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双方向の密会:カフェ「アルキメデス」の奇跡

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「アシュレイ書記官、お届け物だ! ギデオン総長閣下からの緊急召集令状である! 至急、大聖堂へ同行願いたい!」


 薄い木の扉を透過して響き渡った伝令官ジョージの張りのある声は、アパートの室内に、氷点下の静寂をもたらした。

 私の目の前には、トレンチコートの襟を立てた帝国警察特殊捜査課のアーサー・ペンドルトン警部が立っている。彼の灰色の瞳が、極限の疑惑を湛えて私をじっと射抜いていた。私の胃は、まるで冷たい鉄の爪で雑巾のように絞り上げられるような激痛を訴え始める。日常的胃痛レベルが、一瞬にして跳ね上がるのを感じた。


 (どうする、レン!? ここで言い訳を一つでも間違えれば、国家反逆罪でスチームギロチン行きよ……!)


 私は『瞬間記憶(レコード・アイ)』をフル稼働させ、脳内に保存された帝国図書館の行政規約と、ギデオンに関する情報をコンマ数秒で検索した。そして、眼鏡をわざとさらにずらし、怯えた下級書記官の仮面を完璧に顔に張り付けた。


「あ、あの……! け、警部補様……いえ、警部様! そ、その、ドアを開けてもよろしいでしょうか? 国教騎士団の令状を無視すると、図書館ごと私、処刑されてしまいます……!」


「……開けなさい。私が背後にいる。余計な真似はするな」


 ペンドルトンが冷酷に頷き、懐のピストルに手をかける。私は震える手で鍵を開け、ドアを細く開いた。そこには、息を切らせた見習い騎士のジョージが、仰々しい聖銀の紋章が押された書状を掲げて立っていた。


「アシュレイ書記官! ギデオン総長閣下より、先日模写された『古代粘土板』の翻訳について緊急の確認事項が――」


「あ、あの、ジョージさん!」

 私はジョージの言葉を遮るように、大げさに声を上げた。「例の、イージス騎士団が図書館に委託された、あの『き、極めて退屈な、ただの行政管理用の古い粘土板』の件ですね!? 首席書記官のバーナード様からも、騎士団からの質問には最優先で回答するよう言われております! ただ、今は帝国警察のペンドルトン警部様が、私のアパートのリース契約の監査に来ておられまして……」


 ジョージの背後から、ペンドルトンがゆっくりと姿を現した。その威圧感に、ジョージは一瞬にして直立不動になる。


「帝国警察特殊捜査課だ。騎士団の緊急召集令状を見せてもらおう。下級書記官一人のために、総長自らが令状を出すなど不自然極まりない」


 ペンドルトンが鋭い手つきで令状を奪い取り、携帯用の魔導読み取り機にかける。私は心臓が口から飛び出そうになるのを防ぐため、喉の奥で必死に「アイアン・ストマック」の制御呼吸を維持した。


 (大丈夫、あの令状の文面は公式な『翻訳業務の催促』としてギデオン様が書かせたもの。私的な『聖女』への執着は文面には一切出ていないはず……!)


 読み取り機が「正常」を示す緑色の光を放つ。ペンドルトンは忌々しそうに眉をひそめ、令状をジョージに突き返した。


「……なるほど。図書館が正式に受託した魔導粘土板の翻訳解説か。アシュレイ書記官、君の『完全記憶能力』が騎士団の役に立っているというのは事実のようだな」


「は、はいぃ……! 私、ただ本を暗記することしか能がありませんので……!」


「だが、捜査は継続する。ミラベルの影がこのアパートにある限り、私は監視を緩めない。……行くぞ」


 ペンドルトンは部下を引き連れ、嵐のように去っていった。ドアが閉まった瞬間、私はその場に膝から崩れ落ち、激しい冷や汗を流した。クララが悲鳴を上げて私を抱き起こす。フートが心配そうに「ホー、ホー」と頭を傾げた。


 しかし、これが地獄の始まりに過ぎなかった。

 ジョージから手渡された召集令状に記された日時は、**「金曜、午後三時」**。

 そして、その直後にホログラム手帳が明滅し、ヴァレリウスからの緊急暗号が届いた。指定された日時は、全く同じ**「金曜、午後三時」**。

 場所はどちらも、工業区と軍事区の境界にある、最先端の蒸気機関を備えた蒸気カフェ「アルキメデス」だった。


「同じ日の、同じ時間、同じカフェで……騎士団長とマフィアの首領と同時デートしろって言うの!?」


 私の絶叫は、アパートの薄い壁に虚しく吸い込まれた。


     *


 金曜日、午後二時五十分。蒸気カフェ「アルキメデス」は、真鍮の配管から立ち上る白い蒸気と、コーヒー豆の香ばしい香りに包まれていた。

 私の胃は、朝から服用している「アリスター特製『胃粘膜保護剤・改』」のおかげで、辛うじてその形を保っていた。だが、心臓はドラムのように激しく打ち鳴らされ、冷や汗が止まらない。精神負荷は完全に「レベル2:冷や汗と動悸」に達していた。


「レン、準備はいい? バネの固定は完璧よ。激しく動いても、この引き紐を引かない限りは絶対に外れないわ」


 カフェの裏口の死角で、クララが私のドレスの最終調整を終え、力強く私の肩を叩いた。今日の私の衣装は、クララが持てる技術のすべてを注ぎ込んだ「10秒クイックチェンジ・ドレス」だ。

 外側は、地味で煤けた帝国図書館のグレーの書記官制服。しかし、内側には、ヴァレリウスが好む、妖艶で身体のラインを強調する深紅の社交界用イブニングドレスが仕込まれている。コルセットの内側と肩口に仕込まれた「一括解除ギミック」の紐を引けば、わずか十秒で制服が内側の隠しポケットへと折りたたまれ、完全に別人の「ミラベル」へと変身できる構造だ。


「クララ、本当にありがとう。もし私が死んだら、お墓には美味しい胃薬を供えてね」


「縁起でもないこと言わないで! ほら、看板娘のオードリーが合図を送ってるわ。行きなさい!」


 カフェの裏口から顔を出した看板娘のオードリーが、手にしたトレイを小さく振った。彼女は私の必死の事情(もちろん、四重スパイだとは言っていないが、複数の危険な男たちから同時に言い寄られているという『同情すべき修羅場』として説明してある)に深く同情し、完璧な共犯者として協力してくれていた。


「レンさん、配置は完了しました。一階の個室Aにギデオン様、二階の個室Bにヴァレリウス様をご案内しています。どちらの部屋も、私が直接給仕を担当します。移動の際は、裏階段の死角を使ってください」


「オードリー、あなたこそ私の救世主よ……!」


 私は深く息を吸い込み、眼鏡の位置を正すと、まずは「地味な書記官レン」として、一階の個室Aの扉を叩いた。


「失礼いたします、ギデオン様。アシュレイ書記官、参りました」


 扉を開けると、そこには漆黒の軍服を完璧に着こなしたギデオン・ヴァンスが座っていた。磨き上げられた聖剣アロンダイトが壁に立てかけられ、彼の切れ長で冷徹な瞳が、私を見た瞬間にだけ、奇跡のようにふわりと和らいだ。


「待っていた、レン。急な呼び出しで驚かせただろう。……顔色が悪いな。体調は大丈夫か?」


 ギデオンが立ち上がり、大柄な身体で私を包み込むようにして席を促す。その過保護なまでの優しさに、私の胃がチクチクと痛む。


「は、はい、少し寝不足なだけで……ギデオン様にお会いできて、元気が出ました」


 私は「おっとりした聖女」の微笑みを浮かべ、持参した粘土板の模写を広げた。脳内の「マルチタスク・アイ(50%)」を起動し、ギデオン用の『偽の翻訳解説』を滑らかに紡ぎ始める。


「この粘土板に刻まれた古代文字ですが、これは大エーテル核の制御ではなく、古代の『農業用の水路管理システム』の記録でした。騎士団の軍事利用には、残念ながら直接は使えないようです……」


「そうか。だが、君が無事で、こうして私のために知恵を絞ってくれた。それだけで十分だ。バルドゥール査問官がこの街に入ったと聞き、君の身が心配でならなかったのだ」


 ギデオンは私の手の上に、彼自身の大きな手をそっと重ねた。その体温が、私の嘘に対する罪悪感を容赦なく刺激する。だが、感傷に浸っている時間はない。オードリーが個室のガラス窓の外で、コーヒーカップを二回カチャカチャと鳴らした。開始から十分。移動の合図だ。


「あ、あの、ギデオン様。少し、お手洗いに席を外してもよろしいでしょうか? 緊張のせいで、その、お腹が……」


「ああ、すまない。私の威圧感が君を緊張させたな。気をつけて行くがいい」


 ギデオンが申し訳なさそうに手を離す。私は彼に深々と一礼し、個室Aを後にした。


 扉が閉まった瞬間、私は脱兎のごとく廊下を走り、裏階段の踊り場にある、リネン室の死角へと滑り込んだ。ストップウォッチの針は、すでに十五秒を数えている。


「クイック・シフト、起動……!」


 私はドレスの肩口に隠された引き紐を、指先で正確に、力強く引っ張った。カチャ、という微細な金属音が響き、制服のボタンが一斉に解除される。クララの設計したギミックが完璧に作動し、グレーの制服がまるで脱皮するように滑り落ち、コルセットの裏側の隠しポケットへと吸い込まれていく。その下から、艶やかな深紅の絹地が広がり、私の身体を妖艶に包み込んだ。


 私は眼鏡を外し、髪を留めていたピンを抜いて、赤茶のウェーブヘアを肩へと流した。香水の小瓶をひと吹きし、ギデオンの制服から漂っていた「聖銀の purify香」をローズの香りで上書きする。鏡を見る時間はない。脳内の瞬間記憶で自身の姿をシミュレートし、完璧な「情報屋ミラベル」としての表情筋を固定した。所要時間、九秒七。


 私は裏階段を駆け上がり、二階の個室Bの扉を、今度は不敵な笑みを浮かべて開け放った。


「お待たせしたかしら、ヴァレリウス様?」


 個室Bのソファには、銀髪を緩く揺らしたヴァレリウス・クロスが、優雅に煙管を燻らせながら横たわっていた。妖艶な紫の瞳が、私を見た瞬間に細められる。彼の周囲には、甘く危険な煙が漂っていた。


「遅かったね、私の可愛い毒蜘蛛。お仕置きが必要かと思っていたところだよ」


「ふふ、お仕事が少し長引いてしまって。でも、あなたのために、とっておきの『お土産』を持ってきたわ」


 私はヴァレリウスの対面に座り、足を組んだ。そして、ギデオンの騎士団の巡回スケジュールを、意図的に『改ざんしたデータ』として提示した。これで、仮面劇の密輸ルートと騎士団の進路は物理的に完全に引き離される。


「ほう……。イージスの連隊長をこうも簡単に手玉に取るとは。やはり君は、私の退屈な人生を彩るにふさわしい」


 ヴァレリウスが身を乗り出し、私の顔に煙管の煙をふわりと吹きかけた。私は眉一つ動かさずに微笑み返したが、次の瞬間、彼の美しい鼻腔が微かに動いた。


「……おや?」


 ヴァレリウスが私の首元に顔を近づける。彼の鋭い視線が、私の鎖骨のあたりをじっと見つめた。私の心臓が、一瞬だけ停止する。


「微かに香るね……。イージス騎士団の連中が、大聖堂の儀式で使う『聖銀の浄化香』の匂いだ。なぜ、私の毒蜘蛛から、あの小汚い犬どもの匂いがするのかな?」


 (しまっ……! 消臭が不完全だった!? ギデオン様が私に触れた時の匂いが、ドレスの繊維に残っていたのよ……!)


 胃の底から、冷たいマグマのような激痛がせり上がってくる。冷や汗が背中を伝う。だが、私は脳内の「マルチ・ブレイン」を臨界速度まで叩き起こし、即座に「嘘の二重構築(ダブル・ブラフ)」を組み立てた。私はわざとヴァレリウスの胸元に指先を滑らせ、生意気な笑みを浮かべた。


「あら、気づかれてしまった? あの堅物な騎士団長に、この改ざんデータを信じ込ませるために、どれだけ近くで『聖女』を演じなければならなかったか……あなたなら、想像がつくでしょう?」


「……ほう?」


「彼らを欺くための潜入捜査の痕跡よ。それとも、ヴァレリウス様は、私が他の男の香りを纏っていることに……嫉妬してくださるのかしら?」


 ヴァレリウスの瞳の奥に、サディスティックな、しかし強烈な独占欲の炎が揺らめいた。彼は私の指先を掴み、その爪にそっと唇を寄せた。


「面白い言い訳だ。だが、私の蜘蛛が他の巣にかかることは許さない。……君のその美しい嘘に、免じて今回は信じてあげよう」


 切り抜けた。胃の痛みが、一時的なアドレナリンによって麻痺していく。私はオードリーが個室のドアを軽く叩く音を聞いた。二階での滞在時間、十分。再び一階へ戻る時間だ。


「では、私はこれで。あまり長く留まると、犬どもに怪しまれてしまうわ」


「またすぐに会おう、ミラベル。次は、もっと甘い時間をね」


 私はヴァレリウスの部屋を後にし、再びリネン室へ駆け込んだ。ドレスの引き紐を戻し、グレーの制服を引っ張り出す。髪を素早くピンで留め、眼鏡をかける。鏡の中の私は、再び「地味な下級書記官レン」に戻っていた。


 一階の個室Aに戻り、ギデオンの前で再び「聖女」として微笑む。これを交互に繰り返すこと、すでに三往復。私の脳は熱を帯び、胃は雑巾のようにボロボロになっていたが、完璧な『秒単位のアリバイ(スプリット・タイム)』により、二人の首領は私という同一人物を巡って、同じカフェにいることすら気づいていなかった。


 すべては、完璧にコントロールされている――はずだった。


 四往復目の移動のために、私が裏階段の踊り場に立った、まさにその時。

 私のポケットの中で、フートが脳内に直接、最大級の警告アラームを鳴り響かせた。


 (警告、警告! カフェの入り口から、未登録の強力なエーテル魔導波を検知! 個体識別――ジュリアン・エインズワース!)


「な……ジュリアン様!?」


 私は息を呑み、踊り場の小窓からカフェのロビーを見下ろした。そこには、ボサボサの白髪に丸眼鏡、煤のついた白衣を羽織った天才錬金術師、ジュリアン・エインズワースが、真鍮製の測定器を片手に、ズカズカとカフェの中へと歩み入ってくる姿があった。


「おや、オードリー。このカフェの新型蒸気自動給仕システム、ボイラーの圧力が不自然に揺らいでいるね。僕が設計したエーテル熱力学の数式に、微小なエラーが出ている。今すぐ、二階の配管室を調整させてもらうよ」


「え、ええっ!? ジュ、ジュリアン様、本日は急な点検のご予定は……!」


 オードリーが顔を真っ青にして引き止めようとするが、ジュリアンはその風変わりな好奇心のままに、測定器の針を見つめながら、一歩ずつ階段を上り始めていた。


 (最悪よ……! ジュリアン様が二階に上がったら、個室Bにいるヴァレリウス様と鉢合わせる! それだけじゃない、もし私が着替えの途中でジュリアン様に見つかったら、私の『完全記憶脳』の秘密も、四重スパイの事実も、すべてが科学的に暴かれてしまう……!)


 ジュリアンの軍靴の音が、階段を上るたびに、私の脳内で死のカウントダウンのように響き渡る。

 一階にはギデオン、二階にはヴァレリウス、そして階段を上ってくるジュリアン。

 逃げ場のない蒸気カフェ「アルキメデス」の中で、史上最悪のトリプルブッキングの危機が、ついに幕を開けようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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