泥臭き生存戦略と最初の罠
「くっ……あ、頭が割れそうだ……!」
共鳴の書庫(レゾナンス・アーカイブ)の静寂を、カイルの悲鳴が切り裂いた。ソファーに倒れ込んだ彼の胸元では、純白、漆黒、真紅、深緑の四色の傷跡――「血印」が、まるで心臓の鼓動に同期するように不気味に明滅している。
「カイル様! これを、これを飲んでください!」
司書補のミリー・ポピンズが、おさげ髪を振り乱しながら、温かい薬草の薬杯を差し出した。カイルは震える手でそれを受け取り、一気に飲み干す。エルザから教わった薬草抽出法で作られた鎮痛薬が、焼け付くような胃腑と脳の激痛をじんわりと麻痺させていく。
生死の境界線(ソウルリンク)――自分と命を共有した四人の天敵たちの感情が、極細の魔力糸を通じて脳内に直接流れ込んでくる。セレスティアの焦燥、ヴェロニカの独占欲、イグニスの屈辱、シルフの恐怖。その強大すぎる精神波の濁流に、魔力ゼロの一般人であるカイルの脳は破裂寸前だった。
「痛覚分散呼吸法」を必死に繰り返し、心拍数を下げる。四人の感情を「ただの嵐」として受け流し、脳のオーバーヒートを抑え込んだ時、カイルの額からはタラリと冷や汗が流れ落ちていた。
「……生き延びるだけで、これほどの労力を使うとはな」
カイルは泥のように重い身体を起こし、左目の「解析のモノクル」を直した。その時、書庫の入り口に敷設された古代結界のルーンが、警告の赤光を放った。
「おい、書記官サマ。のんびりお寝んねしてる時間はなさそうだぜ」
重厚な足音と共に現れたのは、放浪の剣士レオン・ベルハルトだった。その隻眼の瞳は鋭く細められ、手にした魔剣の柄にすでに手がかけられている。
「魔力の反応か?」とカイルが尋ねる。
「いや、魔力は薄いが、数がいる。野良犬の群れだ。アジール周辺の街道を荒らし回っている野盗『ボロ・ザ・スローター』の一味だな。どうやら、この遺跡をただの金目の眠る廃墟だと思って、略奪しにきたらしい」
カイルは胃の痛みを堪えながら、モノクルの焦点を書庫の外周へと合わせた。レンズの奥に投影されたのは、錆びた大剣を担ぎ、下卑た笑みを浮かべる巨漢――ボロ・ザ・スローターと、十数人の武装した野盗たちの姿だった。彼らは書庫の入り口である崩落した石扉を、物理的な槌で破壊しようとしている。
「レオン、僕の身体を支えてくれ。外の防衛ラインまで行く」
「無茶言うな。お前の肋骨はまだ折れたままだぞ」
「ここで結界を破られたら、ミリーも書庫の書物も灰になる。それに……僕の戦闘力ゼロを逆手に取った『最初の罠』を試す、絶好の機会だ」
カイルはレオンの肩を借り、痛む胸を押さえながら、書庫の入り口を見下ろす観測台へと移動した。冷たい地下の空気が、カイルの頬を撫でる。眼下では、野盗たちが石扉を叩き壊し、書庫の内部へと侵入を開始しようとしていた。
「よし、レオン。僕の指示通りに動いてくれ。君の剣技と、僕の『眼』があれば、彼らなど敵ではない」
カイルはモノクルに指先を触れ、精神を極限まで研ぎ澄ました。脳内にアトラの魔導演算をバイパス接続し、侵入してくる野盗たちの筋肉の動き、呼吸の乱れ、そして重心の移動を完全な数値データとして視覚化する。
――「解析の魔眼」、起動。
カイルの視界の中で、先頭を走る野盗の動きを示す「半透明の残像」が、1秒先を歩くように浮かび上がった。
「レオン、前方の三人。左の男が、右足を引いて大振りの薙ぎ払いに入る。――右へ一歩、2秒後に大剣を斜め上に振り抜け!」
「了解ッ!」
レオンが弾かれたように飛び出した。カイルの指示通り、右へ一歩踏み込んだ瞬間、彼の左を野盗の斧が虚しく通り過ぎる。そして正確に2秒後、レオンが下から振り上げた大剣が、無防備な野盗の胸当てを捉え、一撃で吹き飛ばした。
「なっ!? なんだこの動きは!」
野盗たちが驚愕の声を上げるが、カイルの先読み指示は止まらない。
「次は右の男。重心が左に寄っている。足を狙ってくる。――跳べ、着地と同時に剣の平で中央の男の顎を叩け!」
レオンは一切の疑いを持たず、カイルの指示通りに身体を動かす。空中で敵の低い斬撃をかわし、着地ざまに放った大剣の平打ちが、中央の野盗の顎を砕いた。まるでレオン自身が未来を予知しているかのような、完璧な戦闘指揮。レオンが一人で数十人の野盗を圧倒していく光景は、まさに無双の剣士そのものだった。
しかし、野盗の頭領ボロ・ザ・スローターは、部下が倒れていくのを見て顔を歪め、懐から不気味な光を放つボウガンを取り出した。その矢先には、魔力を帯びた強力な「毒のルーン」が刻まれている。
「この、小賢しい手品師どもがッ! 死ねぇ!」
ボロがボウガンの引き金を引いた。放たれた矢は、レオンではなく、観測台に立つ無防備なカイルへと真っ直ぐに突き進む。
「カイル!」
レオンが叫ぶが、距離がありすぎて剣が届かない。しかし、カイルの左目のモノクルは、その矢の軌道をすでに完璧に解析していた。
――「急所解析」。
「軌道、左に5度。速度、毎秒30メートル。――レオン、剣を右に15度傾けて、そのまま前に突き出せ!」
レオンがカイルの叫びと同時に、反射的に剣を突き出した。キィン、という高い金属音と共に、ボロの放った毒矢はレオンの剣の平に正確に弾かれ、火花を散らして床へと転がった。
「な、何だと……!? 俺の不意打ちを、見ずに防ぎやがったのか!?」
ボロが目を見開いて後退する。野盗たちの連携は完全に崩壊し、恐怖が彼らの足を縛っていた。
「さて、逃がさないよ。ここは僕の『書庫』だ」
カイルは懐から「聖句の羊皮紙」を取り出し、指先でその表面に刻まれたハッキングルーンを起動した。書庫の外周に仕掛けられた、千年前の古代トラップの制御盤へと自身の意識を滑り込ませる。
――「ルーンハッキング」、展開。
「遺跡の土壌軟化ルーンの安全装置を……解除!」
カイルが羊皮紙のルーンを一文字書き換えた瞬間、ピタゴラ装置のように連鎖が始まった。野盗たちの足元の石畳が、青い光を放ちながら一瞬にして深い泥濘(ぬかるみ)へと変貌したのだ。
「うわあああ!? 足が、足が抜けない!」
泥に足を取られ、もがく野盗たち。さらに、カイルがハッキングした天井の加重制御ルーンが作動し、崩落しかけていた巨大な瓦礫が、彼らの退路を正確に塞ぐように轟音を立てて落下した。完璧な環境ハッキングによる、一網打尽の罠だった。
「これで、終わりだ」
カイルは自身の魔力回路に僅かなマナを通し、泥濘を爆発させる簡易的な「着火ルーン」を放とうとした。しかし、その瞬間、彼の胸の血印が激しく発熱し、魔力回路が内側から引き裂かれるような激痛が走った。一般人以下の身体能力しか持たないカイルの肉体は、自力の魔法発動による負荷に耐えきれなかったのだ。
「ぐあ……っ!」
カイルの口から黒い血が溢れ、視界が急激に白む。右目が充血し、強烈な偏頭痛が彼の脳を襲った。魔法は不発に終わり、カイルはその場に膝を突いた。
「おい、カイル!」
レオンが急いで駆け寄り、倒れかけるカイルの身体を支えた。泥濘に囚われた野盗たちは、すでに戦意を完全に喪失し、武器を捨てて降伏の叫びを上げていた。レオンは素早くボロの元へ歩み寄り、その胸元を掴んで引きずり起こした。
「おい、野盗。誰に雇われてここを狙った?」
「ひ、悲鳴を上げるな! 俺たちはただ、アジールの酒場で『地下遺跡に金目のものを隠している無能な書記官がいる』って噂を聞いただけだ! そ、それに、この紙を渡されて……!」
ボロが震える手で懐から差し出したのは、血に汚れた一枚の羊皮紙だった。
レオンからその紙を受け取ったカイルは、モノクルを通してそこに刻まれた紋章をスキャンした。その瞬間、カイルの焼け付くような胃が、さらに冷たく縮み上がった。
それは、神聖教会の異端審問官バルタザールが発行した、「中立地帯の不審人物(カイル)の捜索令状」――そして、カイルを「聖女を呪う魔導師」として指名手配する、冷酷な断罪の書状だった。
「……教会が、もうここまで迫っているのか」
カイルは血のついた唇を噛み締め、遠く伸びる純白の魔力糸を見つめた。バルタザールの捜索網は確実に狭まっている。このアジールの地下すら、もう安全な聖域ではないという冷酷な現実が、カイルの胸に重くのしかかった。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!