込もうとした、まさにその瞬間。刹那は「医師としての観察眼」を極限まで研ぎ澄まし、銃口のブレと赤虎の筋肉の収縮から弾道を見抜いた。身体を僅かに傾け、弾道を躱すと同時に、刹那の身体が滑るように赤虎の懐へと滑り込んだ。
「なっ――」
赤虎が驚愕する間もなく、刹那の左手が、赤虎が構える拳銃の銃身へと伸びた。その指先には、クロノ・スカルペルの冷たい鋼の刃が添えられている。
(システム、起動。対象:拳銃の撃鉄。逆行時間:一秒)
刹那の右目の網膜に、カチリと時計の歯車が噛み合う幻影が走った。胸部の生体時間維持デバイスがコバルトブルーに一瞬だけ明滅し、彼の心臓を締め付けるような鈍い激痛が走る。「時間逆行における等価交換の法則」が起動し、数日分の寿命が刹那の肉体から削り取られた。
だが、その代償は確実な因果の書き換えをもたらした。
赤虎の指が引き金を完全に引ききった瞬間、拳銃の内部に組み込まれた撃鉄(ファイアリング・ピン)の時間だけが、正確に「一秒前」の状態へと巻き戻された。機械的なシーケンスの不自然な遅延。弾丸が薬室に装填され、火薬が炸裂するタイミングと、撃鉄が雷管を叩くタイミングに、コンマ数秒の致命的な「ズレ」が発生したのだ。
スラム製の粗悪な拳銃は、その機械的な矛盾に耐えきれなかった。
ドゴォンッ!
激しい爆発音と共に、拳銃の薬室が内側から吹き飛んだ。暴発だ。飛び散ったスライドの金属破片と高圧のガスが、赤虎の右手を容赦なく引き裂いた。
「ぎゃああああああああッ!?」
赤虎が悲鳴を上げ、その場にのたうち回った。彼の右手は、吹き飛んだ銃の破片によってズタズタに裂け、鮮血が噴き出している。周囲の構成員たちは、何が起きたのか理解できず、ただ恐怖に目を見開いて立ち尽くしていた。超能力の光も、不自然な前兆もなかった。彼らの目には、単に赤虎の使っていた安物の銃が、運悪く暴発したようにしか見えなかったのだ。
だが、刹那は攻撃の手を止めなかった。彼は素早くクロノ・スカルペルを白衣の袖口へと隠すと、のたうち回る赤虎の前に膝をついた。その冷徹な右目が、赤虎の傷口を瞬時にスキャンする。
「右手首の橈骨動脈が裂けている。止血しなければ、三分で失血死するぞ」
刹那は無言で赤虎の右腕を掴み、親指でその上腕動脈を正確に圧迫した。悲鳴を上げる赤虎の顔が、恐怖と激痛で歪む。
「ひ、ひぃ……っ! お前、何をしやがった……!」
「私は医者だ。患者の止血をしているだけだ。……おい、お前たち」
刹那は立ち尽くす構成員たちを冷たい目で見上げた。
「この男を死なせたく連れて帰るか、ここで私に治療費として残りの寿命を支払うか、どちらかを選べ。治療を続けるなら、相応の対価を要求するが?」
「バ、バカ野郎! 退くぞ! 赤虎の兄貴を運べ!」
恐怖に駆られた構成員たちが、赤虎を抱き起こし、壊れた鉄扉から嵐の夜の中へと逃げ帰っていった。
静寂が戻った診療所のロビーで、刹那は静かに立ち上がった。だが、その瞬間、彼の胸のデバイスが赤く明滅し、喉の奥から熱いものが込み上げた。
「ゴホッ……!」
床に吐き出されたのは、黒い血だった。心臓が、締め付けられるように軋んでいる。
(一秒の微小逆行……。これだけで、心臓が数日分老化している。やはり、今の同調率では、これが限界か……)
刹那は口元を白衣の袖で拭い、倒れているボブの元へと歩み寄った。繋ぎ止めた一秒の先に、さらなる因果の嵐が近づいているのを、彼は確かに感じていた。
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