聖女の審判、騎士団本部の冷たき鉄格子
「――くっ、あいつら、本気で僕たちをハチの巣にする気かい?」
風を切り裂くエーテル弾の青白い閃光が、シエルの美しい金髪を白く焼き、地上のサーチライトが私たちの退路を完全に塞ぎ始める。
夜空を駆ける怪盗シエルの腕の中で、私は必死に呼吸を整えようとしていた。脳を酷使したことによる激しい偏頭痛と、胃を雑巾のように絞られるような「日常的胃痛レベル2」の激痛が同時に襲いかかってくる。右手の指先は、ジュリアンの研究所から脱出する際の放電で微かに火傷を負い、ジンジンと脈打っていた。
「シエル、このままじゃ二人とも撃ち落とされるわ……!」
「心配ご無用さ、子猫ちゃん。僕のステップについてこられるかい?」
シエルは不敵に微笑むと、空中で器用にワイヤーガンを撃ち込み、追跡してくる警察のサーチライトの死角へと滑り込んだ。激しい狙撃の嵐をかいくぐり、彼が着地したのは、国教騎士団「イージス」の巡回エリアとの境界線に位置する、薄暗い路地裏だった。
「お別れの時間だ。これ以上進むと、あの堅物な聖騎士団長に見つかっちゃうからね」
シエルは私の腰から手を離し、私の左手薬指に嵌められたヴァレリウスの「琥珀の指輪」を細い指先で軽く弾いた。
「その指輪の『飼い主』にも、よろしく伝えておいてよ。……またね、僕の可愛い共犯者」
彼は闇に溶けるようにして姿を消した。残された私は、冷たい cobblestone(石畳)の上にへたり込む。遠くから、ペンドルトン警部が率いる武装警察の足音と犬の鳴き声が近づいてくるのが聞こえた。この泥まみれの、そして指先に火傷を負った状態で捕まれば、情報屋「ミラベル」としての正体が暴かれるのは時間の問題だ。
(逃げるのは無理……。なら、逆に対象に『保護』させるのよ!)
私は脳内で「マルチタスク・アイ」を起動し、瞬時にカモフラージュのシナリオを構築した。制服の襟の裏に隠された、ギデオンから贈られた「防弾仕様の聖銀ブローチ」に指を触れる。そして、ペンドルトンの追跡から逃れてきた「哀れな被害者」を演じるため、わざと服を汚し、息を切らせて大通りへと這い出た。
「誰か……助けて……!」
タイミングを見計らったように、イージス騎士団の白甲冑をまとった巡回兵たちが霧の向こうから現れた。私の姿を認めた彼らは、驚愕して駆け寄ってくる。
「アシュレイ書記官閣下!? なぜこのような場所に……! すぐに総長閣下へ連絡を!」
作戦は成功した。私はペンドルトンの手から逃れ、騎士団の「保護」下に入った。しかし、連行された先は、私が想像していた温かい病室ではなかった。
重厚な白亜の要塞――イージス大聖堂騎士団本部の地下。そこは、光の入らない冷徹な石造りの尋問室だった。冷たい鉄格子が私を取り囲み、目の前の机には、不気味に青いエーテル光を放つ針が取り付けられた「嘘発見魔導具」が置かれている。
「下級書記官レン・アシュレイ。深夜、スラム境界の立ち入り禁止区域にいた理由は?」
私の前に立ちはだかったのは、ギデオンのやり方に不満を持つ、イージス騎士団の厳格な規律官ヴィクター・クロムウェルだった。彼の切れ長で冷酷な瞳が、丸眼鏡をかけた私の地味な姿を値踏みするように見下ろしている。尋問室の影には、固い表情で腕を組んだギデオン・ヴァンスが立っていた。彼の漆黒の軍服が、室内の重苦しい空気をさらに引き締めている。
「私は……ただ、首席書記官様から仰せつかった古い歴史書の目録を作成するため、深夜まで図書館で作業をしておりました。帰路の途中、突然怪しい影(シエル)と警察の銃撃戦に巻き込まれ、気がついたらあの路地裏に……」
私が弱々しく答えた瞬間、嘘発見魔導具の真鍮製の針が、不穏にカタカタと揺れ動いた。私の指先に接続された魔導端子が、嘘による微細な心拍数の上昇を検知したのだ。ヴィクターが冷酷な笑みを浮かべる。
「針が揺れているな。ただの書記官が、なぜ怪盗の出現ポイントに正確に居合わせる? お前が『ミラベル』という裏社会のスパイと繋がっている、あるいは本人である疑いがある」
「ヴィクター、そこまでにしろ。彼女がそんな危険な真似をするはずがない」
ギデオンが低い声で割って入るが、ヴィクターは一歩も引かない。
「総長閣下、規律は絶対です。この女の心拍数は明らかに異常だ。嘘をついている証拠です。このまま異端審問特務部による本格的な尋問に移行します」
胃が雑巾のように絞られ、冷や汗が背中を伝う。このままでは、身体検査で左手の「琥珀の指輪」や「ホログラム手帳」が見つかり、一巻の終わりだ。私は「マルチタスク・アイ」を最大稼働させ、突破口を探した。
(ヴィクターの論理的な追及に対抗するには、この嘘発見器の『心拍数の揺れ』を、別の理由としてギデオン様に解釈させるしかない。……ギデオン様の心をハックするのよ!)
私は「瞬間記憶(レコード・アイ)」を作動させ、かつて退役将軍アイザックから図書館で聞いた、ギデオンの過去のトラウマを脳内再生した。
幼少期、帝国の虐殺から救われたギデオン。彼は「自分の無力さのせいで、大切な人々を守れなかった」という深い心の傷(白亜の聖女とアーサーの影)を抱えている。彼は、他者が自分のために傷つくことを最も恐れ、そして「自分を理解してくれる存在」を狂信的に求めている。
私はゆっくりと視線を落とし、表情筋をミリ単位でコントロールして、ガス灯の光を潤んだ瞳に反射させた。マダム・ベアトリス直伝の「表情筋コントロールによる偽装涙」だ。今にもこぼれ落ちそうな一滴の涙が、私の頬を伝う。私は震える声で、ギデオンを見つめながら「嘘の二重構築(ダブル・ブラフ)」を紡ぎ出した。
「……はい。私は、嘘をついていました。ヴィクター様の仰る通り、私の動悸が激しいのは、恐怖のせいだけではありません」
ヴィクターが勝ち誇ったように身を乗り出す。しかし、私はギデオンの瞳を真っ直ぐに見つめ、彼の心を直接突き刺す言葉を放った。
「私は……怖かったのです。私が不器用なせいで、また誰かが傷つくのが。……総長閣下、あなたが背負うその重い盾の痛みが、私には他人事とは思えなくて……。私のような無力な者が、あなたを惑わせ、あなたの尊い騎士団の規律を乱しているのではないかと、胸が張り裂けそうだったのです。もし、私のせいで誰かの血が流れるなら……私は、自分を一生許せません!」
その瞬間、嘘発見器の針が、私の激しい感情の昂り(本物の胃痛と罪悪感によるもの)に反応して大きく振れ、火花を散らしてショートした。
「な……に……?」
ヴィクターが目を見開く。背後に立っていたギデオンの身体が、激しく動揺した。彼の瞳の奥に、かつて自分を救ってくれた「アーサー」と、大切な人々を救えなかった過去の記憶が重なり、強烈な保護欲と独占欲の魔力が尋問室全体に吹き荒れた。
「そこまでだ、ヴィクター!」
ギデオンはヴィクターの尋問を物理的に遮るように一歩踏み出すと、鉄格子を開け、私の小さな身体をその逞しい腕の中に強く抱きしめた。彼のまとう「聖銀」の香りが私を包み込む。
「レン、もう何も言わなくていい。私のせいで、君にこんな恐ろしい思いをさせてしまった。……私の盾は、君を守るためにあるのだ」
私は彼の胸の中で、静かに冷や汗を流しながら、心の中でガッツポーズを決めた。嘘発見器を物理的・精神的にクラッシュさせ、ヴィクターの追及を完全に無力化することに成功したのだ。
ヴィクターは忌々しそうに舌打ちをしたが、私の「アシュレイ」という姓を睨みつけ、何かを深く調査するような不穏な視線を残して部屋を去っていった。
尋問室の危機は去った。私はギデオンの腕の中で、弱々しく微笑んだ。これでアパートに帰って、次のスケジュールを調整できる――そう確信した次の瞬間、ギデオンは私の両肩を掴み、その切れ長の瞳に、これまでにない「狂信的な決意」を宿して私を見つめてきた。
「レン。君の気高さと脆さを知り、私は決意した。君をこのような危険な日常に二度と戻すわけにはいかない」
「え……?」
嫌な予感が、私の胃壁を再び鋭く突き刺した。
「明日から、図書館の勤務は最低限にしろ。君の身の安全を確保するため、イージス騎士団本部の私の兵舎に住み、私の専属翻訳官として私の監視下に入るのだ。これなら、いかなる闇もお前に触れることはできない」
それは、優しくも冷酷な、完璧な『軟禁プロポーズ』だった。
(兵舎に軟禁……!? そんなことをされたら、ヴァレリウスやジュリアン、シエルとの密会スケジュールが、すべて物理的に崩壊するじゃないの!?)
私の脳内で、完璧だったはずのアリバイ運行表が音を立てて崩れ去る。そして、私の胃は、これまでにない限界突破の悲鳴を上げ始めたのだった。
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