「聖痕の影」の急襲と、モノクルの危機
「――逃がさん、異端の書記官」
鼓膜を直接針で刺されたかのような、抑揚のない冷徹な声が暗闇に響いた。
カイル・レオンハルトの背筋に、氷柱を突き立てられたような戦慄が走る。全身を包む『隠蔽のローブ』が、ハザード・ザ・リッパーの放つ圧倒的な殺気によって、それ自体が激しく震えているようだった。
カイルの足は、先ほどの『気配遮断の歩行法』による強烈な筋肉の痙攣(攣り)で、地面に張り付いたように一歩も動かない。右目は包帯で完全に塞がれ、左目だけで背後の死神を見上げるしかなかった。
ハザードの両手に嵌められた『閃光の爪』が、パチパチと不気味な純白の放電を伴いながら、カイルの無防備な首元へと振り下ろされる。光を刃に変えて戦う「聖痕の影」の執行者。その一撃は、魔力ゼロのカイルの首など、温めたナイフでバターを切り裂くよりも容易く刎ね飛ばすだろう。
死が、目の前に迫っていた。
「が、はっ……!」
カイルが本能的に目を閉じた瞬間、鼓膜を破らんばかりの金属の激突音が、地下遺跡の静寂を暴力的に打ち砕いた。
凄まじい衝撃波が周囲の空気と埃を吹き飛ばす。カイルが薄く目を開けると、そこには傷だらけの軽鉄甲冑を軋ませ、巨大な大剣でハザードの爪を受け止めているレオン・ベルハルトの背中があった。
「おい、カイル! 生きてるか! 突っ立ってんじゃねえ、早く中に入りやがれ!」
「レオン……! どうして……」
「お前を一人で死なせたら、俺の『守護の魔剣』の名が泣くだろ!」
レオンは隻眼を剥き出しにし、全身の筋肉を膨張させてハザードの鉤爪を押し返そうとする。しかし、ハザードの身体は羽毛のように軽く、レオンの怪力による反発を、まるで重力が存在しないかのような身のこなしで宙へ跳んで受け流した。
ハザードの包帯に覆われた顔が、不気味に傾ぐ。
「放浪の剣士レオン・ベルハルト。異端の片棒を担ぐか。……ならば、まとめて光の塵と消えよ」
宙に浮かんだハザードの身体が、一瞬にしてブレた。残像すら残さない神速の移動。次の瞬間、レオンの周囲に無数の純白の光線が交差した。
――『光刃乱舞』。
「く、おおおおっ!?」
レオンが「守護の魔剣」を盾にして必死に防ぐが、あらゆる方向から飛来する光の刃は、彼の鉄甲冑を容赦なく切り裂いていく。金属が弾け、肉が裂ける鈍い音が響き、レオンの右腕から鮮血が噴き出した。
「レオン!」
カイルは叫びながら、必死に『痛覚分散呼吸法』を稼働させた。深く息を吸い込み、三秒保持し、十秒かけて吐き出す。心拍数を極限まで下げ、脳の演算領域を強制的に確保する。左目の『解析のモノクル』に指先を触れ、壊れかけのレンズの奥で魔導演算を最大出力まで引き上げた。
――『解析の魔眼』、起動。
カイルの左目の視界が、青い古代ルーンのグリッド線で埋め尽くされる。ハザードの超高速の動きが、一秒先の「半透明の残像」としてカイルの脳裏に直接投影され始めた。
「レオン、右へ半歩! その直後、大剣を左斜め上へ振り抜け! 奴の次の狙いは君の左脇腹だ!」
レオンは自身の負傷にも怯まず、カイルの言葉を「神託」として受け入れた。カイルの指示通り、右へ半歩ずれた瞬間、彼の左脇腹をハザードの爪が掠め、空気を引き裂いた。そして正確に一秒後、レオンが下からすくい上げるように振り抜いた大剣が、ハザードの甲冑の裾を捉え、その身体を初めて後方へと弾き飛ばした。
「……チッ、本当に未来が見えてるみてえだな!」
レオンが口元の血を拭いながら不敵に笑う。
だが、弾き飛ばされたハザードは、着地と同時に包帯の奥の瞳を冷酷に細めた。その視線は、レオンではなく、その後ろで息を切らせているカイルへと向けられていた。
「なるほど。あの放浪の剣士が神速の回避を見せるのは、お前の指示があるからか。そして、その先読みを可能にしているのは……その左目の『片眼鏡(モノクル)』だな」
ハザードの冷徹な観察眼は、カイルの戦術の「核心」を瞬時に見抜いていた。カイル自身には戦闘力はない。しかし、あのモノクルがある限り、レオンという強力な盾を「無敵の剣士」へと変えてしまう。ならば、最初に潰すべきは――あの眼鏡だ。
「しまっ……!」
カイルが危険を察知した瞬間、ハザードの両爪から、極小の純白の球体が放たれた。それはレオンの目の前で、太陽そのもののような強烈な閃光を放って炸裂した。
――教会の秘術『閃光移動』の応用による、目眩まし。
「ぐあああっ!? 目、目が……!」
隻眼のレオンが、強烈な光に視界を奪われ、苦悶の声を上げて大剣を取り落としかける。ハザードはその隙を見逃さず、レオンの巨体をすり抜け、一直線にカイルへと肉薄した。
「消えよ、異端の『眼』」
ハザードの爪が、カイルの左目――『解析のモノクル』を目がけてピンポイントで突き出される。防壁を切り裂く『閃光の爪』の熱量が、カイルの顔面の皮膚をじりじりと焦がしていく。
(ハッキングしろ! 奴の爪の光ルーンを解体するんだ!)
カイルは懐から『聖句の羊皮紙』を取り出し、ハッキングルーンを展開しようとした。だが、ハザードの突進速度は、カイルの脳内演算とルーンの書き換え速度を遥かに上回っていた。モノクルのレンズの奥で、解読コードが「エラー」を連発し、青い光が霧散していく。ハッキングが間に合わない。
さらに、カイルの懐で、乾いた割れる音が響いた。
――パキィン!
それは、イグニスたちの嫉妬や怒りの感情を吸収し続け、すでに無数の亀裂が入っていた『魔界の黒死石』が、ハザードの放つ純粋な「殺意」の過負荷に耐えきれず、完全に粉々に砕け散った音だった。
「が、はっ……あ、頭が……割れる……!」
黒死石という防壁を失ったことで、ハザードが放つ「感情なき冷酷な殺意」と、遠く離れたセレスティアたちがソウルリンクを通じて発している「カイルへの焦燥と心配」の精神波が、防護なしでカイルの脳髄へと直接流れ込んだ。凄まじい精神的逆流。カイルは強烈な目眩と吐き気に襲われ、口から真っ赤な血を吐き出してその場に膝を突いた。
視界が白む。ハザードの閃光の爪が、カイルの左目を貫く寸前――。
カイルの心臓が、生命の完全な終焉(死の危機)を感知した。
その瞬間、ソウルリンクの自動防衛プロトコルが、カイルの意志に関係なく強制起動した。
――『四天の加護(パッシブ・シールド)』。
カイルの胸元から、白(光)、黒(闇)、赤(炎)、緑(風)の四色の魔力の光が、火山が爆発したかのような勢いで噴出した。四色の光は同心円状の強固な多重障壁を形成し、カイルの身体を包み込む。
ハザードの爪が、その障壁に衝突した。
キィィィィィィン――!!!
鼓膜を破壊するような高周波の衝突音が響き渡り、純白の光と四色の魔力が激しく反発し合う。ハザードの『閃光の爪』が、加護の障壁によって物理的に完全に弾き飛ばされた。ハザードの包帯に覆われた身体が後方の岩壁へと激突し、彼のトレジャーである鉤爪の表面に、ピシピシと細かな亀裂が入る。
「……くっ、これが……四天の加護か……!」
ハザードが初めてその声を苦痛に歪めた。しかし、至近距離で発生した神格クラスの魔力衝突の「衝撃波の余波」は、障壁の内側にいたカイルの肉体をも容赦なく襲った。
凄まじい爆風がカイルの顔面を直撃し、彼の身体を隠し扉の石肌へと叩きつける。
そして、その衝撃の瞬間、カイルの左目で、最も聴きたくなかった「音」が響いた。
――ピシッ、パチパチパチ……。
ガラスが細かく砕け散る、耳障りな音。
「あ……、あ……」
カイルの左目の視界から、古代ルーンの青いグリッドデータが、テレビの砂嵐のようにノイズを立てて次々と消え去っていく。モノクルのレンズの中央に、蜘蛛の巣のような無惨な亀裂が走り、その輝きが完全に失われていくのが分かった。
カイルの最大の武器であり、世界のルーンを解き明かす「眼」であった『解析のモノクル』が、致命的な破損を迎えた瞬間だった。
「カイル! クソが、タロス、扉を開けろ!」
眩みから回復したレオンが、血塗れの腕でカイルの身体を抱きかかえ、崩落壁の隠し扉の隙間へと滑り込んだ。書庫の内部からミリーが涙を流しながらハッチを開き、二人を中へと引き入れる。
ハザードが岩壁から立ち上がり、再び光刃を構えて迫ってくるのが見えた。しかし、カイルが最後に起動キーを握りしめたことで、書庫の入り口を守る鉄巨人タロス・ワンが、その巨大な岩の腕で崩落壁を完全に押し潰し、入り口を物理的に完全閉鎖した。
ドゴォォォンと重い音が響き、書庫の内部に静寂が戻る。
ハザードの襲撃を一時的に退け、書庫の内部への退避には成功した。しかし、カイルは冷たい床の上に倒れ込み、割れたモノクルを手に持ったまま、その場から動けなかった。左目のレンズは完全に砕け、ただの歪んだ金属のフレームと化している。
世界のルーンが、ただの「意味を持たない文字列」に見える。
カイルの知略の要が、完全に失われてしまったのだ――。
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