最初の秒読み、時計塔の攻防
ルテティアの霧は、いつも容赦なく冷たい。蒸気機関の煤煙と混ざり合い、街全体をどんよりとした灰色に染め上げるその霧は、私の冷え切った胃袋をさらに痛めつけるかのようだった。
「ちょっとレン、このコルセット、裏地に仕込みナイフ用のポケットと、魔導通信機用のホルダーを同時に作れってどういうこと? 劇立劇場の新作衣装でも、こんな過剰な武装は要求されないわよ?」
時計塔のアパルトマンの最上階。まだ家具もまばらな部屋の真ん中で、私の親友であり、帝立劇場の衣装デザイナーでもあるクララ・バルドが、ピンク色の髪をくしゃくしゃに掻き回しながらメジャーを振り回していた。
「ごめんなさい、クララ。でも、それがないと私の命が『物理的』に持たないの。お願い、世界でこれを作れるのはあなただけなのよ」
私は机の上に突っ伏したまま、胃のあたりをぎゅっと押さえて懇願した。本当に、物理的に胃に穴が空きそうだ。王室医アリスターから処方された「胃粘膜保護剤」の小瓶は、すでに半分以上が空になっている。
「ミラベル」としての本格的な活動拠点として、このルテティアの街を一望できる時計塔のアパルトマンを個人でレンタルしたまでは良かった。だが、この部屋には現在、絶対に他人に見られてはならない「破滅の証拠」が山積みになっていた。
机の端には、国教騎士団「イージス」の総長ギデオンから贈られた、まばゆい守護の魔力を放つ「防弾仕様の聖銀ブローチ」。その隣には、マフィア「静寂の仮面劇」の首領ヴァレリウスから押し付けられた、私の位置情報を特定するための「微小発信機付き琥珀の指輪」。さらに床のトランクには、錬金術師ジュリアンから渡された魔導書や実験器具、そして怪盗シエルが私の髪に挿していった「万能鍵仕込みのヘアピン」が乱雑に詰め込まれている。
これらが一つでも帝国警察の目に留まれば、私はその場で「国家反逆罪」としてスチームギロチン行きだ。
「はいはい、わかったわよ。あなたのそのお腹の弱さと引き換えの超人的なアドリブ力には、いつも驚かされるもの。このクイックチェンジ用のドレスも、十秒で図書館の『地味な書記官』から『妖艶な情報屋ミラベル』に変身できるように調整しておくから」
クララが呆れたようにため息をつき、トランクの中の危険なプレゼントたちを劇団の「舞台用小道具」の箱へと手際よく隠し始めた。その頼もしい背中を見つめ、私は少しだけ胸を撫で下ろした。彼女の職人魂と無条件の友情がなければ、私はとっくに精神が崩壊していただろう。
だが、安息の時間は一瞬にして消し飛んだ。
――コツ。コツ。コツ。
私の耳が、不穏な足音を捉えた。祖父マクシミリアンから受け継いだ私の耳――「微小音探知『クロック・リスニング』」が、時計塔の古い木製階段を上がってくる、鉄板が仕込まれた軍用の靴底の音を正確に聞き分けたのだ。
歩幅、接地圧、そして一定の冷徹なリズム。脳内のデータベースが即座にその人物を特定する。
「……ペンドルトン警部」
私の呟きに、クララがビクリと肩を揺らした。帝国警察の執念深い捜査官、アーサー・ペンドルトン。裏社会で暗躍する「ミラベル」の正体を暴くことに異常な執念を燃やす、この街で最も敵に回したくないロジカルな刑事だ。なぜ、このアパートの場所がもう割れているの!?
「レン、どうする!? まだ証拠が半分も隠せてないわよ!」
「クララ、落ち着いて。部屋の衣装を全部引っ張り出して、ここを劇団の臨時衣装保管庫に見せかけるのよ! 早く!」
私は指示を飛ばしながら、デスクの上に置かれた真鍮製の梟――ジュリアンから「秘書」として贈られた高性能オートマタ「フート」へと飛びついた。フートのレンズの目が、私の接近を検知してカタカタと青く光る。私は「瞬間記憶『レコード・アイ』」で記憶していた、ジュリアンが手帳に仕込んでいたハッキングコードを脳内で再生し、フートの蒸気コアへと直接コマンドを入力した。
「フート、システム内部をハック。ミラベル名義の全エーテル通信ログを暗号化し、私の『地味な書記官レン』の偽装市民データと同期して。このアパートの契約書を、帝立劇場の『衣装保管用臨時リース契約』に書き換えるのよ!」
フートの内部で小さな歯車が超高速で回転し、蒸気圧のシグナルが私の「四重偽装ホログラム手帳」へと送信される。画面上の「ミラベル」の文字が消え、退屈な図書館の勤務表と、クララの劇団の偽造領収書が瞬時に生成されていく。間に合って、お願い……!
――ドンドン、と重々しい音がドアを叩いた。
「帝国警察だ。開けなさい」
冷徹な声が、薄い木の扉を透過して響き渡る。私は胃の底を襲う激しい差し込み痛に耐えながら、眼鏡の位置をわざとずらし、ボサボサの赤茶髪をさらに乱して、怯えた「下級書記官」の仮面を顔に張り付けた。心理的死角誘導「シャドウ・ステップ」を意識し、自身の存在感を極限まで薄くする。
ドアを開けると、そこにはトレンチコートの襟を立てた背の高い男が立っていた。鋭い灰色の日暮れのような瞳が、眼鏡の奥から私をじっと見下ろしている。ペンドルトン警部だ。彼の背後には、武装した警察官が数名控えている。
「夜分遅くに失礼する、レン・アシュレイ書記官。私は帝国警察特殊捜査課のペンドルトンだ」
彼は懐から、不気味な金色の紋章が刻まれた「帝国警察の秘密捜査令状」を提示した。
「この時計塔のアパルトマンに、最近、裏社会の重要スパイ『ミラベル』が出入りしているという確実な情報があってね。令状に基づき、室内を捜索させてもらう」
「え、ええっ!? ス、スパイですか……!? 私、ただの図書館員です、そんな恐ろしいこと……!」
私はわざと声を上ずらせ、持っていた本を床に派手にぶちまけた。ペンドルトンの視線が、私のドジな動作と、部屋の奥で慌てたように衣装を片付けているクララへと向く。
「……そちらの女性は?」
「あ、私の親友のクララです! 劇場の衣装デザイナーをしていて……実は、私の叔父の借金を返すために、このアパートの半分を彼女の劇団の衣装保管庫としてまた貸し(サブリース)しているんです! だから、部屋がこんなに散らかっていて……」
私はフートが偽造したばかりの「臨時リース契約書」を、震える手でペンドルトンに差し出した。ペンドルトンはそれを手に取り、携帯用の魔導読み取り機にかける。機械が「正常」を示す緑色の光を放った。
「なるほど。だが、君のような薄給の書記官が、なぜこの一等地の時計塔を借りられた? 資金の出所が不自然だ」
ペンドルトンの鋭い視線が、私の顔の微細な筋肉の動きを探るように射抜いてくる。私は「アイアン・ストマック」で胃の痙攣を完璧に抑え込み、困惑と恐怖の表情を維持した。
「それは……首席書記官のバーナード様から、夜間の古文書翻訳の特別手当をいただいているからです。私の唯一の特技は記憶力ですので、その……」
嘘ではない。事実の一部を混ぜることで、嘘の強度は跳ね上がる。ペンドルトンは私の返答をじっと吟味するように沈黙した。彼の視線が、部屋の隅にある「舞台用小道具」と書かれたトランクへと移動する。あそこにはギデオンの聖銀ブローチや、ヴァレリウスの指輪が入っているのだ。もし開けられたら、その瞬間、私の人生は終わる。
「そのトランクの中身を見せてもらおうか」
ペンドルトンが手袋をはめた手で、トランクの留め金に手をかけた。私の心臓が、耳元で鐘のようにうるさく鳴り響く。裏窓から逃げるか? いや、ダメだ。「クロック・リスニング」が、裏路地にも二人の警察官が配置されている音を拾っている。退路は完全に断たれている。
その時、私の足元でフートが「ホー、ホー」と可愛らしく鳴き声を上げ、ペンドルトンの靴元にすり寄った。ジュリアンが施した高度な自律AIが、私の危機を察知して、完璧なタイミングで「無害なペット」を演じたのだ。
「おや、これはエーテル連合の最新式オートマタだな。書記官が持つには高級すぎる」
「あ、それは! 劇場の演出家のオスカー先生から、舞台の演出用にお借りしているもので……!」
クララが絶妙なタイミングで割って入り、大げさな身振り手振りでペンドルトンの注意をトランクから逸らした。ペンドルトンはフートを観察し、再び私を見つめた。彼の灰色の瞳の奥に、冷徹な、しかしどこか哀愁を帯びた光が揺らめく。まるで、かつて何か大切なものを失った捜査官の、執念の裏にある傷口を覗き見るかのような。
「……アシュレイ書記官。君が本当に無害な図書館員であることを願うよ。だが、ミラベルは狡猾だ。どんな地味な仮面の下にも潜り込む。私は、この街の平和を脅かすスパイを、絶対に許さない」
彼はトランクから手を離し、令状を懐に収めた。証拠不十分。最初の家宅捜索を、私たちは紙一重でかわしたのだ。
「行くぞ」
ペンドルトンが部下たちに合図し、部屋の出口へと向かった。私は心の中で、アリスターの胃薬をもう一瓶一気飲みしたいほどの安堵感に浸り、へなへなと崩れ落ちそうになった。
だが、運命の女神は、私に一秒の呼吸すら許さなかった。
ペンドルトンがドアノブに手をかけた、まさにその瞬間。
アパートの廊下から、騒がしい足音が近づいてきた。それはペンドルトンの部下のものではない。もっと重々しく、規律に満ちた、国教騎士団特有の「聖銀の拍子木」が鎧と擦れ合う音だ。
――ピンポーン。
アパートの呼び鈴が、静まり返った部屋に甲高く鳴り響いた。そして、ドアの向こうから、あまりにも明瞭で、あまりにも生真面目な男の声が響き渡った。
「アシュレイ書記官、お届け物だ! ギデオン総長閣下からの緊急召集令状である! 至急、大聖堂へ同行願いたい!」
ギデオンの伝令官ジョージの声だった。まだドアの前に立っているペンドルトン警部の耳に、その「聖女」を呼ぶ声が、一字一句違わず届いてしまったのだ。
ペンドルトンがゆっくりと振り返る。その灰色の瞳が、極限の疑惑を湛えて、私をじっと見つめていた。
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