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揺らぐ聖女の「祈祷波」

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神聖教会の総本山、神聖都聖ファルサス。その中心にそびえ立つ大聖堂は、天を衝く白亜の尖塔と、神の威光を物理的に具現化したかのような純白の大理石で満ちていた。高窓のステンドグラスから差し込む陽光は、厳かな讃美歌の旋律とともに礼拝堂を七色に染め上げている。


 だが、その神聖極まる祈りの場の中心で、聖女セレスティアの心は激しく乱れていた。


「……くっ……」


 祭壇の前で膝を突き、両手を組んで目を閉じていた彼女の口から、微かな喘ぎが漏れる。普段であれば、彼女の身体から放たれる「祈祷波」は、大聖堂の広大な結界を維持するための極上の光マナとして安定しているはずだった。しかし今、彼女の周囲に漂う光の粒子は、まるで嵐の前の灯火のように不規則に明滅し、霧散しかけている。


(また……あの男の顔が……)


 まぶたの裏に浮かぶのは、薄暗い地下遺跡で出会った、黒髪の地味な青年書記官――カイル・レオンハルトの姿だった。魔力を持たず、剣も振れず、ただ丸眼鏡の奥の瞳に冷徹な知性を宿しただけの、無能と蔑まれていた男。それなのに、彼が自らの命を盾にして唱えた「等価生命論」の言葉が、彼女の耳の奥から離れない。


 セレスティアの端正な鎖骨のすぐ下、聖なる法衣に隠された肌の上で、純白に輝く「血印」がドクドクと脈打っていた。カイルと命を、そして五感を共有してしまった呪わしき傷跡。


(このような邪悪な呪縛、教会の光をもってすれば、浄化できぬはずがない……!)


 彼女は奥歯を噛み締め、自身の内に眠る高純度の神聖マナを血印へと集中させた。不浄な契約を焼き切るための光。だが、彼女の光が血印に触れた瞬間、胸元に焼け付くような激痛が走った。それと同時に、脳裏にカイルの「うぐっ……!」という苦悶の幻聴が響く。


「はぁ、はぁっ……!」


 セレスティアは慌てて魔力を霧散させ、自身の胸を両手で押さえた。痛い。だが、この痛みは彼女自身のものであると同時に、遥か境界線の地下にいるカイルに、何倍もの破壊的な負荷となって還流している。それを本能的に理解した彼女は、これ以上の「浄化」を断念せねばならなかった。彼が死ねば、自分も死ぬ。その冷酷なシステムが、彼女の誇り高き信仰を内側から縛り付けていた。


「どうした、セレスティア。祈祷波の出力が極端に低下しているぞ」


 冷徹で威圧的な声が、白亜の柱の影から響いた。


 金糸の豪華な刺繍が施された大司教服を纏い、冷酷な細い目を光らせて現れたのは、彼女の養父であり、神聖教会の最高権力者の一人である大司教ユリウスだった。


「……大司教様」


 セレスティアは瞬時に表情を氷の仮面へと戻し、深く頭を垂れた。


「少し、身体の調子が優れぬだけでございます。すぐに調整いたします」


「言い訳は不要だ。お前は神の奇跡を体現する『汚れなき聖女』なのだぞ。お前の祈りが乱れれば、神聖都を護る光の結界に揺らぎが生じる。愚民どもに余計な不安を与えるな。お前はただ、我らの指示通りに祈りを捧げる美しい偶像であればよいのだ」


 ユリウスは彼女の体調など一顧だにせず、ただ政治的な道具としての完璧さを冷酷に強要した。彼の言葉の一つ一つが、セレスティアの胸に鋭いストレスの楔となって突き刺さる。


 その瞬間、彼女の胸元の血印が激しく発熱した。養父から受ける精神的な抑圧と焦燥が、ソウルリンクのバイパスを通じて、遠く離れたカイルの肉体へと直接流れ込んでいくのを感じて、セレスティアは必死に息を整えた。これ以上、彼に余計な負担をかけてはならない。カイルの身体が崩壊すれば、自身の命も連鎖的に消滅するのだから。


「……御心のままに」


 彼女はただ、人形のように頭を下げた。ユリウスはその様子に満足したように鼻を鳴らし、踵を返して去っていった。その背中を見つめるセレスティアの傍らに、音もなく影が寄り添う。


「聖女様、おいたわしや……。大司教様は、あなたの本当の苦しみをご存じない」


 口を極めて慎重に囁いたのは、彼女の忠実な侍女、アンナ・クレメンスだった。アンナは眼鏡の奥の目を伏せ、セレスティアの乱れた呼吸を整えるために、静かに神聖魔術による治癒の香を焚いた。


「大丈夫です、アンナ。私は聖女……この程度の重圧、耐えられぬはずがありません」


 セレスティアは強がったが、その頬は不自然に朱に染まっていた。それは熱病によるものではなく、カイルの「快感の共有」や、彼を意識してしまうことによる無意識の赤面だった。そしてその異変を、大聖堂の入り口で見守っていたもう一人の男が見逃すはずはなかった。


「聖女様……」


 眩い白銀の鎧を揺らし、大剣を腰に帯びた美青年が歩み寄ってくる。教会の次期騎士団長と目される超天才剣士、ルシアン・ライトブリンガーだった。彼の青い瞳には、セレスティアに対する狂信的なまでの崇拝の光が宿っている。


「ルシアン……何用ですか」


 セレスティアは努めて冷淡に問いかけた。カイルの存在を隠し通すため、彼女は周囲の者、特に執着の強いルシアンを境界線から遠ざけねばならなかった。


「あなたの呼吸の乱れ、そしてその頬の赤らみ……ただの疲労とは思えません。まるで、邪悪な何者に精神を侵食されているかのような……」


 ルシアンは拳を握り締め、妄想を膨らませていた。彼にとってセレスティアは不浄から守るべき絶対の聖女であり、彼女を乱すものはすべて排除すべき悪だった。彼の鋭い感知能力が、セレスティアの魔力回路の奥に潜む「異物」――境界線の魔導師(カイル)の残渣を、微かに捉えていたのだ。


「邪推は無用です。下がりなさい、ルシアン。私は一人で祈りたいのです」


 セレスティアの冷徹な拒絶。しかし、それはルシアンの歪んだ独占欲を刺激するに十分だった。彼は頭を下げて下がったものの、その瞳の奥には、メラメラと燃え盛る嫉妬と疑惑の炎が灯っていた。


(間違いない……聖女様は何者かに呪われている。境界線に潜む、あの薄汚い異端魔導師に……!)


 ルシアンは確信した。彼は大司教ユリウスの許可を得ることなく、独自に『異端審問部』のバルタザールと接触し、境界線の調査許可を取り付けるべく動き出した。聖女を汚す元凶を、その手で叩き斬るために。


 ――その瞬間。


 神聖都から遥か数千マイル離れた、アジール地下の「共鳴の書庫(レゾナンス・アーカイブ)」。


「がはっ……!? う、ぐあぁっ!」


 ソファーに横たわっていたカイルが、突如として激しく身体を折り曲げ、口から大量の暗赤色の血を吐き出した。


「カイル様!!」


 ミリーが悲鳴を上げ、持っていたハーブの薬杯を床に落とした。陶器の砕ける音とともに、温かい液体が石床に広がる。


「おい、書記官! しっかりしろ!」


 レオンが素早くカイルの背中を支えたが、カイルの胸元からは、セレスティアの感情の混乱を示す「純白の光」が、まるで彼の心臓を内側から焼き尽くさんとするかのように、異常な熱量をもって暴れ狂っていた。聖女の信仰と感情の板挟みによる、凄まじい精神的抑圧――その過負荷が、ソウルリンクのバグとなって、カイルの貧弱な内臓に致命的なダメージを与えたのだ。


「は、はぁ……っ! 胸が……胃が、引き裂かれる……!」


 カイルは自身の胸元を掻きむしり、激痛に喘いだ。聖女の揺らぐ祈祷波が、彼を死の淵へと引きずり込もうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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