暴君たちへの「等価生命論」
「――殺す。貴様のような羽虫に、この我が縛られるなど万死に値する!」
崩落した古代遺跡「逆命の円陣」の最下層。赤く、そして青く脈打つ血の光の中で、最初に動いたのは竜族の女帝イグニスだった。
彼女は赤熱する溶岩のような魔力を全身から吹き荒らし、その圧倒的な質量だけで周囲の瓦礫を塵へと変えながら、カイルへと突進した。魔力ゼロの書記官であるカイルにとって、それは世界の終わりと同義の光景だった。イグニスの真紅の瞳は怒りに燃え、その鋭い爪がカイルの細い首を容赦なく掴み上げる。
「ぐっ、あ……っ!」
喉が物理的に押し潰され、カイルの視界が瞬時に白む。ただでさえ瓦礫の下敷きになって折れた胸骨が、凄まじい風圧で悲鳴を上げた。肺から酸素が奪われ、心臓が悲鳴を上げる。
だが、次の瞬間、異変が起きた。
「がっ、はっ……!? な、に……これ、は……っ!」
カイルの首を絞めていたはずのイグニスが、突如として自らの喉を掻きむしり、激しく咳き込んで膝を突いたのだ。彼女の顔はみるみるうちに朱に染まり、まるで目に見えない不可視の手に首を絞められているかのように喘いでいる。
カイルの喉にかかる圧力が、生死の境界線(ソウルリンク)を通じて、全く同じ強さ、全く同じ窒息感としてイグニスの肉体へと一瞬で還流したのだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
イグニスの力が緩んだ隙に、カイルは床に倒れ込みながら必死に空気を吸い込んだ。カイルが息を吹き返すと同時に、イグニスの窒息感もまた和らいでいく。イグニスは信じられないものを見る目で、自らの震える手とカイルを見つめた。
【警告。管理者の生命活動が危険領域に達しました。痛覚および感覚の共有率が現在百パーセントに固定されています。管理者の死亡は、全契約者の即時消滅を意味します】
脳裏に響くアトラの冷徹な警告音。カイルは激痛で引き裂かれそうな意識の片隅で、必死に呼吸を整えようとした。胃の奥から、ストレスによる強烈な痛みがせり上がってくる。この最悪の状況で、胃痛まで共有されたらたまらない。
(落ち着け……。師オズワルドの教えを思い出せ。痛みを『制御』するんだ……)
カイルは深く息を吸い込み、三秒間保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す――「痛覚分散呼吸法」の基礎を、無意識のうちに実践し始めた。アトラの魔導演算がカイルの脳内回路を補佐し、乱れた心拍数を強制的に引き下げていく。鼓動が安定するにつれ、胸元の四本の血印から放たれる不気味な熱波が徐々に収まっていった。それと連動して、四人の女傑たちの表情からも、耐え難い激痛の色彩がわずかに引いていく。
「ふざけるな……! このようなふざけた呪い、我が黒炎で魂ごと焼き切ってくれる!」
魔王軍の皇女ヴェロニカが、漆黒の角を怒りに震わせながら立ち上がった。彼女の指先に、触れたものの存在そのものを消滅させる「深淵の黒炎」が灯る。彼女はカイルの胸元に刻まれた血印を睨みつけ、その魔力を直接焼き尽くそうと一歩を踏み出した。
「待ちなさい、魔族の女! 狂ったのですか!」
それを遮ったのは、亜人連合の盟主シルフだった。彼女は無口な普段の様子からは想像もつかない悲痛な声を上げ、風の精霊を召喚してヴェロニカの前に強固な「風の壁」を展開した。荒れ狂う暴風が、不気味な黒炎を物理的に弾き返す。
「邪魔をするな、亜人の羽虫が! 貴様、死にたいのか!」
「彼が……あの人間が傷つけば、私たちの魂も同じように焼かれる……! あなたは、自分が灰になる痛みを今すぐ味わいたいのですか!?」
シルフの言葉に、ヴェロニカの動きがピタリと止まった。彼女たちの胸元に刻まれた「血印」は、カイルの胸の傷と全く同じ四色の光を放ち、脈打っている。先ほどイグニスが味わった「窒息の共有」という現実が、彼女たちの脳裏に強烈な恐怖として焼き付いていた。
カイルは血の混じった唾を吐き捨て、左目の「解析のモノクル」を指でそっと直した。レンズの奥で、彼女たちの魔力波形と血印の接続率がリアルタイムで視覚化されている。全員が極限のパニック状態にあり、同時に、自分たちに何が起きているのかを理解し始めていた。
カイルは泥と血に汚れたローブを払い、壁に背を預けてゆっくりと立ち上がった。その姿は、神格級の武力を持つ彼女たちの前ではあまりにも矮小で、魔力すら持たないただの人間だった。しかし、その佇まいからは、一切の怯えが消え失せていた。
「……全員、僕の言葉をよく聞いてほしい」
カイルの静かな声が、崩壊した遺跡の静寂に響いた。その声には、宮廷を追放された「無能な書記官」のものではなく、生死の境界を支配する「調停者」としての冷徹な論理が宿っていた。
「君たちが僕をどう思おうと自由だ。呪術師と呼んで憎むのもいい。だが、厳然たる事実が一つだけある。――僕が死ねば、君たちも死ぬ」
四人の視線が、カイルの胸元に刻まれた四本の血印に集中する。それは光、闇、炎、風の属性が複雑に絡み合った、千年前の「逆命の円陣」がもたらした絶対の契約の証明だった。
「これが僕の提唱する『等価生命論』だ」
カイルは自らの胸を指し示し、理路整然と語りかける。
「君たちのうち、誰か一人が僕に危害を加えれば、そのダメージと激痛は生死の境界線(ソウルリンク)を通じて、全員に均等に分配され、還流する。僕の首を絞めれば全員が窒息し、僕の心臓を貫けば、君たち四人の心臓も同時に停止する。つまり、君たちが互いを滅ぼそうと放つ最強の魔術も、僕というハブを経由して、君たち自身の肉体を内側から破壊する自爆兵器へと変わるんだ」
「そんな……理不尽なことがあってたまるか……!」
イグニスが屈辱にまみれた声で呻く。世界を統べる竜族の女帝が、魔力を持たぬ人間の生存に、自らの命を人質に取られている。その事実が、彼女の誇りをこれ以上ないほどに引き裂いていた。
「理不尽だろう。だが、これがこの遺跡のシステムであり、世界のルールだ」
カイルはモノクルの奥の瞳を冷徹に光らせ、彼女たちを見据えた。
「だから、君たちの今後の最優先事項は一つだけ。――何が何でも、僕の安全を確保することだ。僕が風邪をひいて熱を出せば君たちも寝込み、僕が胃痛で苦しめば君たちも胸焼けを起こす。もし、僕が誰かの不意打ちで命を落とせば……君たちの輝かしい覇道も、その瞬間にここで唐突に幕を閉じることになる」
沈黙が戦場を支配した。
魔皇ヴェロニカは忌々しげに黒炎を消し、シルフは安堵と恐怖の混ざり合った吐息を漏らした。そして――神聖教会の聖女セレスティアが、自身の持つ光の法杖を、最も静かに、そして最初に収めた。
「……神の教義は異端の排除を求めています。ですが、我が命が失われれば、教会が掲げる光の救済もまた途絶える。……一時的に、武器を収めましょう」
セレスティアの決断に、他の三人もまた、悔しそうに、しかし反論できずに沈黙を貫いた。魔力ゼロの男一人を傷つけることすらできないというシステムの「理不尽さ」に対する彼女たちの焦燥と悔しさが、重苦しいマナとなって空気中に満ちていく。
カイルは心の中で、小さく胃をさすった。等価生命論による一時的な停戦は勝ち取った。だが、彼女たちの殺意が消えたわけではない。むしろ、自分を自陣営に幽閉し、安全に囲い込もうという新たな独占欲が芽生え始めているのを、モノクルが捉える彼女たちの「感情のオーラ」から察知していた。
その時だった。
崩落した天井の遥か上層から、重々しい金属鎧がきしむ足音と、光属性の魔力探知の波動が、地下最下層へと向かって急速に降りてくるのが聞こえた。
「――地下に異端の魔力反応あり! 聖女様を捜索せよ!」
その声に、セレスティアの表情が凍りついた。
「教会の……聖堂騎士団の追っ手です……。バルタザールが派遣した先兵が、もうここまで……」
カイルの胸に、新たな緊張が走る。もし今、教会の狂信的な審問官たちに自分の存在が発見されれば、魔力ゼロの「不浄の呪術師」としてその場で即座に処刑されるだろう。それは、ここにいる五人全員の「即死」を意味していた。五人の命を繋ぐチェスゲームは、休む間もなく次の極限の局面へと移行しようとしていた。
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