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怪盗のワルツ、深夜の非常階段

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「警告:地下ボイラー室の圧力が臨界点を突破!」


 けたたましい警報音とともに、赤色の警告灯が回転し、エインズワース錬金術研究所の真っ白な壁を血のような赤に染め上げた。足元から伝わる不気味な地鳴りが、鉄板の床を激しく震わせる。


 真鍮のレバーを握りしめていたジュリアン・エインズワースの指先が、その衝撃でピクリと凍りついた。丸眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ天井の圧力計へと向けられる。私の脳波を測定し、その『完全記憶能力』の秘密を解剖しようとしていた彼の狂気的な集中に、物理的なノイズが割り込んだのだ。


(今よ、フート! 最高のタイミングだわ!)


 私は拘束椅子に縛り付けられたまま、心の中で快哉を叫んだ。このボイラー室の異常は、私のドレスのポケットに潜む機械梟「フート」を介して仕掛けた、決死のハッキングによるものだ。だが、警告灯が回っただけでは、この偏執的な天才科学者はレバーから手を離さない。もう一押し、彼の「執着」をハッキングするための決定的な演技が必要だった。


「あ……、はぁ……っ、う、うそ……頭が、割れそうに……!」


 私は「危機回避的仮病『フェイク・コラプス』」を発動した。ただの仮病ではない。日々重なる四重スパイのストレスと、先ほどまでジュリアンに脳波を弄くられていた本物の頭痛、そして胃壁を引き裂くような「日常的胃痛レベル2」の激痛。その本物の苦痛を燃料にして、私は瞳孔をわずかに開き、呼吸を激しく乱れさせた。顔から血の気が引き、青ざめていくのは演技ではなく半ば本物だった。


「レン!? どうしたんだい、脳波の電圧が急激に異常値を示している! これじゃあ解析どころか、脳細胞が焼き切れてしまう!」


 ジュリアンがうろたえた声を上げた。彼の科学的執着は、私を「生きたままの最高の発明品」として手中に収めることにこそある。ここで私の脳が物理的に破壊されることは、彼にとって最大の「科学的挫折」を意味するのだ。私の狙い通り、彼は測定器のレバーから手を離し、大慌てで私の手首を固定していた真鍮製の拘束具の解除キーを叩いた。


 ガチャリ、と重厚な金属音がして、両手首の自由が戻る。


「しっかりしてくれ、レン! 今、電極を外すから――」


 ジュリアンが私の頭部に手を伸ばした瞬間、私はドレスの隠しポケットに滑らせていた右手を、目にも留まらぬ速さで動かした。掴んだのは、クララと共に組み立てた香水瓶型の脱出ガジェット――「蒸気圧式小型煙幕弾」だ。


「ごめんなさい、ジュリアン様。でも、私の脳はまだ解剖させないわ!」


 私は香水瓶のキャップを親指で押し込み、ジュリアンとテオの足元の床へと叩きつけた。


 ――シュウゥゥゥゥッ!!!


 炸裂音とともに、極めて濃厚な白い煙幕が爆発的に室内に広がった。ただの煙ではない。鼻を突くのは、クララが仕込んだ濃厚なローズの香りだ。この「ローズの香霧」は視界を100%遮断するだけでなく、エーテル連合の探知センサーの波形を一時的に飽和させるノイズ成分を含んでいる。


「ゲホッ、なんだこれは!? ローズの匂い……? テオ、早く換気扇を!」


「だ、ダメですプロフェッサー! ボイラー室の異常圧迫のせいで、排気ダクトが逆流しています!」


 煙の中でうろたえる二人の声を背に、私は拘束椅子から滑り落ちた。ここからが本当の時間との戦いだ。私の心拍数はすでに限界を超え、「レベル3:過呼吸と精神解離」の冷たい感覚が指先から這い上がってきている。頭が狂いそうに痛むが、私は脳内で「10秒着替え『クイック・シフト』」の構造図を再生した。


 ドレスのコルセットの内側に仕込まれた引き紐を、特定の角度で一気に引っ張る。


 カチャ、と小気味よい機械音がして、身体を締め付けていた深紅のドレスのバネが一括解除された。重厚なシルクの生地が滑り落ちるようにしてドレスの裏側に収納され、その下から現れたのは、地味で、埃っぽく、ルテティアのどこにでもいる「帝国図書館の下級書記官」のグレーの制服だった。眼鏡をかけ直し、ボサボサの赤茶髪を素早く手櫛で整える。わずか八秒。私は「妖艶な情報屋ミラベル」から「無害な下級書記官レン」へと完璧に変身を遂げた。


 私は姿勢を低く保ちながら、事前に瞬間記憶(レコード・アイ)で把握していた実験室の東側の窓へと走った。窓を開けると、そこには錆びついた鉄製の非常階段が、薄暗い霧の底へと伸びていた。


 ルテティアの工業区は、日中であっても立ち込める煤煙と蒸気によって、まるで深夜のように暗い。冷たい風を浴びながら非常階段を駆け下りる私の足元で、コツ、コツ、と古い革靴の音が響く。一歩進むたびに、胃の底から血を吐きそうな激痛が突き上げてくる。手袋をはめた指先は、先ほどハッキングの際に浴びた微小な放電のせいでジンジンと痛んでいた。


(はぁ、はぁ……。なんとか、逃げ出せた……。でも、ヴァレリウスの指輪が位置情報を送り続けている。早くこの区画を離れないと……)


 冷たい手すりにすがりつきながら、踊り場まで下りてきたその時だった。


「やあ、お疲れ様。随分と派手な花火を打ち上げたね、僕の可愛い子猫ちゃん」


 頭上から降ってきた軽薄で、しかし極めて美しい低音に、私の心臓が跳ね上がった。


 非常階段の踊り場の真上――錆びた鉄パイプの上に、一人の男が優雅に腰掛けていた。月光を模したガス灯の鈍い光を浴びて、彼の金髪が風に揺れている。不敵な笑みを浮かべた青い瞳の男――怪盗シエル・ド・ロワールが、そこにいた。彼の片手には、帝国美術館の紋章が刻まれた、鈍く光る銀製のオルゴールが握られている。たった今、美術館から美術品を盗み出してきたばかりの装いだった。


「シエル……!? なぜあなたがここに……」


「おやおや、冷たいな。僕が贈った『万能鍵仕込みのヘアピン』が、昨夜遅くに図書館の禁書庫で使われたっていう愛のシグナル(ログ)が僕の受信機に届いてね。君が僕を求めていると思って、わざわざスラムから走ってきたんだよ?」


 シエルはパイプから音もなく飛び降りると、私の目の前に着地した。彼のまとう高級な夜会服から、夜の風と、微かな火薬の匂いが漂う。


「それにしても、君のその格好……。さっきまで錬金術師の坊やと熱いデートをしていたにしては、随分と地味な変装だね?」


 シエルは私の顎を細い指先ですくい上げ、覗き込んできた。彼の青い瞳の奥に、からかうような光と、それとは対照的な、冷たく鋭い「観察者の目」が宿っている。私の「四重スパイ」としての二面性を楽しんでいる彼は、私の嘘の辻褄を誰よりも鋭く見抜く、最も油断のならない相手だった。


「そんなことより、早くここを離れないと……ジュリアンが追ってくるわ」


「そうだね。じゃあ、僕たちの初めての共同作業といこうか」


 シエルは不敵に笑うと、私の腰を細い腕で強引に抱き寄せた。あまりの密着感に息が詰まる。


「ちょっと、何をするの――」


「ワルツの始まりさ。しっかり掴まっていてね、レン」


 シエルが左手に持った魔導ワイヤーガンを引き金にかけると、鋭い金属音が響き、ワイヤーが隣の巨大な工場の煙突へと突き刺さった。次の瞬間、私の身体は重力を失い、シエルの腕に抱かれたまま、ルテティアの夜空へと一気に引き上げられた。


 ヒュウウウッ、と冷たい風が耳元を吹き抜ける。眼下には、無数のガス灯の光が煤煙の霧に滲み、まるで光の海のように広がっていた。シエルの金髪が私の頬をくすぐり、彼の心臓の鼓動が、私の背中に直接伝わってくる。


 空中を滑空する中、シエルは私の首元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。その瞬間、彼の身体が一瞬だけ強張るのを私は感じた。


「……ねえ、レン」


 彼の声から、先ほどまでの軽薄さが一瞬にして消え失せていた。耳元で囁かれたその声は、ゾクリとするほど冷たく、暗い独占欲に満ちていた。


「君、他の男の匂いがするね」


「え……?」


「この清らかな、鼻にツンとくる銀の香り……。国教騎士団の『聖銀』の匂いだ。ギデオン・ヴァンスのブローチかい? それに――」


 シエルは私の左手を掴み、薬指に嵌められた大粒の琥珀を見つめた。その瞳に、燃えるような嫉妬の炎が宿る。


「この指輪……『静寂の仮面劇』のヴァレリウス・クロスが好む、特注の魔導琥珀だね。僕の可愛いスパイさんは、いつの間にこんなにたくさんの『飼い主』を作っていたのかな?」


 彼の指先が、私の左手薬指の指輪を締め付けるように強く握った。その尋常ではない執着の重さに、私の胃は再び激痛を訴え始めた。脳内のマルチ・ブレインが、シエルの怒りを鎮めるための「言い訳」を構築しようと火花を散らす。だが、その思考を物理的な光が遮った。


 ピカァッ!!!


 眼下の地上から、巨大な「エーテルサーチライト」の白い光条が夜空を貫き、空中を飛ぶ私たちの身体を容赦なく照らし出したのだ。


「いたぞ! 怪盗シエルと、その共犯者の女だ! 撃てっ!」


 地上の路地裏から、帝国警察のペンドルトン警部の鋭い怒号が響き渡る。同時に、怪盗ハンター「バジリスク」が率いる武装警察が一斉にエーテル重機関銃の銃口を私たちに向け、その引き金を引き絞った。青白いエーテル弾の雨が、夜空を引き裂きながら、私たちに向かって一斉に突き進んでくる――!

HẾT CHƯƠNG

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