嘘を真実に染める涙
「おや、オードリー。このカフェの新型蒸気自動給仕システム、ボイラーの圧力が不自然に揺らいでいるね」
ジュリアン・エインズワースの軽やかで知的好奇心に満ちた声が、二階の廊下に響き渡る。彼の足音が、私が潜む裏階段の踊り場のすぐ手前で止まった。真鍮製の測定器の針がカチカチと不穏な音を立てている。
あと数歩で、彼は個室Bのドアノブに手をかける。そこには地下組織「静寂の仮面劇」の首領、ヴァレリウス・クロスが待っているのだ。もし彼らが鉢合わせれば、そして制服とドレスが半端に絡み合った私の姿を見られれば、その瞬間に私の四重スパイ生活は終わりを迎える。すなわち、物理的な死だ。
(どうする、レン……! 脳細胞をフル回転させなさい。ここでジュリアン様を止め、ヴァレリウス様の部屋へ滑り込むルートを計算するのよ!)
心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動する。精神負荷は完全に「レベル2:冷や汗と動悸」の限界値に達していた。胃の奥が焼き付くように熱い。私は踊り場の物陰から、一階のカウンターにいる看板娘のオードリーへと、必死の眼光で合図を送った。
オードリーは私の青ざめた顔と、半ば引き裂かれたような衣装の異常事態を察知し、深く息を呑んだ。彼女の瞳に、私の必死の修羅場への同情と、共犯者としての覚悟が宿る。彼女はテキパキとした動きで、壁に設置されたカフェのメイン蒸気配管のバイパスバルブへと手を伸ばした。
――ガガガ、と真鍮の配管が激しく振動する。
「ええっ!? ジュ、ジュリアン様、大変です! ボイラーの安全弁が!」
オードリーの悲鳴と同時に、彼女が意図的に過負荷をかけた蒸気パイプの継ぎ手から、高圧の白い蒸気が爆発的に噴出した。シュウウウウウ! という鼓膜を裂くような大音量とともに、二階の廊下は一瞬にして一寸先も見えない濃厚な白い霧に包まれる。
「おっと! これはひどい。蒸気圧のフィードバック制御が完全にバグを起こしているね。面白い、設計の欠陥を直接観察できるチャンスだ!」
ジュリアンは激しく咳き込みながらも、その科学的狂気を刺激され、個室のドアから完全に注意を逸らして配管の破損部へと駆け寄っていった。霧の中に彼の白衣の背中が消えていく。
(今よ……!)
私は霧に紛れ、噛み込んでいた「10秒クイックチェンジ・ドレス」の金属バネを「10秒着替え『クイック・シフト』」の指先技術で力任せに押し込んだ。カチャリ、と音がして、グレーの図書館制服がコルセットの隠しポケットへと完全に収納される。艶やかな深紅のドレスが私の身体を包み込んだ。
私は個室Bの重厚なマホガニーの扉を静かに開け、滑り込むようにして中へ入り、背後で音を立てずに閉めた。
部屋の中は、一階のボイラーの騒音から遮断された静寂が支配していた。ソファに横たわるヴァレリウス・クロスが、煙管から紫煙を吐き出しながら、ゆっくりと私を振り返る。その妖艶な紫の瞳が、僅かに細められた。
「遅かったね、私の可愛い毒蜘蛛。お手洗いで迷子にでもなっていたのかな?」
ヴァレリウスが立ち上がり、音もなく私へと近づいてくる。彼の長身が影となって私を覆い、逃げ場のないプレッシャーが肌を刺した。私は「感情プロファイリング『マインド・ミラー』」を起動し、彼の感情の波を読み取ろうとした。彼の心の奥底には、冷酷な疑心暗鬼と、それを上回る異常なまでの独占欲が渦巻いている。
「少し、お腹の調子が悪くて……。お待たせしてしまってごめんなさい、ヴァレリウス様」
私は「生意気な毒蜘蛛」の微笑みを浮かべ、体調不良を言い訳にしようとした。しかし、それは致命的な悪手だった。
ヴァレリウスは私の顎を細い指先で乱暴に持ち上げ、その顔を極限まで近づけた。彼の整った唇が、冷酷な弧を描く。
「私の前で、そんな稚拙な嘘を吐くのかい? ミラベル」
心臓が冷たく凍りつく。ヴァレリウスは私の首元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。彼の銀髪が私の鎖骨をくすぐる。
「やはり香るね……。ローズの香水で必死に隠しているが、その下にあるのは、イージス騎士団の連中が身につける『聖銀の浄化香』の匂いだ。それだけじゃない。君の呼吸は異常に荒く、瞳孔は恐怖で揺れている。……君は私を裏切り、あの小汚い聖騎士どもと繋がっているのではないかな?」
彼の紫の瞳の奥に、本物の殺意が宿る。裏社会の頂点に立つ怪物の手が、私の細い首筋へとゆっくりと滑り落ちていく。握りつぶされる。嘘がバレれば、この場で私は冷たい骸にされる。
(ただの言い訳じゃ通じない。彼の疑心を『裏切りへの怒り』から別の方向へ逸らすには……もっと巨大な『真実の弱み』を差し出すしかない!)
私はマダム・ベアトリスから伝授された極限の心理技術を脳内で再生した。大きな嘘を隠すために、わざと本物の小さな真実を白状する――「嘘の二重構築『ダブル・ブラフ』」だ。
私は表情筋の緊張を極限まで緩め、瞳孔をわずかに開いた。室内のガス灯の淡い光が、私の潤んだ瞳の表面で美しく反射するように調整する。マダム・ベアトリス直伝の「表情筋コントロールによる偽装涙」だ。私の目元に、今にもこぼれ落ちそうな、嘘なのに本物以上に美しい一滴の涙が浮かび上がった。
ヴァレリウスがその涙を見た瞬間、彼の指先が、ほんの一瞬だけピクリと震えた。彼の瞳の奥に、かつて没落の中で見た「大切な何か」を思い出したかのような、奇妙な動揺が走るのを「マインド・ミラー」が捉えた。
「……泣くなんて、君らしくないね。嘘を暴かれたのが、そんなに恐ろしいかい?」
「違うわ……!」
私は彼の胸元に弱々しく両手を置き、顔を伏せて涙を一滴、彼の高級スーツの生地へと染み込ませた。声を細く震わせ、地味なレンとしての「本物の恐怖」を言葉に乗せる。
「裏切ってなんかいないわ……。イージスの連中に近づいたのは、お金が必要だったからよ。私には……叔父(ヘンリー)が残した、莫大な借金があるの。バルトロ・マッツィーニの闇金融に、毎日毎日、酷い取り立てを受けていて……。今週末までに利息を払わなければ、裏の奴隷市場に売り飛ばすと脅されているのよ!」
これは100%本物の真実だった。私の叔父が作った借金、そして取り立て屋のジョゼフに毎週給与をむしり取られている現実。その「本物の痛み」が、私の涙に圧倒的な説得力を与えていた。
「バルトロだと……?」
ヴァレリウスの言葉から、冷酷な殺意が消え、代わりに不快感と、歪んだ支配欲がせり上がってくるのが分かった。彼の疑心は、完璧に「自分を頼らずに、他の男(バルトロや騎士団)に這い寄ったことへの不満」へとスライドしていた。
「なぜ、私に言わなかったんだ? そんな端金、私のカジノの一晩の稼ぎにも満たないというのに。君は私のものだと言ったはずだ。それなのに、他の男に脅され、怯え、あろうことか騎士団の犬どもにまで縋ろうとするなんて……」
ヴァレリウスは私の首筋から手を離し、私の頬を伝う涙を、彼の親指で優しく、しかし逃がさないように強く拭った。彼の微笑みは、先ほどよりも遥かに深く、甘美で、そして狂気に満ちていた。
「いいよ、ミラベル。そのバルトロの債権は、私がすべて買い取ってあげよう。君の叔父の借金は、今この瞬間から、すべて私への『個人的な負債』だ」
「え……?」
「もう、誰のところへも行く必要はない。君は私の黄金の檻の中で、私のためだけに美しい蜘蛛の糸を紡いでいればいいんだ。……そのための、小さな『印』をあげよう」
ヴァレリウスは懐から、妖艶な白金の台座に大粒の琥珀が輝く指輪を取り出した。それは、彼の組織が開発した「微小発信機付き琥珀の指輪」だった。彼は私の左手を取り、抵抗する隙も与えずに、薬指へとその指輪を無理やり嵌め込んだ。
「これで君がどこに隠れようと、私にはすべてお見通しだ。もう二度と、私の視界から消えることは許さないよ」
指輪が指に馴染む冷たい感覚に、私は心の中で悲鳴を上げた。位置情報の常時監視という、スパイにとって最悪の「首輪」を嵌められてしまったのだ。だが、今はこれでヴァレリウスの疑惑を完璧に逸らすことができた。支払った代償は大きいが、生き残るための最低限の勝利だ。
「……ありがとう、ヴァレリウス様。私、あなたを信じていいのね?」
「もちろんだよ、私の可愛い蜘蛛。さあ、もう行きなさい。これ以上、あの騎士どもの匂いを纏って私の前に現れないようにね」
私は彼に妖艶な一礼をし、個室Bを退出した。ドアが閉まった瞬間、私はリネン室へと滑り込み、崩れ落ちるようにして床にへたり込んだ。
(ハァ、ハァ……死ぬかと思った……! 胃が、胃が引き裂かれる……!)
私は震える手で懐から「アリスター特製『胃粘膜保護剤・改』」を取り出し、水なしで一気に飲み下した。喉が焼けるように熱いが、数秒で胃の激痛が麻痺していく。私は「10秒着替え『クイック・シフト』」を起動し、深紅のドレスを瞬時にグレーの図書館制服へと戻した。眼鏡をかけ、髪をきっちりと留め直す。鏡の中には、再び地味な書記官レンの姿があった。
私は一階の個室Aへと走り、ドアを叩いて中へ戻った。
「ギデオン様、お待たせいたしました……。お手洗いが混み合っておりまして……」
ギデオン・ヴァンスは席から立ち上がり、私の姿を見るなり、その切れ長の冷徹な瞳を大きく見開いた。彼の漆黒の軍服から、圧倒的な軍事的威圧感が放たれる。
「レン! その顔はどうした!?」
ギデオンが私の肩を強く掴んだ。彼の視線は、私がヴァレリウスの前で流した涙によって、赤く泣き腫らしたままの私の目元に注がれていた。
「泣いているのか……? 誰が君を傷つけた。誰が君を泣かせたんだ!」
ギデオンの聖剣アロンダイトの鞘が、彼の激しい怒りに共鳴してカタカタと不穏な音を立てる。彼の過保護なまでの独占欲が、狂信的な怒りへと変貌していくのが分かった。
「言え、レン。君を脅かす者がいるなら、たとえどこの誰であろうと、私が第一鉄血歩兵連隊の全兵力を動かして、その者を根絶やしにしてやる。……その男の名を、私に教えるんだ」
(嘘でしょう……!? ギデオン様が私の涙を見て、バルトロの闇金融を壊滅させるために軍隊を動かそうとしてる!?)
もし騎士団がバルトロを襲撃すれば、裏で繋がっているヴァレリウスの仮面劇との全面戦争が勃発する。私の完璧なスケジュール運行表は、一瞬にして消し飛ぶだろう。
ギデオンの怒りに満ちた瞳を見つめながら、私の胃の底から、先ほどの薬効を強制的にキャンセルするほどの、新たな、そして最大級の激痛がせり上がってきた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!