蜘蛛と聖騎士の甘き罠
「四重スパイ……スケジュール帳が、血に染まる……」
深夜の帝国図書館、地下第7書庫。埃と古い羊皮紙の匂いが立ち込める薄暗い空間で、私はデスクに突っ伏したまま、激しい胃痛に身を悶えさせていた。
叔父ヘンリーが遺した莫大な借金を返済するため、私はやむを得ず偽装情報屋「ミラベル」の名を騙った。だが、初日から国教騎士団『イージス』の総長ギデオン・ヴァンスと、マフィア『静寂の仮面劇』の首領ヴァレリウス・クロスの双方から同時に専属スパイとして雇われるという、最悪の二重契約を結ぶ羽目になってしまったのだ。
それだけでも命がいくつあっても足りないというのに、目の前の古いエーテル通信機は、さらに二つの異なる周波数から緊急信号を受信し、青く不気味に明滅している。
一つは『エーテル連合』の若き天才錬金術師、ジュリアン・エインズワース。
もう一つは、反逆の影同盟『夜の鴉』を率いる神出鬼没の怪盗、シエル・ド・ロワール。
どちらも私の「二面性」に気づき、断れば即座に正体を暴露する、あるいは脳を解剖するという脅迫を突きつけてきている。
「は、早く胃薬を……いや、それどころじゃないわ。ここで応答を間違えれば、夜が明ける前に私の首と胴体が泣き別れになる……!」
私は懐から、王室医アリスターから処方してもらった特製胃薬の小瓶を取り出し、水なしで喉へ流し込んだ。胃の腑を焼くような激痛が、薬の苦味とともにじわじわと引いていく。冷や汗を拭い、私は脳内のマルチタスク領域を強制的に叩き起こした。私の唯一の武器である完全記憶能力「瞬間記憶『レコード・アイ』」が、父アーサーの残した暗号日記から、ジュリアンとシエルの詳細なプロファイリングデータを瞬時に引き出す。
『ジュリアン・エインズワース:科学的真理と未知のデータに異常な執着を持つ。感情的な説得は無意味。彼の知的好奇心を刺激する「未解明の謎」を提示せよ』
『シエル・ド・ロワール:退屈を嫌い、スリルと「美しい欺瞞」を愛するトリックスター。彼の前で弱者ぶるな。対等な「共犯者」としての価値を示し、彼の独占欲をハックしろ』
「よし、やるしかないわ……!」
その瞬間、書庫の空気がわずかに冷たくなった。天井の真鍮製通気口から、音もなく滑り降りてきた影がある。月光を浴びてきらめく金髪、不敵な笑みを湛えた青い瞳。夜会服を優雅に着こなしたその男――怪盗シエルが、私のデスクの端に腰掛け、細い指先で私の顎をそっと持ち上げた。
「やあ、可愛い子猫ちゃん。それとも、聖騎士様の『聖女』であり、マフィアの『毒蜘蛛』でもある、偉大なる情報屋ミラベルと呼ぶべきかな?」
心臓が跳ね上がった。だが、私は「胃痛耐性『アイアン・ストマック』」を極限まで稼働させ、表情筋を完璧に制御して、妖艶な笑みを浮かべた。ここで怯えれば、彼の「獲物」にされて終わる。
「お耳が早いのね、怪盗紳士。私の手帳に用かしら?」
シエルの視線が、私の手元にある「四重偽装ホログラム手帳」へと注がれる。彼はその手帳を盗み出し、私の弱みを完全に握るつもりなのだ。彼の指が手帳へ伸びる。
私は瞬時に、懐から父の遺品である「アシュレイ家伝承の『暗号解読用透かしレンズ』」を取り出した。そして、卓上のガス灯の光をレンズの特殊な偏光面で反射させ、シエルの瞳へと正確に照射した。
「おっと……!」
シエルが眩しそうに目を細め、一瞬だけ動きを止める。その隙に、私は「10秒着替え『クイック・シフト』」の指先操作で、手帳をドレスの隠しポケットへと滑り込ませた。視線誘導の完全な成功だ。
「手荒な真似は嫌われるわよ、シエル。私を脅して破滅させても、あなたには一銭の得もないはず。それとも、帝国に追われる孤独な怪盗は、自分と同じ『闇』を歩く遊び相手が欲しいのかしら?」
私は一歩歩み寄り、シエルの耳元で、ベアトリス直伝の「声調(トーン)の個別最適化ルール」を用いた、吐息のような囁きを投げかけた。
「あなたと共犯者になれるのは、このルテティアで私だけ。私を裏切らなければ、帝国の秘宝が眠る『タナトス』の侵入ルート……私たちが手に入れた粘土板の知識を使って、あなたにだけ教えてあげるわ」
シエルの青い瞳が、驚きと、それに続く強烈な独占欲の光で満たされた。彼は低く笑い、私の髪を一房すくい上げて唇を寄せた。
「面白い……! 君のその美しい嘘と不敵な態度、本当にゾクゾクするよ。いいだろう、ミラベル。僕の『唯一の共犯者』として、君を雇おう。だが、もし僕を裏切って他の男にその笑顔を向けたら……君のすべてを盗み出して、僕の檻に閉じ込めてあげるからね」
シエルとの契約が成立した。だが、安堵する暇は一秒もなかった。シエルが窓から夜の闇へと消え去った瞬間、エーテル通信機が激しい警告音を鳴らした。ジュリアンからの通信だ。私は即座にイヤリングの周波数を切り替え、今度は「従順で知的な助手」のトーンへと声を変化させた。
「お待たせいたしました、ジュリアン様。通信の接続に不具合がございましたの」
『遅いよ、ミラベル!』
通信機の向こうから、早口で興奮した若い男の声が響く。エーテル連合の天才、ジュリアンだ。
『ボクの演算機が、君の完全記憶能力が放つ脳波パルスを検知したんだ。君の脳は、ボクの最新の魔導ガジェットを100%同調させられる唯一の傑作だよ! 今すぐボクの専属助手になって。拒否するなら、君の脳をハッキングして、その美しいシナプスを一本残らず解剖してあげる!』
マッドサイエンティストの狂気的なアプローチ。私は冷や汗を流しながらも、脳内で「瞬間記憶『レコード・アイ』」を作動させ、ギデオンから見せられた未翻訳の古代粘土板の最初の1ページを再生した。そこから、現代の錬金術では「絶対に解読不能な数式の矛盾」を意図的に作り出し、ジュリアンへ提示する。
「ジュリアン様、あなたの仰る通り、私の脳は特別ですわ。……ですが、解剖してしまえば、私が帝国図書館の禁書庫で見つけた『古代エーテル熱力学の第三例外数式』の真の解法は、永遠に失われます。あなたのその素晴らしい頭脳でも、私の脳のデータなしには、あの粘土板の謎は解けませんわ」
『……何だって!?』
ジュリアンが息を呑む。彼の頭脳が、私の提示した「偽の古代エーテル理論」の圧倒的な知的好奇心にハックされたのが分かった。
『第三例外数式だと!? そんなものが実在するのか……! 面白い、面白すぎるよミラベル! 君を解剖するのは後回しだ。まずはボクの助手として、その脳のデータをすべてボクに提供して! 君に必要な研究費も、最高級の防諜ガジェットも、ボクがいくらでも用意してあげる!』
「ありがとうございます、ジュリアン様。素晴らしい共同研究になりますわ」
通信が切れた瞬間、私は椅子に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。喉が焼け付くように痛い。四つの異なるキャラクター(聖女、毒蜘蛛、助手、共犯者)を秒単位で演じ分ける精神的過負荷により、脳が異常発熱している。
だが、私は生き残った。ギデオン、ヴァレリウス、ジュリアン、シエル。敵対する四大組織のトップ全員と、私は「専属契約」を結ぶことに成功したのだ。これでスパイ信用階級は、最低限の「ブロンズ・ブローカー」としての地位を確立した。
「はあ、はあ……これで、借金の返済資金をプールしつつ、彼らの情報をコントロールして鉢合わせを防げば、私は平穏な生活に戻れるはず……」
私は震える手で「四重偽装ホログラム手帳」を開き、四人から下された最初のスパイ任務のデッドライン(提出期限)を入力し、整理しようとした。機械梟フートがカタカタと動き、私の脳内に「四重アリバイ運行方程式」の計算結果を投影する。
手帳のホログラム画面に、赤い文字で四つのスケジュールが重なり合って表示された。
『ギデオン:古代粘土板の第一章翻訳データの提出期限――金曜、午後三時。大聖堂にて』
『ヴァレリウス:イージス騎士団の巡回ルートマップの提出期限――金曜、午後三時。カジノVIPルームにて』
『ジュリアン:古代数式の初期解析データの提出期限――金曜、午後三時。錬金術研究所にて』
『シエル:次なる美術品強奪の退路確保データの提出期限――金曜、午後三時。時計塔最上階にて』
私は画面を凝視したまま、完全に凍りついた。胃の底から、これまでにない冷たい激痛がせり上がってくる。
「金曜、午後三時――全員、全く同じ時間じゃないの!?」
私の叫びは、冷たい地下書庫の静寂に虚しく吸い込まれ、胃の底からせり上がる激痛とともに、私はただ崩れ落ちるしかなかった。
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