絶望の淵と、第五の胎動
カイルの知略の要が、完全に失われてしまったのだ――。
視界の左半分を覆うのは、無機質な砂嵐のようなノイズと、ガラスが砕けた蜘蛛の巣状の亀裂だった。カイル・レオンハルトは、床に散らばる『解析のモノクル』の破片を、震える指先で見つめることしかできなかった。
魔力を持たない彼が、この世界で唯一、神格級の強者たちと対等に渡り合うための武器。古代ルーンをハッキングし、因果の糸を解きほぐすための「眼」が、教会の暗殺部隊長ハザード・ザ・リッパーの手によって、無惨にも叩き割られたのだ。
「カイル様! カイル様、しっかりしてください……!」
書庫の司書補ミリー・ポピンズが、涙で顔を濡らしながらカイルの細い身体を抱きかかえる。彼女の手が触れるカイルの衣服は、自身の精神的逆流による吐血と、胸元の血印から滲み出た鮮血で真っ赤に染まっていた。脳内を直接引き裂くような強烈な頭痛。それもそのはず、ヒロインたちの激しい感情を吸収し、彼の精神を守っていた防護デバイス『魔界の黒死石』は、先ほどの衝撃で完全に粉砕され、もうこの世界には存在しないのだから。
「おい、カイル……クソが、耳を貸せ!」
レオン・ベルハルトが、ハザードの光刃によって深く切り裂かれた右腕を強引に布で縛りながら、カイルの前に立ちはだかった。彼の隻眼には、かつてない焦燥が浮かんでいる。
「タロスが外壁を崩して入り口を物理閉鎖したが、それも時間の問題だ。外にはバルタザール本隊の魔力反応が満ちてやがる。結界が完全に包囲されて、内側から魔力を絞り殺す『断罪の光鎖結界』が展開されつつあるぞ!」
ドゴォォォン、と書庫の天井が不気味に鳴動した。タロス・ワンが閉ざした石扉の向こうから、教会の審問官たちが放つ聖なる魔術の衝撃波が、物理的な振動となって伝わってくる。
「……結界の、制御が……できない」
カイルは掠れた声で呟いた。モノクルがない。裸眼で見る書庫の壁は、ただの古びた石肌に過ぎず、そこに刻まれた古代結界のルーン配列は、ただの「意味を持たない文字列」として視界に映るだけだった。どこに魔力の不整合(バグ)があり、どこを書き換えれば結界を補強できるのか、今のカイルには一切判別できなかった。
まさに、絶望の淵だった。
その時、書庫の中央に設置された『アトラの魔導コア』が、青く神聖な光を放って脈打った。ホログラムとして投影された古代AIアトラの姿は、いつもの毒舌な余裕を完全に失い、極めて深刻な表情をしていた。
『カイル、絶望している時間はありません。あなたのモノクルの魔導回路は完全に遮断されましたが、あなたの脳に刻まれた「古代ルーン解読法「アトラ式」」の思考パターンそのものは奪われていません。……まだ、生き残る道はあります』
「……道、だと?」
『はい。この書庫の床下には、千年前の初代調停者レオンハルト一世が遺した、極秘の緊急転移陣が眠っています。それを使って、中立地帯の火山の麓へと脱出するのです。そこには、古代の神鉄を扱うことができる偏屈なドワーフの伝説的鍛冶師、バルカン・アイアンフィストが隠れ住んでいます。彼ならば、そのモノクルを修復し、さらに強力な法宝へと強化できるはずです』
アトラの提示した希望に、カイルの濁った左瞳にわずかな光が戻った。しかし、レオンが即座に厳しい現実を突きつける。
「転移陣だと? だがカイル、お前はモノクルなしでその複雑な古代ルーンを起動できるのか? 一文字でも配列を間違えれば、俺たちは空間の隙間に引き裂かれて塵になるぞ!」
「……やるしか、ない。ここに残れば……どのみち全員、バルタザールに引き裂かれる」
カイルは痛む胸骨を押さえながら、ミリーの肩を借りて床に這いつくばった。書庫の絨毯を剥ぎ取ると、そこには埃にまみれた、巨大な円環状の古代ルーン――隠し転移陣が刻まれていた。だが、その文字は千年の歳月で風化し、いくつかの配列が完全に崩れている。
「ミリー、『アトラの魔導コア』を僕の背中に押し当ててくれ。アトラ、君の演算データベースと、僕の脳の『魂の柔軟性』を直接シンクロさせる。……モノクルがないなら、僕の脳を直接、解読器にする!」
『狂気ですね、カイル。そんなことをすれば、あなたの脳細胞は直接魔力の負荷に曝され、最悪の場合、精神が崩壊しますよ?』
「僕の命が尽きるのが先か、転移陣が起動するのが先か……勝負だ」
カイルは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。吸って三秒保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す――『痛覚分散呼吸法』。心拍数を毎分三十回にまで意図的に低下させ、脳を「絶対の静寂」へと導く。胸元の四本の血印が、カイルの鼓動と同調して不気味な四色の微光を放ち始めた。
「ぐ、あぁぁぁっ……!」
ミリーがアトラの魔導コアをカイルの背中に押し当てた瞬間、カイルの脳内に、言葉では言い表せないほどの強烈な「情報量」が直接流れ込んできた。それは、数万通りのルーン文字の配列パターン。モノクルというフィルターを通さない生のマナが、彼の貧弱な魔力回路を内側から焼き焦がしていく。鼻から、再び赤い血がタラリと床に流れ落ちた。
『精神防御を開始します! 「精神の避難所(ソウル・シェルター)」を展開、カイル様の自我のバックアップを一時保護します!』
アトラの鋭い叫びと共に、カイルの意識は一時的に「書庫の静かな読書室」の幻影へと退避し、脳の完全な崩壊がミリ単位で食い止められた。
カイルは床のルーンに直接両手を触れた。裸眼の視界は砂嵐で歪んでいる。しかし、指先から伝わる古代の凹凸と、脳内に投影された「アトラ式」の辞書が、彼の頭の中でパズルのように噛み合い始めた。
(ここだ……。この『接続のルーン』の右側、マナの流れが滞っている。バグがある!)
カイルは自身の血で濡れた指先を用い、床の石肌に直接、欠落したルーンを手動で書き込み始めた。魔力ゼロの彼が、自身の命(血液)を触媒にして古代の回路を繋ぎ直していく。
だが、その脱出作業を、奈落の底から見つめる邪悪な「眼」があった。
キィィィィン――!
突如として、転移陣の周囲の空気が、不気味な「灰色」へと変色し始めた。床に刻まれた青いルーンの光が、ドロドロとした漆黒の霧によって急速に侵食されていく。カイルの脳内に、黒い泥が直接流れ込んでくるような、悍ましい精神汚染のノイズが直撃した。
「が、はっ……!? この、魔力は……ハザードの、ものではない……!」
カイルは激しく吐血し、床に突っ伏した。モノクルがないため、その魔力の正体を完全にはスキャンできない。しかし、アトラのデータベースが、その邪悪な波形を瞬時に照合した。
『警告! 遠隔からの虚無属性の干渉を検知! これは……「始まりの遺跡」の封印を改ざんした張本人、虚無の使徒の魔導士ヴィクター・グレイヴの魔力波形です!』
ヴィクター・グレイヴ。世界を破滅に導こうとする第五の勢力の先兵。
彼は遠隔から書庫の魔力空間に干渉し、カイルが起動しようとしている転移陣のルーン配列をリアルタイムで「改ざん」し、転移先を「奈落の裂け目(ヴォイド・アビス)」へと強制変更しようとしていたのだ。このまま転移すれば、カイルたちは虚無の泥の中に直接放り出され、一瞬で消滅する。
「……ハ、ハッキングして、配列を狂わせようとしているのか……!」
カイルは激しい頭痛で意識が飛びそうになりながらも、不敵に笑った。
ヴィクターの狙いは、カイルの「ルーン技術」を封じ、彼を奈落へ引きずり込むこと。カイルがモノクルを失い、もうルーンを紡ぐことができないと完全に油断している。
「僕を、ただの無能力者だと……侮るなよ」
カイルは『痛覚分散呼吸法』を極限まで稼働させ、脳のオーバーヒートによるショック死を力ずくで抑え込んだ。そして、アトラの魔導コアと自身の脳を直接シンクロさせたまま、脳内だけで『古代ルーン解読法「アトラ式」』を最大演算で稼働させた。
ヴィクターが流し込んできた虚無のノイズ。それは、古代ルーンの配列における「不整合(バグ)」そのものだった。カイルにとって、それは最も得意とする「解析」の対象に過ぎない。
(見えた。ヴィクターが書き換えた『虚無のルーン』の接合部。――そこが、この術式の急所だ!)
カイルは自力で攻撃魔法を放つことはできない。しかし、相手の術式の「バグ」を指先で突くことならできる。カイルは血濡れた右手の指先を、転移陣の最も歪んだ一文字へと突き立てた。
「タロス! 起動キーを……逆行接続!」
カイルは最後の力を振り絞り、首元の起動キーを床の転移陣へと直接叩きつけた。タロス・ワンを起動するために溜めていた余剰エネルギーが、キーを通じて転移陣へと一気に逆流する。精密な制御ができないため、タロスが一時的に暴走しかけて赤い目を点滅させたが、カイルはその暴走魔力そのものを「ハッキングの燃料」として利用した。
次の瞬間、カイルの指先から放たれたハッキングコードが、ヴィクターの虚無のルーンへと割り込んだ。
パリィィィン!!!
書庫全体に、ガラスが割れるような美しい音が響き渡る。転移陣を侵食していた灰色の霧が一瞬にして霧散し、床のルーンは濁りのない、透き通った純青の輝きを取り戻した。ヴィクターの遠隔干渉が、魔力ゼロの青年の「知恵」によって完全に打ち破られたのだ。
「な……、馬鹿な、遠隔からの私のハッキングを、モノクルなしで防ぐだと……!?」
脳裏の奥で、ヴィクターの掠れた驚愕の悲鳴が聞こえた気がした。
同時に、書庫の正門の石扉が、凄まじい光の爆発と共に内側へと吹き飛んだ。土煙の向こうから、白銀の甲冑を纏ったバルタザール本隊の審問官たちが、一斉に武器を構えて突入してくる。
「そこまでだ、異端の調停者! 神の光の下に平伏せ!」
「……遅いよ、バルタザール」
カイルは血塗れの顔で、不敵に微笑んだ。
彼らが突入した瞬間、カイル、ミリー、そしてレオンの身体が、極限まで活性化した転移陣の純青の光の柱の中に包み込まれた。空間が急速に歪み、書庫の景色が引き裂かれていく。
脱出は、成功した。
しかし、転移の光が彼らの身体を異次元へと引きずり込む、まさにその刹那――。
ズズズ、ズズズズズズ!!!
アジールの地下、いや、大陸全体の底を揺るがすような、悍ましい「地鳴り」が響き渡った。それは物理的な振動ではない。生死の境界線(ソウルリンク)のシステムそのものを、内側から激しく揺るがすような、不気味な黒い泥の「波動」だった。
(なんだ……この、胸が引き裂かれるような、悍ましい胎動は……!?)
カイルの胸元で、四色の血印が、今までに見たこともない禍々しい「黒い泥の光」を放って狂い咲いた。ソウルリンクを通じて、遠く離れたセレスティア、ヴェロニカ、イグニス、シルフの四人の心臓にも、同時に強烈な「不快感」と「世界のバグ」の予兆が突き刺さる。
奈落の彼方から、何かが目覚めようとしている。
転移の光が完全に引き裂かれる直前、カイルの意識は、その悍ましい黒い泥の波動に呑み込まれ、完全な闇へと沈んでいった――。
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