禁書「パンドラ」の欺瞞(前編)
「言え、レン。君を脅かす者がいるなら、たとえどこの誰であろうと、私が第一鉄血歩兵連隊の全兵力を動かして、その者を根絶やしにしてやる。……その男の名を、私に教えるんだ」
蒸気カフェ「アルキメデス」の一階、個室A。重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、国教騎士団「イージス」の総長ギデオン・ヴァンスは、私の両肩を砕かんばかりの力で掴んでいた。彼の漆黒の軍服から放たれる圧倒的な魔導の圧力が、狭い室内の空気をビリビリと震わせる。その腰に佩いた聖剣アロンダイトの鞘が、主の激しい憤怒に共鳴して、カタカタと不穏な金属音を立てていた。
私の胃の底から、先ほど服用した「アリスター特製『胃粘膜保護剤・改』」の薬効を強制的にキャンセルするほどの、新たな、そして最大級の激痛がせり上がってきた。冷や汗がこめかみを伝い、視界がチカチカと明滅する。胃潰瘍が今まさに大爆発を起こそうとしていた。
(嘘でしょう……!? ギデオン様、私の泣き腫らした目を見て、バルトロの闇金融を武力で根絶やしにしようとしてる!?)
もしギデオンが今すぐ第一鉄血歩兵連隊を動かしてバルトロ・マッツィーニの事務所を急襲すれば、裏でその債権を買い取る契約を進めているヴァレリウスの「静寂の仮面劇」と正面衝突することになる。それは、ルテティアを火の海にする二大組織の全面戦争の引き金だ。私が血反吐を吐きながら秒単位で調整した「四重アリバイ運行方程式」は、一瞬にしてただの紙屑と化し、私の命もろとも吹き飛ぶだろう。
(止めなきゃ。何が何でも、一秒以内にこの堅物騎士の暴走を止めなきゃ死ぬ!)
私は激痛で引き攣りそうになる表情筋を必死に制御し、左手薬指に嵌められたヴァレリウスからの「微小発信機付き琥珀の指輪」を隠すように、右手の袖口を深く手繰り寄せた。そして、ギデオンの燃え盛るような瞳を、縋るように見つめ返した。マダム・ベアトリス直伝の「自己犠牲的な聖女の演技」を起動するのだ。
「ギデオン様……おやめください。お願いです、その剣を収めてください……!」
私はわざと声を震わせ、彼の漆黒の軍服の胸元に、力なく両手を添えた。可憐で、健気で、しかし決して他者の血を望まない高潔な聖女――それがギデオンの脳内に刻まれた、私の「理想の女性像」だ。
「なぜだ、レン! 君を脅かし、その瞳から涙を流させた不届き者がいるのだぞ! 騎士として、君の盾たる者として、見過ごせるはずがない!」
「これは……私自身の罪なのです」
私は悲痛に満ちた微笑を浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。嘘の中に本物の真実を混ぜ込む「嘘の二重構築『ダブル・ブラフ』」の始まりだ。
「私の亡き父アーサーが遺した、アシュレイ家の因果……。私の個人的な、そしてあまりにも醜い金銭の問題なのです。そんな俗世の争いに、高潔なる国教騎士団の尊い血を流すなど、あってはなりません。もし私のために誰かの命が失われれば、私は一生、自分を許すことができなくなります……!」
ギデオンが息を呑むのが分かった。彼の瞳の奥に渦巻いていた破壊的な魔力が、私の「自己犠牲的な嘆願」によって、急速に静まり返っていく。「マインド・ミラー」が、彼の胸中に沸き起こる強烈な「後悔」と、私に対する狂信的なまでの「崇拝」を捉えた。彼は、自分が暴走することで、この清らかな聖女の心を傷つけようとしていたのだと誤解したのだ。
「レン……。君は、どこまで気高く、優しいのだ。自分の身が危険に晒されているというのに、他者の血を流すことを拒むというのか……」
「はい……。ですから、どうか私を信じて、その手を引いてください。これは私自身の力で、必ず解決してみせますから」
ギデオンは深く、深くため息をつき、ゆっくりと私の肩から手を離した。彼の耳元が、微かに朱に染まっている。
「……分かった。君がそこまで言うのなら、私の独断での出撃は見合わせよう。だが、これだけは約束してくれ。限界だと感じた時は、いつでも私の名を呼ぶと。私は君の影となり、いかなる闇からも君を守り抜く」
「ありがとうございます、ギデオン様……」
私は安堵の微笑みを浮かべながら、胸中で激しい冷や汗を拭った。なんとか全面戦争の危機は回避した。だが、左手の薬指に嵌められた「琥珀の指輪」が、じわじわと冷たい現実を主張している。この指輪は常時位置情報を発信しており、ヴァレリウスの魔導羅針盤と繋がっているのだ。ギデオンの過保護な愛をいなした今、私はこの「首輪」を嵌められたまま、次の任務へ向かわねばならない。
*
金曜日、午後四時三十分。
私は命からがら「アルキメデス」を脱出し、表の職場である「帝国図書館」へと戻っていた。
ルテティアの中央にそびえる、巨大な石造りの図書館。埃と古いインクの香りが立ち込めるこの場所こそ、私の社会的アリバイの基盤であり、唯一「ドジで無害な下級書記官レン」に戻れる安息の地……のはずだった。
「アシュレイ書記官、戻ったか」
首席書記官室の重厚な扉を開けると、そこには白髪を完璧に整え、厳格な黒の書記官服を纏った老紳士、バーナード・クロムウェルが背筋をピンと伸ばして立っていた。彼は私の不自然な外出(実際は同時デート地獄)を、いつものように「体調不良による中途外出」として処理してくれた張本人だ。彼は私の「瞬間記憶『レコード・アイ』」を極めて高く評価しており、時にその有能さを隠蔽するための防壁となってくれる。
「遅れて申し訳ありません、バーナード様。少し目眩がいたしまして……」
「気にするな。君の身体が脆弱なのは今に始まったことではない。それよりも、君にしかこなせない極秘の特命がある」
バーナードは机の上に、一枚の「偽造された帝国身分証明書」と、奇妙な青い刻印が施されたマスターキーを置いた。私の心臓が、再び嫌なリズムで跳ね上がる。彼の厳格な表情の裏に、何かただならぬ気配を感じたからだ。
「帝国政府より、最深部の区画に保管されている古文書の目録再作成の命令が下った。対象は、禁忌の禁書庫『パンドラ』に眠る、古代魔導技術の原本だ」
(パンドラ……!)
その名を聞いた瞬間、私の脳内に火花が散った。
禁書「パンドラ」。それこそが、現在敵対する四つの組織――ギデオンのイージス騎士団、ヴァレリウスの仮面劇、ジュリアンのエーテル連合、そしてシエルの夜の鴉が、それぞれ異なる目的で血眼になって狙っている「世界のエネルギーバランスを揺るがす古代エーテル技術」の原本だった。
(四組織のボス全員から『盗み出して翻訳しろ』と同時に脅されている禁書が、今、私の目の前にぶら下げられたの!? これは最大のチャンス……だけど、一歩間違えれば国家反逆罪で即刻スチームギロチン行きよ!)
「君の『レコード・アイ』があれば、原本を傷つけることなく、正確な目録を作成できるはずだ。今夜、閉館後の特別作業を許可する。ただし、これは国家の最重要機密だ。一文字の漏洩も許されない」
「は、はい……! 謹んで、お引き受けいたします、バーナード様」
私は震える手でマスターキーと偽造証明書を受け取った。バーナード首席書記官は、私の目を見つめ、静かに、しかし意味深に呟いた。
「レン。君の父親、アーサー・アシュレイもまた……かつてこの書庫の翻訳に深く関わっていた。その意味を、忘れるなよ」
首席書記官のその言葉は、まるで私の正体や、父が遺した四重スパイの真実をすべて見透かしているかのようで、背筋に冷たい氷を押し当てられたような戦慄が走った。
しかし、私の戦慄はそれだけでは終わらなかった。首席書記官室を出て、自分のデスクに戻った瞬間、目の前に影が立ちはだかったのだ。
「やあ、アシュレイ。ずいぶんと首席書記官にお気に入りのようだな」
神経質そうな細面に、ぴったりと整えられた髪。私の隣のデスクで働く同僚であり、最大のライバルであるエドワード・ハミルトンが、不気味な笑みを浮かべて私の前に立っていた。その右手には、帝国監査用の公式ストップウォッチが握られ、チク、チク、チク、と嫌な金属音を刻んでいる。
「エ、エドワードさん……。何か御用でしょうか?」
「御用? いや、単なる同僚としての『勤務管理』だよ。君が席を外していた時間は、ちょうど一時間と四十三秒。目眩で休んでいたにしては、ずいぶんと外の空気が恋しかったようだな」
エドワードはストップウォッチを私の目の前で突きつけ、その細い目をさらに細めた。彼は私の「瞬間記憶能力」を激しく妬んでおり、私の「不自然な勤務態度」の粗を暴いて、首席書記官のポストから私を引きずり下ろそうと執拗に監視を続けているのだ。
「私、本当に体調が悪くて、アリスター先生の診療所へ……」
「ふん、その言い訳がいつまで通用するかね。君が『地味で無害なドジ娘』を演じているのは分かっている。君がこの図書館の特別区画に不自然に出入りしていることもな。私は君の『不法貸出』の決定的証拠を掴むまで、一秒たりともその動きを見逃さないからな」
エドワードの執拗な監視眼が、私の左手薬指へと注がれそうになる。私は心臓が止まりそうになりながら、とっさに右手に持っていた未整理の分厚い古文書の束を、わざと派手に床へとぶちまけた。
「きゃあああっ!? す、すみません! 手が滑ってしまって……!」
ガシャシャーン! と重厚な革装丁の本が床に散らばり、大きな音が静粛な図書館に響き渡る。周囲の書記官たちが一斉にこちらを振り返り、噂話が大好きな同僚のジェーンが「あらあら、レンちゃん、またやったの?」と、エドワードの注意を引くように話しかけてきた。周囲の野次馬の視線に紛れ、私は床に這いつくばりながら、左手の「琥珀の指輪」を制服の長い袖口の中へと完璧に隠蔽した。
「チッ……ドジ女め。まあいい、今夜の君の『特別残業』も、私はしっかりと監視させてもらうよ」
エドワードは忌々しそうに吐き捨て、ストップウォッチをポケットに収めて去っていった。私は床に額を押し当てながら、胃の底から込み上げる本物の胃酸の酸っぱさに、ただ涙を堪えるしかなかった。
(エドワードが監視している……。ハンス警備員の交代時間は、深夜のわずか五分間。その隙に禁書庫に侵入し、パンドラを脳内に記憶しなければならないのに、どうやって彼の目を盗めばいいの!?)
*
深夜、午前十一時五十五分。
静寂と深い霧に包まれた帝国図書館は、まるで巨大な墓標のように沈黙していた。ガス灯の明かりも最小限に絞られ、長い廊下には不気味な影が伸びている。
私は「地味な下級書記官」の制服のまま、地下の暗闇に潜んでいた。耳を澄ます。私の「微小音探知『クロック・リスニング』」が、遠くから聞こえる警備員ハンスの、だらしない足音を捉えた。彼は好物の高級タバコと引き換えに、深夜の巡回ルートを「五分間だけ」迂回してくれる約束になっている。ハンスの足音が遠ざかり、完全に消えた。
(今よ……! 制限時間は五分!)
私は影から飛び出し、禁忌の禁書庫「パンドラ」の巨大な鉄製の扉の前へと滑り込んだ。扉には、古代のエーテル魔法結界と、物理的な二重ロックが施されている。バーナードから借りたマスターキーを差し込もうとしたが、錆びついた鍵穴は冷酷に固く閉ざされ、回る気配がない。焦りが、私の指先を震わせる。このままでは時間をロスする。
(くっ、物理錠が噛み込んでる! 普通の方法じゃ開かない……!)
私は意を決し、髪を留めていた細いヘアピンを引き抜いた。それは、怪盗シエルがかつて「使ってくれた?」とニヤニヤしながら私の髪に挿した、どんな物理ロックも三秒で解錠できる特殊合金製の「万能鍵仕込みのヘアピン」だった。これを使用すれば、シエルの発信ログに『ヘアピンが使用された』という痕跡が伝わってしまう。だが、背に腹は代えられない。
私はヘアピンを鍵穴に差し込み、その頭部をスライドさせた。内部の微細なピッキングツールが展開し、私の「レコード・アイ」が記憶していた鍵穴の内部構造と完全に噛み合う。
――チチチ、カチャリ。
わずか三秒。重厚な物理ロックが音もなく解放された。私は扉を細く開け、滑り込むようにして禁忌の禁書庫へと侵入した。
室内は、微かなエーテルの青い光に満ちていた。中央の石造りの台座の上に、世界のエネルギーバランスを揺るがす古代の魔導技術書「パンドラ」が、厳かに鎮座している。私はその原本を開き、脳の全領域を「瞬間記憶『レコード・アイ』」へと同調させた。瞳の奥に微細なエーテルの光が走り、古代の数式、図面、そして魔導回路の配置が、写真のように私の脳内デスクトップへと焼き付けられていく。
(よし、第一ページ、第二ページ……このまま全ページを脳内に保存すれば、四つの組織にそれぞれ異なる『偽造翻訳』を渡して、均衡を保てる!)
しかし、私が第三ページをめくった、まさにその瞬間だった。
――コツ、コツ、コツ。
禁書庫の外の冷たい石床から、ハンスの重い軍靴ではない、正確で、軽くて、極めて神経質な「革靴の足音」が響いてきた。私の「クロック・リスニング」が、その足音のリズムを瞬時に解析する。脳内の警報が、最大音量で鳴り響いた。
(エドワード・ハミルトン……! どうして!? 彼は帰宅したはずじゃ……!)
エドワードは帰っていなかったのだ。彼は予定外の残業を装い、私が禁書庫へ侵入する瞬間を、ドアの外で待ち伏せするために潜伏していたのだ。
足音は、禁書庫の扉のすぐ前でピタリと止まった。すりガラスの向こうに、エドワードの細長い影が不気味に浮かび上がる。真鍮の doorknob(ドアノブ)が、ギチ、ギチ、と冷酷な音を立てて回り始めた。
「誰かそこにいるのか……? アシュレイ、君だな」
エドワードの勝ち誇ったような、冷酷な声が、静寂な禁書庫のドアを透過して私の鼓膜を突き刺した。扉が開かれるまで、あと数秒。私は原本を持ったまま、逃げ場のない完全な密室に閉じ込められていた。
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