命を繋ぐ「共鳴の薬草」
「おい、しっかりしろ書記官。ここでくたばられたら、俺の雇い主もろとも全員あの世行きだからな」
石造りの狭い路地裏。湿った夜気に紛れるようにして、隻眼の剣士レオン・ベルハルトが、カイルの細身の身体を肩で支えながら毒づいた。甲冑の冷たい感触が、高熱に浮かされるカイルの頬に触れる。
「すまない、レオン……。だが、呼吸は……整えている」
カイルは掠れた声で応じ、深く息を吸い込んだ。三秒保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す。「痛覚分散呼吸法」だ。心臓を締め付けるような不規則な鼓動を、自身の脳内演算で強制的に引き下げていく。しかし、額から流れる汗は止まらず、黒髪の中に混ざった三分の一ほどの白銀色の髪が、薄暗い路地裏で不気味に微光を放っていた。
聖女セレスティアの光の共鳴と、魔皇ヴェロニカの闇の嫉妬。その二つがカイルの貧弱な魔力回路で衝突した爪痕は、想像以上に深刻だった。全身の神経が焼け付くように熱く、喉の奥には常に鉄の味が張り付いている。
二人が足を踏み入れているのは、どの勢力にも属さない混沌の自由都市――「境界線の街アジール」の最深部だった。
人間、魔族、亜人。本来ならば剣を交えるはずの種族たちが、ここでは仮面を被り、互いを値踏みするようにすれ違う。露店から漂う怪しげな香辛料の匂い、獣人の低い唸り声、そして怪しげな魔導具の放電音が、カイルの過敏になった聴覚を容赦なく刺激した。
「この先だ……。あの、錆びた天秤の看板が下がっている店へ……」
カイルが指し示したのは、路地裏の突き当たりにひっそりと佇む店だった。古びた木製の扉には、煤けた文字で「古き記憶の店」と刻まれている。アジールの闇市場でも、知る人ぞ知る骨董品店だ。
レオンが警戒しながら扉を押し開けると、チリンと乾いた鈴の音が響いた。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、カイルの嗅覚を襲ったのは、埃っぽい古書の匂いと、どこか潮風を思わせる不思議な海塩の香りだった。棚には、用途のわからない古代の歯車、干からびた魔獣の角、不気味な光を放つ鉱石などが雑然と積み上げられている。
「おや、珍しい客が来たね。それも、今にも魂の蝋燭が消えかけの、死に損ないの人間かい?」
カウンターの奥から、しゃがれた、しかし妙に耳に残る声が響いた。
そこに座っていたのは、怪しげな幾何学模様のローブを纏った老婆――ギルダ・バトリーだった。彼女の細い指には、翡翠や黒曜石、そして精緻なルーンが刻まれた無数の指輪が嵌められており、そのうちの一つ、人魚の鱗を模した古い銀の指輪がカイルの「解析のモノクル」の端に引っかかった。
(あの指輪の意匠……ただの骨董品じゃない。千年前の調停者に関連する術式の残滓がある……)
カイルはモノクルを軽く指で直し、視界を安定させようとしたが、魔力の衝突によるノイズのせいでスキャン精度が酷く低下していた。それでも、ギルダの目がただの商人のものではないことだけは、直感的に理解できた。
「ギルダさん……。無駄な挨拶をする体力は、今の僕にはないんだ。至急……『共鳴の薬草(シンパシー・ハーブ)』を譲ってほしい」
カイルはカウンターに手をつき、必死に呼吸を整えながら本題を切り出した。ギルダは細い目をさらに細め、カイルの胸元を凝視した。衣服の隙間から、四色の「血印」が微かに、しかし激しく明滅しているのが見えたのだろう。
「ふん、ソウルリンクかい。しかも四本……。おいおい、どこの大馬鹿野郎が、大陸の頂点に立つ女傑たちと命を共有するなんて狂気の契約を結んだと思えば、目の前のひょろっとした書記官様だったとはね」
「知っているなら話が早い。薬草を……」
「あるよ。アジールの絶壁にしか自生しない、他種族のマナが交差する場所にのみ咲く極上の逸品が、ちょうど一株だけね」
ギルダはカウンターの下から、ガラスの小瓶を取り出した。その中には、淡い緑色の微光を放つ、三枚の葉を持った薬草が収められていた。それを見た瞬間、カイルの血印が共鳴するようにかすかに疼く。間違いなく、彼の神経摩耗を治療できる唯一の特効薬だった。
「価格は、アジール金貨で百枚。あるいは、それと同等の価値を持つ魔導具だ。死にかけのあんたに、ツケで売るほど私はお人好しじゃないよ」
ギルダが提示した価格に、レオンが低い唸り声を上げて一歩前に出た。
「金貨百枚だと!? ふざけるな、老婆。この街の相場でも高すぎる。カイルは今すぐそれが必要なんだ。力ずくでも奪うぞ」
「レオン、よせ……っ!」
カイルが制止しようとしたが、一瞬遅かった。レオンが「守護の魔剣」の柄に手をかけた瞬間、店の天井と床に敷き詰められていたガラクタから、一斉に真っ赤な防衛ルーンが浮かび上がった。
「うおっ!?」
レオンの足元の床が突如として底なしの泥のように柔らかくなり、彼の重い甲冑がじわじわと沈み込み始める。同時に、天井の古代の歯車が噛み合い、鋭い放電の光がレオンの頭上へ向けて収束し始めた。骨董品店全体が、侵入者を一瞬で塵にする殺戮兵器へと変貌していたのだ。
「私の店で牙を剥くかい、若い剣士? 元人魚族の巫女を舐めてもらっちゃ困るね。この店全体が、私の精神防壁と直結した古代の迎撃結界なんだよ」
ギルダが冷酷に微笑む。カイルは痛む頭を抱えながら、必死にモノクルを覗き込んだ。レンズの奥で、放電の術式とレオンを拘束している泥のルーンの配列が交差している。
「レオン、剣を引くんだ! 右足を三センチ後ろへ下げろ!……ギルダさん、僕の連れが非礼を働いた。すぐに結界を解いてほしい」
カイルの指示に従い、レオンが剣から手を離して足を下げると、放電の光はピタリと止まり、泥の床も元の硬い木床へと戻った。レオンは冷や汗を流しながら、驚愕の目で周囲を見回した。
「……大した眼だね、書記官。迎撃の『トリガー』の位置を一瞬で見抜くとは。だが、金がないなら薬草は渡せないよ。あんたの命は、あと二日と持たないだろうがね」
ギルダは薬草の瓶を再び懐へしまおうとする。カイルは頭を締め付けるような激痛に耐えながら、店内のガラクタを必死にスキャンした。金貨百枚など、今の書庫の財政では到底支払えない。だが、必ず何か「対価」になるものがあるはずだ。
その時、カイルの目が、カウンターの隅で埃を被っている一つの錆びついた金属球に留まった。
それは、複雑な同心円状のリングが幾重にも重なり合った、千年前の古代遺物――「星導の羅針盤(アストラル・コンパス)」だった。
「ギルダさん……。あの羅針盤、長年誰も起動できずに放置されているものだね?」
「あん? ああ、それかい。千年前の天体観測学者たちが使っていたとされる遺物だがね。どの高位魔導士がマナを流し込んでも、リングが噛み合わずにただの鉄屑のままだ。骨董品としての価値しかないよ」
「それは、マナの流し込み方が間違っているからだ。そして……ルーンの配列が、一箇所だけ『物理的に歪んで』いる」
カイルは一歩前に進み、錆びついた羅針盤を指差した。ギルダの目が、不審と好奇心で細められる。
「ほう? 面白いことを言うね。なら、魔力ゼロのあんたに、あれを動かせるってのかい?」
「動かして見せる。それができたら……薬草一株と、今後の書庫との『ツケ取引』を承諾してほしい」
「いいだろう。もし動かせたら、その知恵に免じて薬草をくれてやる。だが、失敗したら、その左目のモノクルを置いていってもらうよ」
カイルは静かに頷き、羅針盤を手元に引き寄せた。モノクルの奥で、青い古代ルーンの文字列が高速スクロールを開始する。脳が急激に熱を持ち、白銀の髪がカイルの額に張り付いた。心臓が悲鳴を上げている。だが、ここで退けば死しかない。
(アトラ式解読法、起動……。スキャンを開始する)
羅針盤の内部に刻まれた、気の遠くなるほど複雑な三次元のルーン配列が、カイルの脳内に直接投影された。千年前の魔導学者たちが施した、天体の運行と同調する極限の回路。しかし、その最外周のリングと第二リングの接合部で、ルーンの文字が「一文字だけ」物理的な磨耗によって削れ、配列の不整合(バグ)を起こしていた。
「なるほど……。削れた文字は『風(シルフ)』のルーンじゃない。これは……『引力(グラビティ)』の変形ルーンだ」
カイルは懐から、一本の細い針を取り出した。魔力を持たないカイルがルーンを書き換えるには、物理的な刻印の修正しかない。彼はモノクルで歪みをミリ単位で測りながら、錆びついたリングの表面に、極小の文字を正確に刻み込み始めた。
チ、チ、と静かな金属音が店内に響く。ギルダは息を呑み、カイルの指先の動きを凝視していた。魔力を全く使わない、純粋な「言語の法則性」のみによる修復作業。それは、現代の魔導士たちが忘れて久しい、古代の知的技術そのものだった。
最後の微細な線を刻み終えた瞬間、カイルは自身の胸元の血印にそっと触れた。
「魔力還流の逆行路……、接続」
カイル自身の貧弱な魔力回路をハブにして、ソウルリンクで繋がった四人のヒロインたちの「余剰魔力」の残滓を、極微量だけ引き出す。カイルの指先から、ほんの一瞬だけ、四色の淡い光の粒子が羅針盤へと流れ込んだ。
ガチリ、と硬い金属音が響いた。
錆びついていた星導の羅針盤が、生き物のように震え始めた。重なり合った金属リングが、それぞれ異なる速度で滑らかに回転を開始する。羅針盤の中央から、神聖な青い光のホログラムが立ち上り、店内の天井に美しい「千年前の星図」を立体的に描き出した。
「なっ……!?」
ギルダが椅子から立ち上がり、目を見開いてその光景を見つめた。彼女の嵌めている人魚の指輪が、星図の光に反応して共鳴するように優しく輝いている。
「起動した……。本当に、ただの一突きで、この遺物を……!」
「ルーンの不整合を修正し、失われていた『引力』の接続を復元しただけだ。これで、この羅針盤はアジール周辺の古代マナの鉱脈を正確に示す、最高級の探知機として機能する。金貨百枚を遥かに超える価値があるはずだ」
カイルはモノクルを直し、荒い息を吐きながらギルダを見つめた。脳の演算負荷による激しい頭痛が襲い、視界がチカチカと明滅している。
ギルダはしばらくの間、天井に広がる美しい星図を恍惚とした表情で見上げていたが、やがてフッと不敵な笑みを漏らし、カウンターに座り直した。
「気に入ったよ、書記官カイル。あんた、ただの無能な追放者じゃないね。千年前の『調停者』の血が、まさかこんなひょろっとした男に流れていたとは」
彼女は懐から先ほどのガラス瓶を取り出し、カイルの前にそっと置いた。
「約束だ、持って行きな。それと、今後の取引も歓迎するよ。あんたのような『知の才能』を持つ男なら、いくらでもツケを認めてやるさ」
「感謝する、ギルダさん……」
カイルは震える手で薬草の瓶を握りしめた。これで、命を繋ぐための最初のライフラインは確保できた。書庫に戻れば、「薬草抽出・調合法」を用いて、神経の摩耗を劇的に緩和する丸薬を作ることができる。人工栽培の目処も立つはずだ。
安堵の息を漏らし、レオンに支えられながら店を後にしようとした、その時だった。
店の外、アジールの雑多な市場の影から、カイルたちを執拗に監視する「鋭い視線」があることに、カイルのモノクルが微かに反応した。
路地の陰に潜む、黒い外套を纏った獣人の男。その胸元には、アジールの裏社会を牛耳る悪徳商人キース・ギャンビットの私兵であることを示す、蛇の紋章が刻まれていた。
「……おい、あの死にかけの人間、ギルダの婆さんから『共鳴の薬草』を手に入れやがったぞ。それに、あの羅針盤を動かした。キース様に報告だ。あの男の持つ『ルーン技術』と薬草の利権、全て奪い取る」
男は不気味な笑みを浮かべ、闇の中へと音もなく消え去っていった。
薬草を手に入れ、生存への第一歩を踏み出したカイル。しかし、彼の知らないところで、アジールの支配者キースの強欲な魔手が、静かに彼の首元へと伸び始めていた。
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