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禁書「パンドラ」の欺瞞(後編)

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「誰かそこにいるのか……? アシュレイ、君だな」


 ギチ、ギチ、と真鍮のドアノブが回り、ラッチが外れる金属音が暗闇に響き渡る。

 禁忌の禁書庫「パンドラ」の扉が、ゆっくりと開き始めていた。すりガラスの向こうから差し込むガス灯の光が、侵入者を引きずり出そうとするかのように床を照らす。


 胃が痛い。いや、痛んでいる場合ではない。今この瞬間、私の脳細胞は沸騰寸前の熱を帯びていた。


 (あと三秒。エドワードが完全に視線を室内に注ぐまで、あと三秒しかない……!)


 私は台座の上に開かれた古代の魔導技術書「パンドラ」の、未だ記憶していない残りのページへ視線を走らせた。全身の神経を両目に集中させる。私の生まれ持った異能――「瞬間記憶『レコード・アイ』」が、凄まじい過負荷を伴って起動した。網膜に焼き付くのは、前時代の超古代魔導文明が遺した複雑怪奇な数式と、幾何学的なエーテル回路の図面だ。残り五ページ、三ページ、一ページ――脳の奥深く、神経細胞がパチパチと音を立てて焦げるような錯覚を覚えながら、私は最後の文字までを完璧に脳内デスクトップへと保存した。


 だが、脱出経路が塞がれている。扉の隙間からは、エドワードの神経質そうな顔と、勝ち誇ったような陰湿な瞳が覗き込もうとしていた。彼の右手には、あの忌々しいストップウォッチが握られている。


 (どうする? ここで見つかれば、国家反逆罪で即刻スチームギロチン行き。言い訳の余地なんてない!)


 その時、私の「微小音探知『クロック・リスニング』」が、廊下の角から響くもう一つの足音を捉えた。不規則で、だらしない軍靴の摩擦音。そして、ジャラジャラと鳴り響く重い真鍮の鍵束の音。


 (ハンスさん……!)


 買収した警備員ハンスが、約束通り交代の時間に巡回してきたのだ。私はとっさに、ドレスの隠しポケットから、シエルから貰った万能ヘアピンを抜き取った。そして、エドワードの足元に近い扉の隙間に向けて、ヘアピンの細い金属端子を物理的に弾き飛ばした。


 チィン――、と静かな書庫の廊下に、微小な金属の跳ね返り音が響く。


「ん? 誰だ!」


 廊下の先から、ハンスの野太い大声が響き渡った。同時に、彼が持つ巨大な鍵束が激しく揺れ、ジャラジャラと騒がしい音を立てる。深夜の静寂の中で突如として発生した異音に、エドワードの肩がビクリと跳ね上がった。彼は「不法侵入者である私」を捕らえることに集中するあまり、背後から近づく警備員の存在に気づいていなかったのだ。


「うわっ!? け、警備員……!?」


 エドワードが慌てて振り返り、ハンスの方へと視線を向けた。そのわずか一秒、彼の意識が完全に扉から逸れた瞬間――。


 私は「物理隠蔽『心理的死角誘導「シャドウ・ステップ」』」を発動した。人間の視線が「動くもの」や「大きな音」に向く習性を利用し、エドワードの視界の端、まさに光と影の境界線へと滑り込む。気配を消し、呼吸を止め、ただの一枚の影となって扉の隙間からすり抜けた。エドワードがハンスに「いや、私は怪しい者では……」と言い訳を始めたその背後を、私は音もなく通り過ぎ、暗闇の廊下へと静かに消え去った。


     *


 深夜一時十五分。

 帝国図書館の最深部、埃っぽく静まり返った「地下第7書庫」に、私は滑り込んだ。ここが私の唯一の作戦室だ。扉を閉め、二重のロックをかけた瞬間、私は床に膝をつき、激しく咳き込んだ。


「うっ……、げほっ……!」


 胃の奥からせり上がる、焼けるような酸っぱい液体。口元を拭うと、指先に微かな血が混ざっていた。「胃痛耐性『アイアン・ストマック』」で騙し騙し耐えてきたが、極限の緊張と「レコード・アイ」の酷使により、私の胃壁は完全に悲鳴を上げていた。だが、休んでいる暇はない。今夜中に、四つの組織にそれぞれ納品するための『翻訳書』を完成させなければ、金曜日のデッドラインに間に合わないのだ。


「フート、システム起動。脳内データの展開を開始して」


 私がデスクの上の真鍮製の梟――フートの頭を叩くと、フートは「ホー、ホー」とレンズの目を青く光らせ、私の「四重偽装ホログラム手帳」と同期した。手帳のページが淡い光を放ち、空中に四つの異なる仮想デスクトップが投影される。私の脳内に覚醒した「記憶同調率『マルチタスク・アイ(50%)』」が、四つの異なる『嘘の辻褄』をリアルタイムで並行処理し始めた。


 (パンドラの原本に記されているのは、世界の全動力を賄う『大エーテル核』の稼働数式。これをそのまま渡せば、ルテティアは戦争で灰になる。四つの組織が互いの翻訳を突き合わせたとしても、決して破綻しない『偽造報告書の矛盾相殺ロジック』を組み立てるのよ)


 私は羽ペンを握り、凄まじい速度で四つの異なる羊皮紙に文字を書き込み始めた。


 まず、ギデオンのイージス騎士団へは、原本の数式を「魔導障壁の防衛・浄化技術」として翻訳・偽造した。彼らの「異端排除と防衛」という大義名分に合致させ、他組織への攻撃に直接使えないように数式を書き換える。


 次に、ヴァレリウスの仮面劇へは、同じ数式の配列を「闇取引の資金や物資の隠蔽・暗号化技術」として偽造。マフィアの経済活動に利便性を与えつつ、軍事的な破壊兵器としての機能を完全にオミットする。


 そして、ジュリアンのエーテル連合へは、最も純粋な科学数式に見せかけながら、核心となる「エネルギーの臨界点」の数値を意図的にずらした。彼の天才的な頭脳であればいずれ気づくかもしれないが、検証には数ヶ月かかるはずだ。その間にアリバイを再構築する。


 最後に、シエルの夜の鴉へは、原本の数式を「帝国の検問やトラップを無力化するための、局所的なエーテルジャミング技術」として偽造。彼らのゲリラ的な活動を支援しつつ、大規模な破壊活動への転用を防ぐ。


 (これなら、四つの翻訳はそれぞれ『軍事』『経済』『科学』『諜報』という異なる分野の専門文書に見える。もし彼らが情報を突き合わせても、矛盾ではなく、父親が遺した別々のパズルピースだと誤認するはず……!)


 ペンを走らせるたびに、頭痛がひび割れるように激しくなり、胃の底が雑巾のように絞られる。冷や汗が目に入り、視界が滲む。私は「アイアン・ストマック」の精神呼吸法で無理やり心拍数を一定に保ち、微笑みすら浮かべながら、最後の署名を書き終えた。


 カサリ、と四つの偽造翻訳書がデスクの上に並んだ瞬間、私の限界は訪れた。ペンが指先から滑り落ち、インク瓶が倒れる。視界が急速に暗転し、私はデスクの上に崩れ落ちた。


「姉貴! 姉貴、しっかりしろ!」


 遠のく意識の中で、秘密の伝言係であるトビーの焦った声が聞こえた。私の身体は、そのまま深い闇へと沈んでいった。


     *


 気がつくと、私は白い天井を見上げていた。

 鼻を突くのは、ツンとした消毒液とハーブの香り。耳元で聞こえるのは、規則的な点滴の滴下音。私は「アリスター診療所」の古びたベッドの上に横たわっていた。左腕には点滴の針が刺さり、冷たい薬液が体内に流れ込んでいる。


「お目覚めかね、無謀極まる下級書記官殿」


 ベッドの脇から、白衣を着た冷徹そうな眼鏡の男――ドクター・アリスターが、カルテを片手に冷ややかな視線を投げかけてきた。彼の三つ揃えのスーツからは、常に完璧な清潔感が漂っている。


「アリスター先生……。私、どうして……」


「スラムのガキが、半死半生の君を背負ってここに転がり込んできたんだよ。重度の胃潰瘍による内出血、それに脳のエーテル過熱。君の胃は、今にも穴が開きそうなほどボロボロだ。言っておくが、私の特製薬は君の無茶を保証する魔法の薬じゃない。これ以上自分を痛めつければ、次は本当にスチームギロチンではなく、胃潰瘍で死ぬことになるぞ」


 アリスターは皮肉たっぷりに言い放ちながらも、私の枕元に、新しく調合された「アリスター特製『胃粘膜保護剤・改』」の青いカプセルが詰まった小瓶を置いてくれた。彼の口の悪さに隠された、医師としての確かな優しさが、今の私には何よりも温かく感じられた。


「すみません、先生……。でも、あれは、どうしても届けなければならなくて……」


「安心しろ。君が倒れる直前に完成させたあの四つの薄汚い書類は、そのスラムのガキが責任を持って、指定された四つのルートへ時間差で納品を完了したよ。各組織の連絡員からは、すでに『極めて高い満足度』を示す暗号返信が届いている」


 その言葉を聞いた瞬間、私のホログラム手帳が微かに震え、画面に新たな文字が浮かび上がった。


 【スパイ信用階級が昇格しました:『ブロンズ・ブローカー』⇒『シルバー・メッセンジャー』】


 (やった……! 四組織を同時に騙しきって、パンドラの翻訳クエストを完遂したんだ!)


 シルバー・メッセンジャーへの昇格。これにより、私は裏社会での発言権を強め、独自の「時計塔アパート」を借りるための資金と、アリバイ用の自由な移動時間を確保することに成功した。バルトロへの借金返済も、これで一歩前進する。


 点滴のおかげで、胃の激痛は静かな微熱へと落ち着いていた。診療所の窓から差し込む朝の光を浴びながら、私はようやく、張り詰めていた緊張の糸を緩めることができた。ここにはギデオンの威圧感も、ヴァレリウスの冷酷な視線も、シエルの油断ならない笑みもない。ただ、静かな時間が流れている。


 だが、その平穏は、私の耳元で突如として鳴り響いた金属的な通信音によって、一瞬にして打ち砕かれた。


 ピー――。


 手帳と同期した変声イヤリングから、聞き慣れた、しかし今は最も聞きたくない「科学的狂気」を帯びた青年の声が、直接私の鼓膜を震わせた。


『やあ、僕の可愛い助手。君が納品してくれたパンドラの翻訳数式……あれ、本当に素晴らしいよ。でもね、不思議なんだ。翻訳された回路の裏に、僕のデータベースにある『大エーテル核』の適合ナノマシンを活性化させる、本物の設計コードが極微細に混ざり込んでいるのを発見しちゃったんだよね』


 ジュリアンの興奮した早口な声が、冷たく私の頭を殴りつける。点滴のチューブが、私の手の震えで小さく揺れた。


『ただの下級書記官が、どうしてこのコードを知っているのかな? ねえ、レン。君の美しい脳には、僕の想像を超える何かがあるに違いない。……今すぐ、僕の研究所に来てよ。君の脳波をミリ秒単位で測定して、その完全記憶能力の正体を、僕がすべて解剖してあげるからね』


 ジュリアンの甘く、そして逃げ場のない狂気に満ちた呼び出しが、私の耳の奥で、新たな胃痛の秒読みを開始させた。

HẾT CHƯƠNG

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