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奪われた三十秒

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骨を軋ませるような冷気が、地下倉庫の闇を満たしていた。手首に埋め込まれたデジタルメーターが、冷酷な電子音とともに明滅している。

「警告。残余時間、残り三分二十秒。速やかに時間クレジットを補給してください」

 時任刹那は、壁に背を預けて荒い息を吐いた。肺の奥が焼け付くように熱い。彼の肉体は、時間の絶対神としての権能を奪われ、今やいつ砂となって崩れ落ちてもおかしくない「秒級保有者」の極限状態にあった。

 だが、その手には、重厚な真鍮の冷たさがあった。クロノス第三研究所の最深部から盗み出した、物理メモリ「クロノ・ドライブ」。そしてもう一つ、彼の胸元で鈍く輝く金属の塊――プロトタイプ「生体時間維持デバイス」だ。

『刹那、聞こえる? カインが外部セキュリティをクラッキングしたわ。脱出経路を確保したから、今すぐそこを離れて!』

 耳元の極小通信機から、闇の情報屋・黒江の緊迫した声が響く。スラムの無料診療所に隠れ住む刹那を、この命がけの強奪作戦へと導いた張本人だ。

「……わかっている」

 刹那はかすれた声で応じた。右目の奥が激しく疼く。彼が「時間の流れ」を他者と異なるエントロピーの多次元ベクトルとして知覚できるのは、生まれつきの脳構造の異常によるものだった。だが、その能力を使うたびに、彼の内臓は恐るべき速度で老化していく。それが、時間の神権を奪われた「人間」としての、絶望的な等価交換の法則だった。

 立ち上がろうとした瞬間、重厚な金属音が地下倉庫に鳴り響いた。

 ガギィン!

 天井から降りてきた鋼鉄の隔壁が、刹那の目の前で完全に閉鎖された。同時に、壁の通気口から不気味な緑がかった灰色の気体が噴出し始める。

『なっ……!? ハッキングが強制的に遮断された! 刹那、ヴァイス所長の防衛システムが起動したわ!』

 カインの悲鳴に近い声が通信機から漏れる。壁のスピーカーから、歪んだ電子音声が流れ出した。

『愚かなネズミめ。私の最高傑作を盗み出せると思ったか』

 ドクター・ヴァイスの声だ。冷酷なマッドサイエンティストの哄笑が、狭い倉庫に反響する。

『それは「時間静止ガス」だ。吸い込んだ者はもちろん、触れた物質の分子運動は永久に停止する。大人しく凍りついた標本となるがいい』

 ガスが急速に床を這い、刹那の足元へと迫る。引き返そうとしたが、逃げ場はない。焦った刹那が一歩下がった瞬間、ガスの先端が彼の右足のブーツに微かに接触した。

「――ッ!」

 感覚が、消えた。

 冷たいのではない。右足のブーツ、そして足首の皮膚が、物理的な「静止」に囚われたのだ。血流も、神経伝達も、その境界線でピタリと停止している。動かそうとしても、右足はまるで地面に溶接されたかのように一ミリも持ち上がらない。ガスに触れた空気中の塵が、まるで透明なガラスビーズのように空中に固定されているのが見えた。

(物理的な力では、この隔壁を破ることはできない。ロックをピッキングしようとしても、電子錠自体が遅延フィールドで保護されている。触れた瞬間に道具が経年劣化して砕けるだけだ……)

 刹那の脳細胞が、神速の思考を開始する。残された時間はあとわずか。ガスが膝まで達すれば、彼の心臓は永久に停止する。

(ならば、残された因果の隙間を通るしかない)

 刹那は震える左手で、懐から古びた時計型のデバイス「因果の天秤」を取り出した。先代の恩師、ドクター・クラウスが遺した測定器だ。リューズを回すと、文字盤の三本の針が不規則に逆回転を始める。彼の右目の網膜に、セピア色の視界が重なり、ガスが放出される「三十秒前」の気流の軌跡が、青い光の残渣として浮かび上がった。

(見えた。三十秒前、通気口のダクトはまだ吸気モードだった。南側の天井付近に、ガスがまだ対流していない『空白の気流』が存在する)

 刹那は動かない右足を強引に引きずり、肉が引き裂かれるような感覚を無視して、ガスの薄い天井のダクト直下へと身体を滑り込ませた。頭上から迫る自動防衛ロボットの赤いレーザーサイトが、暗闇を切り裂く。金属の駆動音が近づいてくる。

「ここで、終わるわけにはいかない」

 刹那は胸元の衣服を破り、剥き出しの胸部に、まだ未調整の「生体時間維持デバイス」をあてがった。デバイスの裏面から、無数の生体接続ニードルが昆虫の脚のように蠢いている。

 グズ、と肉を穿つ音がした。デバイスが彼の胸骨を貫き、心臓の冠動脈へと直接牙を剥く。全身を突き抜けるような激痛。デバイスのインジケーターが赤く点滅し、警告音が脳内に直接鳴り響いた。

「警告。生体同調率、十パーセント。心拍数不足により、因果安定化プログラムが起動できません」

(心拍数が足りない……? くそ、鼓動を強制的に上げなければ、デバイスが心臓を破壊する!)

 刹那の視界が、急速に灰色に染まり始める。右目から熱い血が流れ落ち、頬を伝った。内臓が、逆行の代償によって一気に老化し、崩壊しようとしている。

 その時、彼の脳裏に、病床で息を引き取った最愛の妹、ハルカの儚げな笑顔が蘇った。その手には、十二時前で完全に針が止まった金色の懐中時計があった。

『お兄ちゃん、私の時間は、もうすぐ終わっちゃうのかな……』

 あの時、自分は何もできなかった。だが、二度と目の前の命を見捨てないと誓ったはずだ。

「うおおおおおっ!」

 怒りと執念が、刹那の交感神経を極限まで爆発させる。心拍数が一気に百二十を突破した。胸のデバイスが、激しい鼓動と同調し、濁った赤から神聖なコバルトブルーへと発光を変える。

「同調率、三十パーセント。緊急因果制御、起動」

 デバイスから放たれた青い波動が、彼の全身の血管を駆け巡る。刹那は右足の静止を強引に解除し、隔壁の制御盤へと手を伸ばした。

「システム・リセット――時間を、巻き戻せ!」

 刹那の右目の文字盤が高速で逆回転を始める。制御盤の電子回路に触れた指先から、灰色の砂のような光が放たれた。隔壁のシステムロックが施錠される「十秒前」の過去へと、因果が強制的に巻き戻される。

 ガガガガッ!

 電子錠が火花を散らし、閉ざされていた隔壁が、まるで時間を逆再生するようにゆっくりと上昇を始めた。背後から迫るロボットの銃撃が、開いた隙間へと滑り込んだ刹那の背後で、鋼鉄の扉に遮られる。

 冷たい雨が、刹那の顔を濡らした。彼は研究所の排水口から、スラム街「第十三特区」の暗い路地裏へと転がり出たのだった。

 激しい吐血。刹那は泥水にまみれながら、胸のデバイスを押さえた。白髪が、彼の黒髪の右側を白く染めている。手首のメーターは「00:04:12」を示していた。予備のコアは空だ。あと四分以内に、診療所で延命処置を行わなければ、彼の心臓は完全に停止する。

 だが、彼の左手には、確かに真鍮の「クロノ・ドライブ」が握られていた。携帯端末に接続すると、暗号化されたデータの奥から、一つの個人識別コードが浮かび上がる。

『被験者:時任ハルカ。初期エーテル適合実験記録』

「ハルカ……?」

 刹那の瞳が、驚愕に見開かれた。妹の死は、病死などではなかった。この研究所で、クロノスの手によって仕組まれたものだったのだ。

HẾT CHƯƠNG

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