迫り来る影と、目覚めし鉄巨人
「ハァ、ハァ……っ、ここまで戻れば、ひとまずは……」
中立地帯の地下深く、古代遺跡の最下層にひっそりと隠された「共鳴の書庫(レゾナンス・アーカイブ)」。その冷涼で静謐な大気に足を踏み入れた瞬間、カイル・レオンハルトは張り詰めていた糸が切れたように膝を突いた。冷たい石床に突いた手が激しく震える。
懐から取り出したガラスの小瓶。その中には、淡い緑色の微光を放つ三枚の葉――ギルダの店で命がけで手に入れた『共鳴の薬草(シンパシー・ハーブ)』が収められていた。焼け付くような胸元の四本の「血印(ソウルリンク)」が、薬草の放つ清涼なマナに反応してピリピリと疼く。
「カイル! しっかりしろ、おい!」
背後から、放浪の剣士レオンがその逞しい腕でカイルの細身の身体を支え上げた。隻眼の奥にある焦燥の光が、カイルの消耗具合を物語っている。魔力回路の軽度火傷と、脳の極限演算による疲労はすでに限界を超えていた。
「大丈夫だ、レオン……。すぐにこの薬草を調合して服用すれば……っ」
言いかけた瞬間、カイルは激しく咳き込んだ。喉の奥からせり上がる鉄の味。白銀色に染まった黒髪の毛先が、彼の激しい呼吸に合わせて揺れる。カイルは必死に「痛覚分散呼吸法」を稼働させ、心拍数を強制的に引き下げようと試みた。吸って三秒保持、十秒かけてゆっくりと吐き出す。肺を圧迫する胸骨の骨折痛が、静かに脳を焼き焦がしていく。
「カイル様!」
書庫の奥から、エプロン姿の司書補ミリー・ポピンズが、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。彼女の足元では、体長三十センチほどの土人形の使い魔モグが、短い手足をバタつかせながら心配そうにカイルを見上げている。
「ミリー、すまないが薬草の調合準備を……」
【緊急警告。外周結界の第零層に物理的接触を検知。魔力波形スキャン――魔王軍急進派の突撃部隊と断定】
突如として、書庫の中央に設置された「アトラの魔導コア」から、青い光のホログラムが爆発的に膨れ上がった。投影された少女アトラの幻影が、かつてないほど冷徹で緊迫した表情で告げる。
「なっ、なんだって!? もう追っ手が来やがったのか!」
レオンが「守護の魔剣」の柄に手をかけ、鋭い視線を天井へと向けた。ズズズ……と、微かな、しかし確実な地鳴りが、石造りの書庫全体を震わせ始める。
「……魔王軍急進派の将軍ゴルゴス。バルトの先兵か。僕がギルダの店で羅針盤を起動した際のマナの揺らぎを、アジールの裏社会経由で嗅ぎ取られたな」
カイルは痛む頭を押さえながら、左目の「解析のモノクル」を強く指で直した。レンズの奥で、書庫を囲む古代の防衛結界の構造図が赤く明滅している。外周結界の耐久値が、外側からの激しい物理的打撃によって急速に削られていく様子が数値化されていた。
「バルトが率いる魔獣の群れだ。このままでは、僕が薬草を調合して服用する前に、結界が破られて書庫ごと踏み潰される」
「俺が外に出て時間を稼ぐ! お前はその間に薬を――」
「無理だ、レオン。相手は魔王軍急進派の精鋭だ。君一人で防ぎきれる規模じゃない。それに、君が傷つけば、その痛みがソウルリンクを通じて僕の脳に逆流する。そうなれば、僕は調合どころか、ショック死する」
カイルは冷徹に状況を分析した。彼には戦う力はない。だが、この書庫には、千年前の古代人が残した「絶対の防衛壁」が眠っている。
「……タロス・ワンを起動する」
カイルは首から下げていた金属プレート――『警備ゴーレムの起動キー』を握りしめた。書庫の入り口に佇む、苔むした壊れかけの鉄巨人。それこそが、この窮地を脱する唯一の鍵だった。
カイルはレオンとミリーに支えられながら、書庫の玄関口へと急いだ。そこにそびえ立つのは、高さ五メートルを超える巨大な鉄の塊――古代の警備ゴーレム「タロス・ワン」だった。全身は苔と埃に覆われ、魔力炉の火は完全に消え去っている。関節各部には、千年の歳月による深刻な亀裂が走っていた。
「アトラ、タロスの胸部魔力炉のハッチを開放してくれ!」
『了解。ですがカイル様、タロスの魔力炉は千年間稼働していません。起動シーケンスは極めて複雑で、現在のあなたの脳細胞では――』
「やるしかないんだ!」
プシューと不気味な排気音を立てて、鉄巨人の胸部プレートがスライドし、暗い空洞が露わになった。その中心には、錆びついた三次元ルーンの歯車が噛み合う魔力炉が眠っている。
「まずは、エネルギーの充填だ……!」
カイルは懐から、遺跡の探索で回収していた『古代ルーンの残滓(魔素結晶)』を取り出した。しかし、極度の焦りと疲労のせいで、カイルの手元が狂う。結晶を魔力炉の投入口に力任せに押し込もうとした瞬間、炉の内部に残っていた不安定な古代の残留マナが反発し、結晶がパチパチと音を立てて砕け散った。
「しまっ――」
砕けた結晶から、超高濃度の魔素の粉塵が周囲に飛散した。魔力ゼロのカイルの肉体にとって、生の魔素は劇薬でしかない。吸い込んだ瞬間、肺が焼け付くような激痛に襲われ、カイルは激しく咳き込んでその場に崩れ落ちた。
「カ、ハッ……ゴホッ! ゲホッ……!」
「カイル様!」
ミリーが悲鳴を上げてカイルの身体を抱きとめ、その背中を必死にさする。カイルの視界が急激に白み、血印が激しく明滅して高熱が全身を駆け巡る。魔素の微小な中毒症状だ。
「うぐっ……頭が、割れそうだ……」
【警告。侵入者排除プロトコルの逆流。古代の防衛プログラムがカイル様を『非正規の侵入者』と誤認。精神的拒絶ノイズを送信しています】
アトラの警告通り、起動キーを通じてタロスの防衛システムがカイルの脳内に直接、不快な高周波ノイズを流し込んできた。キィィィンという金属摩擦のような音が脳髄を直接かきむしる。カイルの右目から、過負荷による赤い血がツリと流れ落ちた。
(くそっ……僕を『侵入者』扱いするか……! 千年前のシステムが……!)
カイルは激痛に耐えながら、モノクルの焦点を最大に合わせた。レンズの奥で、タロスの魔力炉に刻まれた拒絶ルーンの配列が、赤く燃え上がるように視覚化される。
「……急所解析」
カイルは脳内の「アトラ式思考ルーチン」を全開で回し、その拒絶配列の「最も魔力が滞っている一点」を特定した。そこは、千年の経年劣化によってルーンの接続が僅かに歪んでいるバグの発生源だった。
「そこだ……っ!」
カイルは起動キーをタロスの胸部制御盤に叩きつけ、自身の指先から微量に漏れ出るソウルリンクの共有魔力を、そのバグの隙間へと無理やり流し込んだ。ショートさせる。古代の拒絶プログラムの配列が一瞬で青い火花を散らして弾け飛び、カイルの命令を最優先にする管理者権限へと上書きされた。
「ノイズが……消えた……。次は、物理的な修復だ!」
カイルは痛む右手を伸ばし、タロスの関節部に刻まれた深刻な亀裂に触れた。このまま起動すれば、鉄巨人は最初の一歩で自壊する。
「簡易ゴーレム修復術……起動!」
カイルの呼びかけに応じるように、使い魔のモグが短い手を掲げ、書庫の隅から集めてきた粘土と湿った石の破片をタロスの足元へと運び込んだ。カイルが指先でタロスの亀裂にルーンを刻み込むと、周囲の粘土と石が生き物のように動き出し、鉄巨人の関節の隙間へと吸い込まれていく。ガチガチと音を立てて、物理的な破損箇所が強固な岩肌のような質感で補修されていく。
「ミリー、レオン、僕を支えてくれ……。最後のハッキングコードを刻む……!」
外周結界の崩壊を示すアラームが、書庫内にけたたましく鳴り響く。ドゴォォン!という巨大な衝撃音が響き、天井からパラパラと土砂が降り注いだ。バルトの魔獣軍団が、ついに第零層の結界を物理的に突破し、書庫の内部通路へと雪崩れ込んできたのだ。
『カイル様! 敵の先兵が侵入! 接触まであと十秒、九、八……』
アトラのホログラムが激しくブレる。暗い通路の奥から、赤い目を光らせた魔王軍の凶暴な魔獣たちの咆哮と、凄まじい足音が迫る。
カイルは起動キーを握る右手に、残されたすべての精神力を集中させた。タロスの元の起動術式はあまりにも複雑で、今のカイルには解読する時間がない。ならば――バイパスを作る。
(タロスの起動トリガーを、元の魔導認証から、僕の『生命の危機(ソウルリンク)』へと強制的に書き換える!)
モノクルの奥で、ルーンの配列が超高速で再構築されていく。カイルの指先から、青い古代ルーンの文字列が、起動キーを通じてタロスの胸部魔力炉へと流れ込んでいく。ハッキングの負荷により、カイルの右手の皮膚に、ルーンの形をした軽い焼き印(火傷)がジリジリと刻まれ、煙が立ち上る。
「ぐ、あああああっ!」
『三、二、一――結界、完全崩壊!』
凄まじい爆音と共に、書庫の入り口の石扉が木っ端微塵に吹き飛んだ。もうもうと立ち込める煙の向こうから、鋭い牙と爪を持つ魔獣の群れが、カイルたちを目がけて一斉に跳躍する。その距離、僅か数メートル。
死が、目の前に迫っていた。
「目覚めろ……タロス・ワン!」
カイルが血の滲む叫びを上げた瞬間、彼の指先から爆発的な青いルーンの光が奔流となって走り、鉄巨人の胸部へと吸い込まれた。
ガチリ――噛み合う千年の歯車。
次の瞬間、埃まみれの鉄巨人の巨大な眼光が、深紅の輝きを放って暗闇の中に目覚めた。古代の鉄巨人が、ついにその眠りから覚醒したのだ。
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