蠢く影と、天才錬金術師の執着
「――さて、僕の可愛い助手。観念してその椅子に座ってくれるかい?」
エインズワース錬金術研究所の最奥。真鍮の蒸気パイプがのたうつ壁と、緑色に怪しく沸き立つフラスコに囲まれた実験室で、ジュリアン・エインズワースは至極楽しそうに微笑んでいた。ボサボサの白い髪を揺らし、煤のついた白衣を翻しながら、彼は部屋の中央に鎮座する巨大な真鍮製の椅子を指し示す。その椅子の上部には、おびただしい数の電極と細いワイヤーが、まるで茨の王冠のようにぶら下がっていた。
「ジュリアン様、私はただの図書館の下級書記官です。このような大層な機械で脳波を測られるほどの価値など……」
私は「アイアン・ストマック(胃痛耐性)」を全力で稼働させ、引き攣りそうになる頬の筋肉を完璧に制御して見せた。ドクター・アリスターの診療所からここへ直行する道中、私の胃はすでに雑巾のように絞られ、冷や汗が背中を伝っていた。左手の薬指に嵌められたヴァレリウスの「琥珀の指輪」が、じわじわと体温を吸い上げて冷たく疼く。位置情報は常に送信されている。もしマフィアの首領がこの場所に気づけば、それだけで命が吹き飛ぶ。だが、今の最大の脅威は目の前の狂気科学者だった。
「謙遜しなくていいよ、レン。君が『パンドラ』の翻訳に混ぜ込んだあの適合ナノマシンのコード……あれは偶然にしては美しすぎる。君の脳内にある『瞬間記憶(レコード・アイ)』の領域には、僕が長年追い求めていた『ナンバー0』のデータが眠っているに違いないんだ」
ジュリアンは丸眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせ、私の肩を優しく、しかし逃げられない強さで押して椅子へと座らせた。冷たい革の感触が背中に伝わり、ガチリと両手首を固定する真鍮製の拘束具が閉じる。物理的な戦闘力を持たない私にとって、この椅子は事実上の処刑台だった。
「プロフェッサー・ジュリアン。測定の前に、こちらを確認していただく必要があります」
冷徹な声とともに一歩前に出たのは、ジュリアンの優秀な技術補佐官テオだった。大きな丸眼鏡を指先で押し上げながら、彼は緑色の波形が明滅する「エーテルオシロスコープ」をジュリアンの前に突きつけた。
「何だい、テオ? 今は僕の最高の発明品を解剖……いや、解析する時間だよ?」
「彼女に贈った『四重偽装ホログラム手帳』の通信ログです。深夜、不自然なパケット送信の形跡が検出されました。送信先の周波数は二つ――一つは国教騎士団『イージス』の軍用回線、もう一つは地下組織『静寂の仮面劇』の暗号周波数と完全に一致しています」
テオの言葉に、実験室の空気が一瞬にして凍りついた。
ジュリアンの口元から笑みが消え、その瞳に冷酷な「科学者の疑念」が宿る。彼は私を覗き込み、その白い指先で私の顎を静かに持ち上げた。
「おや……? 僕が君のためだけに作った世界に一つだけの手帳が、どうしてそんな野蛮な連中と通信しているのかな? ねえ、レン。君は僕を騙しているのかい?」
胃の奥が焼けるように熱い。血の味が口内に広がりそうになるのを、私は必死に飲み下した。テオのオシロスコープに表示されているのは、私がパンドラの偽造翻訳書を納品した際、手帳から送信されたログの残滓だ。ここで言い訳を誤れば、スパイ行為が発覚し、即座に脳を解剖される。
(落ち着け、私。脳内に『マルチ・ブレイン(脳内思考同期)』を展開するのよ。ジュリアンの思考パターンを同期して、彼が最も納得する『嘘』を再構築しなさい!)
私はドレスのポケットの奥に潜む機械梟「フート」に向けて、指先の微細な振動で暗号信号を送った。私の意図を察したフートが、内部の超小型計算機を駆動させ、密かに「エーテル信号ジャミング手順」を実行する。逆位相のエーテルパルスが、テオのオシロスコープの受信アンテナへと放たれた。
「ジュリアン様、誤解です。私は……あなたを裏切るはずがありません」
私は表情筋をコントロールし、瞳孔をわずかに開いて光を反射させ、今にもこぼれ落ちそうな美しい涙を瞳に浮かべた。ベアトリス直伝の「表情筋コントロールによる偽装涙」だ。そして、ジュリアンの「自身の技術への絶対的なプライド」を逆手に取る「ダブル・ブラフ(嘘の二重構築)」を仕掛けた。
「私は、あなたからいただいたあの手帳の、限界性能テストを行っていたのです」
「……手帳の、限界テスト?」
ジュリアンが眉をひそめる。彼のクリエイターとしての本能が、私の言葉にわずかに反応した。
「はい。あの手帳の魔導暗号が、ルテティアに存在する最高峰の探知網――イージスの軍用波や仮面劇の電波に晒されたとき、本当に情報を隠蔽しきれるのかを検証したかったのです。だから、私がわざとそれらの周波数を手帳に共鳴させ、バッファの耐久性を測定していました。ほら、見てください。テオ様のオシロスコープの波形を」
ジュリアンとテオが同時に画面を見つめた。フートのジャミング波形により、先ほどまで整然と並んでいた送信ログのスパイクが、激しいノイズとフィードバックの波形へと書き換えられていく。それはまるで、強力な電波干渉によって手帳がバグを起こし、自らエラー波形を放射しているかのように見えた。
「これは……送信ではなく、ただの共鳴フィードバック……? 手帳の初期不良によるパケットのバグなのか?」
テオが驚愕の声を上げ、眼鏡を曇らせて画面に張り付く。ジュリアンの瞳に、一転して「自らの発明品の欠陥」に対する焦りと、私の『健気なテスト』への感動が混ざり合った複雑な光が灯った。
「僕の手帳に、マルチ周波数共鳴の脆弱性があったというのか……? そして君は、僕のためにそれを身を挺してテストしてくれていた……?」
「はい。私はあなたの助手ですから。あなたに完璧な手帳を使ってほしかったのです」
私は涙を拭い、可憐に微笑んでみせた。完璧な調停。これでジュリアンの関心はスパイ狩りから技術のバグ修正へと移るはず――そう確信した瞬間だった。
「……あはは、面白いね」
ジュリアンは突然、低く笑い声を上げた。彼は椅子に縛り付けられた私の顔にさらに近づき、その冷たい息がかかるほどの距離で囁いた。丸眼鏡の奥の瞳は、狂気的な歓喜に濡れている。
「バグだろうと、テストだろうと、そんなことはどうでもいいんだ。今、君が嘘を吐いた瞬間、君の脳波の微小電圧が、まるで美しい弦楽四重奏のように不規則に、そして完璧な調和を持って揺れたんだよ。ねえ、レン。君の脳は、やっぱり僕の想像を遥かに超えている。その美しい脳の奥を、今すぐ覗かせてもらうよ」
ジュリアンは私の言い訳をすべて「面白い現象」として飲み込んだまま、脳波測定器の巨大な真鍮製レバーに手をかけた。レバーが引かれ、測定器のスイッチが入るまで、あと一分。私の脳内マルチ・ブレインは限界に達し、頭痛と胃の激痛が臨界点を突破しようとしていた。
まさにその時――。
ウゥゥゥゥ――ッ!!!
研究所の地下深くから、鼓膜を引き裂くような重厚な警報音が鳴り響き、実験室の赤い蒸気警告灯が一斉に回転を始めた。
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