始まりの隠れ家と胃痛の書記官
「地下に異端の魔力反応あり! 聖女様を捜索せよ!」
崩落した古代遺跡「逆命の円陣」の最下層。天井の遥か上層から、幾重もの金属鎧がきしむ不気味な足音と、冷徹な光属性の魔力探知の波動が、地下水道の冷たい闇を切り裂いて降り注いできた。
カイル・レオンハルトは、左目の「解析のモノクル」を必死に押さえながら、荒い息を吐いた。胸骨の骨折による激痛が、呼吸をするたびに肺を内側から突き刺す。だが、彼を襲う苦痛はそれだけではなかった。
「くそ、立ち上がらなきゃ……みんなを巻き込むわけには……」
カイルは自力で立ち上がろうと、ぬかるんだ地面に手を突いて足に力を込めた。しかしその瞬間、右足のふくらはぎに、まるで火箸を直接押し当てられたかのような強烈な激痛が走り、足の筋肉が異常なほどに硬直した。
「ぐああっ!?」
カイルはなす術もなく、瓦礫の上へと再び転倒した。自分の足が痙攣しているのではない。生死の境界線(ソウルリンク)の向こう側――遥か遠く「風の谷」へと戻ろうとしていた亜人連合の盟主シルフが、追手を振り切るために急激な跳躍を繰り返したことによる極度の肉体的疲労が、感覚共有を通じてカイルの足へと還流してきたのだ。魔力を持たないカイルの貧弱な肉体は、その強大すぎる負荷を受け止めきれず、一瞬で筋繊維が悲鳴を上げてしまったのだ。
「おいおい、しっかりしろよ、書記官サマ!」
暗闇から現れたのは、傷だらけの軽鉄甲冑を纏い、隻眼の瞳に不敵な光を宿した放浪の剣士、レオン・ベルハルトだった。彼はカイルの細身の身体を軽々と片腕で抱え上げ、自身の背中へと背負い込んだ。
「舌を噛むなよ。走るぞ!」
レオンは凄まじい脚力で、遺跡の奥へと続く暗く湿った地下水道を疾走し始めた。カイルの首を絞めたイグニスの喉の痛み、シルフの疲労、そしてカイル自身の骨折の痛みが、リンクした五人の中で複雑に反響し合っている。カイルが苦痛に喘ぐたびに、遠く離れた四人の女傑たちも同時に胸を痛めているはずだった。
背後からは、聖堂騎士団が放つ純白の探知光が、触手のように地下水道の水面を這いながら迫ってくる。教会の探知魔術は「光の反射と屈折」を利用して、空気中や水面に残された異端の魔力残渣を特定する仕組みだ。このままでは、カイルの存在が探知網に引っかかるのは時間の問題だった。
「レオン、あの水門の影へ!……くっ、胃が引き裂かれそうだ」
急激な体温の上昇と、精神的な極限のストレスにより、カイルの胃腑が酸で焼かれるような激痛を訴え始める。カイルは震える手で懐から携帯用の胃薬を取り出し、泥水混じりの空気と共に無理やり飲み込んだ。
「こいつを被れ!」
カイルは、闇商人の老婆ギルダから以前手に入れていた「隠蔽のローブ」を、レオンの甲冑の上から強引に被せた。このローブは着用者の魔力と気配を完全に消去する。しかし、レオンの巨体とカイルの二人分を完全に覆うには少しサイズが足りない。
「僕の魔力残渣が漏れる……。モノクル、光の波長を解析しろ!」
カイルがモノクルのフレームに触れると、レンズの奥で青い古代ルーンの文字列が高速で縦スクロールを開始した。迫り来る教会の探知光の魔導回路をスキャンし、その「バグ」を特定する。
「『水流のルーン』の屈折率を……逆転させる!」
カイルは水面に指先を浸し、解析したハッキングコードを直接水流へと流し込んだ。魔力を持たないカイルだが、水路に刻まれた古代の循環術式を一時的に「誤作動」させることなら、ルーンの知識だけで十分に可能だった。
次の瞬間、迫り来た純白の探知光が地下水道の水面に接触した途端、まるで鏡に跳ね返されたかのように、真上の天井へと不自然な角度で反射していった。探知光はカイルたちの目の前を通り過ぎ、遥か頭上の岩肌を虚しく照らすのみにとどまった。
「おいおい、手品かよ!」
背負ったレオンが、走りながら驚嘆の声を上げる。
「手品じゃない。光の屈折率をハッキングして、探知の死角を物理的に作っただけだ。レオン、この先の崩落した壁の奥に、僕が事前に解析しておいた隠し通路がある。そこへ飛び込んでくれ!」
レオンは迷うことなく、指示された暗闇の裂け目へと身を投げ出した。幾重もの防衛結界の隙間をすり抜け、二人は地下深くへと滑り込んでいく。背後で「カチリ」と古代の石扉が閉まり、教会の執拗な魔力探知と足音は、完全に遮断された。
そこは、埃っぽいインクの匂いと、古い羊皮紙の香りが漂う広大な地下空間だった。壁一面に整然と並ぶ無数の書架。失われた古代の知識が眠る、絶対中立の隠れ家「共鳴の書庫(レゾナンス・アーカイブ)」である。
「カイル様! おお、神様、なんてお姿に……!」
静寂に包まれた書庫の奥から、大きなエプロンを揺らし、おさげ髪を振り乱しながら駆け寄ってきたのは、書庫の司書補ミリー・ポピンズだった。彼女はおっちょこちょいな手つきで、カイルの血塗られたローブと青白い顔を見るなり、涙目を浮かべておろおろと手を動かした。
「ミリー、落ち着け。彼はまだ死んじゃいない。ただ、感覚共有の過負荷で身体がボロボロなだけだ」
レオンがカイルを静かに古びたソファーへと横たえた。ミリーは急いで温かい濡れタオルを用意し、カイルの額に浮かんだ脂汗を優しく拭い去った。そして、カイルの胃痛を和らげるための鎮痛ハーブの抽出液を、震える手で彼の口元へと運ぶ。
「カイル様、ゆっくり飲んでください。大丈夫、ここは古代の結界で守られています。教会の騎士たちも、絶対に侵入できませんから……」
ミリーの健気な優しさと、ハーブのじんわりとした温かさが、カイルの焼け付くような胃腑をゆっくりと満たしていく。痛覚分散呼吸法を維持しながら、カイルは深く息を吐き出し、ようやく激しい胃痛を抑え込むことに成功した。
「助かったよ、ミリー、レオン……」
カイルはかすれた声で感謝を述べ、自身の胸元のボタンをいくつか外した。泥と汗に汚れた皮膚の露出した胸元には、光、闇、炎、風を象徴する四色の不気味な傷跡――「血印」が、今もなお微かに明滅を繰り返していた。
カイルは左目のモノクルを指先で調整し、自身の胸元に刻まれた術式を凝視した。アトラのデータベースと直結し、この理不尽な契約の構造を解析するためだ。
「アトラ、血印の魔導パスをスキャンしてくれ。僕たちの命が、どうやって繋がっているのかを突き止める」
【了解。血印の深層スキャンを開始します。……警告。接続された生命波形が極めて不安定です。各ヒロインの精神状態と同調を開始します】
モノクルのレンズがカチリと音を立てて焦点を結んだその瞬間、カイルは驚愕の光景を目にした。レンズの奥に展開された不可視の領域で、自身の胸の血印から、四色の極細い魔力の糸が伸びていたのだ。
純白、漆黒、真紅、深緑。
その糸は、書庫の頑強な石壁を透過し、遥か彼方の空間へと無限に伸びている。そして、その糸を通じて、遠く離れた四人の居場所と、彼女たちの剥き出しの「感情」が、リアルタイムでカイルの脳内へと中継され始めたのだ。
純白の糸からは、大聖堂に戻ったセレスティアの「教義と自身の生存の板挟みによる、身を焦がすような焦燥」が。
漆黒の糸からは、魔界へ帰還しつつあるヴェロニカの「契約に対する激しい怒りと、僕を自陣営に幽閉せんとする歪んだ独占欲」が。
真紅の糸からは、竜の谷へ飛び去ったイグニスの「人間に命を握られたことへの、天地を覆すほどの屈辱と怒り」が。
そして深緑の糸からは、風の里へ逃れたシルフの「怯えと、僕の痛みに同調する恐怖」が。
四人の強大すぎる精神波が一気にカイルの脳内へと流れ込み、彼の精神を内側から引き裂かんと暴れ狂う。
「ぐっ、あ、あたまが……割れそうだ……!」
カイルは頭を抱え、再びソファーへと深く沈み込んだ。生死を共有した四人の宿敵たち。彼女たちがそれぞれの陣営に戻ったことで、その距離が離れたにもかかわらず、ソウルリンクの「五感の共有」というシステム的な恐怖が、今、カイルの脳を完全に支配しようとしていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!