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鼓動の同調(シンクロ)

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酸性雨がトタン屋根を叩く、重苦しい金属音が、地下都市「第十三特区」のよどんだ空気に響き渡っていた。剥き出しの鉄骨、湿気で錆びついたネオンサイン、そして行き交う貧民たちの手首でカチカチと虚しく時を刻む、残余寿命のメーター。そのすべてが、このスラム街を支配する不条理な「時間搾取」の象徴だった。


「はぁ、はぁ……っ……!」


 泥水にまみれたアスファルトに這いつくばりながら、時任刹那は胸を強く押さえていた。衣服の下、彼の胸骨を貫いて埋め込まれたプロトタイプ「生体時間維持デバイス」が、警告を告げるように禍々しい赤色の光を放ち、明滅している。


「警告。生体同調率、十パーセント。心筋の急激な細胞壊死が進行しています。速やかに時間波形を同調させてください」


 デバイスの接続ニードルが心臓の冠動脈に深く食い込み、身体の内側から焼き尽くされるような激痛が刹那の意識を削り取る。手首のデジタルメーターが示す余命は、残りわずか「三分四十秒」。燃料であるタイム・コアが空のまま起動したデバイスは、刹那自身の寿命を直接貪り、彼の生命を内側から砂へと変えようとしていた。右目の網膜からは血が流れ落ち、視界の右半分はすでに灰色に濁っている。生え際から右側にかけての黒髪は、逆行の代償によって完全に白い霜に覆われていた。


「まだだ……。こんなところで、倒れるわけにはいかない」


 コートの内ポケットに押し込んだ真鍮製の「クロノ・ドライブ」の重みだけが、彼の執念を繋ぎ止めていた。そこには、妹ハルカの死を仕組んだクロノスの実験記録が眠っている。その真実を暴くまでは、神の座から引きずり落とされたこの最弱の肉体が滅びることを、彼は許さなかった。


 一歩、また一歩と、感覚の消えかけた右足を引きずりながら、刹那はスラムの路地裏の奥に佇む、古いトタン屋根の建物へと這い進んだ。「クラウス診療所」――先代の恩師、ドクター・クラウスが遺した、この地獄における唯一の聖域。その錆びついた鉄扉に、刹那は血濡れた手を伸ばし、そのまま崩れ落ちた。


「先生……!? 先生!」


 扉が勢いよく開き、まだ幼さの残る悲痛な叫びが響いた。刹那の第一弟子である十六歳の少年、レンだった。その背後から、エプロン姿の看護師、遠野紗季が息を呑んで駆け寄ってくる。


「嘘……先生、その髪、それに右目が! 一体何があったの!?」


「レン、紗季……地下へ、運べ……」


 刹那は口から黒い血を吐き出しながら、それだけを絞り出すと、完全に意識を失った。


 診療所の地下に隠された秘密の研究室。錆びついたボイラーの奥に広がるその空間は、クラウスが遺した古い医療器具と、薄暗い作業灯に照らされていた。簡易ベッドに横たえられた刹那の胸元で、埋め込まれたデバイスが不気味に熱を放ち、周囲の空気を歪めている。


「バイタル低下! 心拍数二百を超えています! アスク、早く心肺蘇生器の準備を!」


 紗季が叫ぶと、診療所の隅にいた球体関節を持つ旧式医療補助ドロイド「アスク」が、軋む音を立てて動き出した。アスクの機械の瞳が赤く明滅する。


「警告。患者の心臓周辺に、未知の時間干渉フィールドを検知。通常の除細動は、時間軸のバグとして弾かれる危険性があります」


「そんなこと言ってられないわ! 心停止まであと一分もないのよ!」


 紗季は強引に携帯用簡易心肺蘇生器「リブーター」の電極パッドを刹那の胸部に押し当て、起動スイッチを押した。瞬間、バチバチと激しい青白い電撃が放たれる。しかし、次の瞬間、刹那の胸のデバイスから放たれた目に見えない衝撃波が、放電のエネルギーを完全に中和し、周囲の配電盤をショートさせた。火花が飛び散り、アスクのセンサーがフリーズしてエラー音を吐き出す。


「だめ……! 電気ショックがデバイスに拒絶されて、心臓まで届かない!」


 紗季の顔から血の気が引いていく。刹那の心拍は不規則に乱れ、心電図の波形はフラットに近づきつつあった。内臓が、デバイスの異常なエントロピーに耐えきれず、石灰化を始めているのだ。白衣の胸元から、壊死した皮膚の青黒い血管が不気味に浮き上がっていた。


「レン、どうすれば……! このままじゃ、先生が死んじゃう!」


 レンは、血に濡れた刹那の顔と、その傍らに置かれたハルカの遺品である「動かない金色の懐中時計」を交互に見つめた。十二時前でピタリと針が止まったままの時計。刹那が命を削ってでも守ろうとした、妹との約束の象徴。


「……シモンだ。シモンなら、このデバイスの仕組みを知っているはずだ!」


 レンの瞳に、決死の光が宿った。彼は母親の遺品である手縫いの医療用ポーチを掴むと、土砂降りの雨の中へ飛び出していった。スラムの最深部に隠れ住む、元クロノスの狂気の科学者、シモン。彼を連れてくる以外に、刹那を救う術はなかった。


 激しい雨と雷鳴がスラムを切り裂く中、レンは泥水を跳ね上げて走った。息が切れ、肺が破れそうになっても、足を止めなかった。彼にとって刹那は、ただの師ではなく、この地獄で生きる意味を与えてくれた唯一の家族だったからだ。


 数分後、レンは頭髪の半分を不気味な機械に換装した老人、シモンの胸倉を掴むようにして、診療所の地下室へと引きずり込んできた。シモンは赤く発光するサイバネティック義眼を不快そうに細め、ブツブツと毒づいていた。


「おい、ガキ、年寄りをこんな嵐の中に引っ張り出しやがって……。クラウスの診療所がどうなろうと、俺の知ったことか!」


「黙って先生を診ろ! 死にそうなんだ!」


 レンがシモンを簡易ベッドの前に突き飛ばす。シモンは文句を言いながらも、ベッドに横たわる刹那の胸元に目を向けた。その瞬間、彼の機械の義眼が激しく明滅し、言葉を失った。


「……こ、こいつは……! ドクター・ヴァイスが開発していた、あのプロトタイプか!? なぜスラムのヤブ医者がこれを持って……いや、それだけじゃない。この右目……」


 シモンは刹那の閉ざされた右目の瞼を無理やり押し広げた。そこには、灰色の文字盤のような模様が刻まれた、奇妙な虹彩が浮かび上がっていた。時が静止したかのような、人知を超えた神聖な瞳。


「『神の器』……。まさか、クラウスが言っていた『時間の絶対神』の転生体とは、この男のことだったのか!」


 シモンの顔に、狂気と驚愕が入り混じった歪んだ笑みが浮かんだ。彼は懐から、年季の入った「高周波チューナー」を取り出すと、デバイスの剥き出しの回路に直接接続した。


「ガキども、よく聞け! このデバイスは、こいつの心臓の鼓動を『時間波形』として検知し、因果を安定させている。だが、今は心拍数と同調周波数が完全にズレて、デバイスが心臓を物理的に噛み砕こうとしている。同調率を高め、鼓動をデバイスの波形に強制的に合わせるしか、助かる道はない!」


 シモンがチューナーのダイヤルを回すと、デバイスから不気味な高周波の金属音が響き始めた。刹那の身体が、電流を流されたように激しく跳ね上がる。


「ぐ、あ……っ……!」


 昏睡しているはずの刹那の口から、掠れた悲鳴が漏れ、再び黒い血が溢れ出た。心電図のモニターが、激しい不整脈を示すノイズで埋め尽くされる。


「同調率、十五パーセント! だめだ、心臓の細胞が過熱に耐えきれず、完全に壊死を始めている! このままじゃ、同調が完了する前に心臓が破裂するぞ!」


 シモンが焦りの声を上げる。デバイスのインジケーターが、真っ赤に発光し、限界を告げるアラームを鳴らし続けていた。


「レン、早く! リンの薬を!」


 紗季が叫ぶ。レンは震える手で、医療ポーチからガラス瓶を取り出した。中には、闇の調剤師リンが調合した、不気味に青く揺らめく液体――リン特製「蒼い液薬」が入っていた。それは、時間逆行の反動による激痛を麻痺させ、細胞の代謝を極限まで遅延させる特殊な鎮痛剤だった。


「先生、頼む……動いてくれ!」


 レンは注射器に青い液薬を吸い上げると、刹那の頸動脈に向けて迷わず針を突き刺した。プランジャーを押し込むと、冷たい青い液体が刹那の血管へと流れ込んでいく。


 瞬間、刹那の全身の血管が、青く発光した。激しく痙攣していた心臓の動きが、まるで凍りついたかのように一瞬、ピタリと静止する。細胞の異常な自己崩壊プロセスが、薬の持つ「局所的な時間遅延作用」によって強制的にフリーズさせられたのだ。


「よし、今だ!」


 シモンが叫び、高周波チューナーのレバーを最大まで引き下げた。デバイスから放たれるコバルトブルーの光波が、刹那の心臓の鼓動と共鳴し始める。カチ、カチ、カチ――時計の歯車が噛み合うような、重厚な金属音が地下室に響き渡った。


「同調率、二十五パーセント……三十パーセント! 安定領域に到達!」


 アスクの電子音が、危機を脱したことを告げた。デバイスの禍々しい赤色の光は消え去り、澄み切った神聖なコバルトブルーの輝きへと変化していく。刹那の呼吸は徐々に深くなり、激しい心拍の乱れは、静かな、しかし確かな鼓動へと落ち着いていった。手首のメーターの減少速度が、通常の時間の流れと同じ「一秒に一秒」へと減速する。


「はぁ……はぁ……」


 刹那は、ゆっくりと目を開けた。右目の視界は依然として灰色に霞んでいたが、左目の視界には、涙を浮かべたレンと、安堵の表情でへたり込む紗季、そして不気味な義眼を輝かせるシモンの姿が映っていた。


「……助かった、のか」


「ああ、死に損なったな、時間の神様よ」


 シモンは冷ややかに笑いながら、チューナーを取り外した。だが、その表情はすぐに、医師としての、そして科学者としての冷酷な真実を告げるものへと変わった。


「だが、喜ぶのは早い。同調率はわずか三十パーセント。お前の生存ランクは、依然としていつ死んでもおかしくない『秒級』のままだ。それに……」


 シモンは、レンが空にした青い液薬のガラス瓶を指し示した。


「拒絶反応を抑えるために、その『蒼い液薬』を使ったな。確かにそれは一時的に細胞の暴走を麻痺させるが、その代償として、お前の心臓の老化プロセスをさらに急激に早めることになる。いわば、未来の寿命を前借りして、今この瞬間を繋ぎ止めたに過ぎん」


 刹那は自身の胸元に手を当てた。デバイスの奥で、彼の心臓は確実に、以前よりも重く、老いた拍動を刻んでいる。生え際の白髪は、さらにその領域を広げていた。彼の肉体は、確実に死へのデッドラインへと近づいている。


「……構わない。時間が、繋がったのなら、それでいい」


 刹那はベッドから身体を起こし、机の上に置かれたハルカの懐中時計を見つめた。針は、まだ動かない。だが、彼の手には、あの真鍮のクロノ・ドライブがある。妹の死を仕組んだ「時任」という男の影が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 その時、診療所の重い鉄扉が、激しく叩かれる音が地下室まで響いてきた。泥にまみれた自警団のメンバーが、息を切らせて駆け込んでくる。


「先生、大変だ! 刻命会(コクメイカイ)の奴らが……赤虎の部下どもが、診療所の周りを取り囲み始めている!」


 刹那の瞳に、冷徹な光が戻る。繋ぎ止めた一秒の先に、早くも新たなる因果の敵が牙を剥こうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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