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裏切り司祭の密告と、隠密の包囲網

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「ミリー、持ちこたえてくれ……今、戻る!」


 カイル・レオンハルトは、極寒の火山帯の合間に位置する転移境界から、夜風を切り裂いて走り出していた。その細身の身体は、すでに限界をとうに超えている。


 胸元に刻まれた、あの忌々しくも甘美な『生死の境界線(ソウルリンク)』の傷跡は、竜帝イグニスが施してくれた『竜鱗の粉末』によってかろうじて塞がっていたが、一歩踏み出すたびに焼けるような激痛が走る。さらに右目は、先ほどの大戦の過負荷によって毛細血管が破裂し、清潔な白い包帯で固く覆われていた。左目だけで捉える世界は、距離感が掴みづらく、焦燥感をいやが上にも煽る。


「おい、カイル! そんな身体で無茶をするな! 俺の背に乗れ!」


 暗闇から並走してきたのは、放浪の剣士レオン・ベルハルトだった。隻眼の奥に深い懸念を宿した大柄な剣士は、今にも崩れ落ちそうなカイルを強引に引き留めようとする。


「だめだ、レオン。僕の体重だけでも、君の俊敏性を奪う。それに、僕たちが少しでも大きな魔力や振動を発すれば、書庫を取り囲む教会の暗殺部隊に即座に検知される」


 カイルは荒い息を吐きながら、左目の「解析のモノクル」をそっと指先で直した。レンズの奥で、かすかに残る魔力のノイズがパチパチと青い火花を散らす。


「ミリーの通信では、すでに書庫の外周結界が削られ始めている。教会の極秘暗殺部隊『聖痕の影』――そのリーダーであるハザード・ザ・リッパーが直々に動いているんだ。奴らは光を刃に変えて戦う、音も気配も一切残さない殺しのスペシャリストだ。僕たちの物理的な接近など、一瞬で察知される」


「ちっ、あのハエ野郎(バルト)を退けたと思ったら、今度は教会の暗部かよ。……だが、なぜあの強固に隠蔽されていた書庫の位置が、こうも簡単にバレたんだ?」


 レオンの疑問に、カイルは奥歯を噛み締めた。その胸の内に、冷たい怒りがふつふつと湧き上がる。


「内通者がいる。……それも、セレスティアの極めて近くにね。僕のモノクルが、以前から聖ファルサス大聖堂の『祈祷波』に混ざる不審な暗号通信を検知していた。セレスティアの側近でありながら、裏で異端審問官バルタザールと繋がっている男――ジョセフ・ミュラー老司祭だ。あの臆病な男が、セレスティアの不審な外出と、僕たちの書庫の座標を密告したに違いない」


 カイルは懐から、ボロいボロ布のような羽織り――『隠蔽のローブ』を取り出し、自身の頭から深く被った。このローブは、着用者の魔力放射を完全にゼロにし、周囲の光をわずかに屈折させて姿を霞ませる効果を持つ。


「レオン、ここで囮になろうなんて考えないでくれ」


 カイルは、大剣の柄に手をかけようとしたレオンを冷徹な目で見つめた。


「教会の『聖痕の影』の連携は早すぎる。君が動いた瞬間に、僕の位置まで魔法障壁で逆探知される。もし君が傷つけば、その激痛がソウルリンクを通じて僕の脳を直撃し、僕はその場でショック死する。そうなれば、ミリーも、書庫も、君も、そして眠っているイグニスたち全員が共倒れだ。……ここは、僕が一人で潜入する」


「お前……本気か? 魔力ゼロの身体で、あの死神どもの包囲網を抜けるつもりか」


「力では勝てない。だからこそ、システムとルーンの隙間を突くんだ」


 カイルは静かに目を閉じ、胸元の四色の血印に意識を集中させた。緑色に輝く風の血印が、カイルの鼓動に応じてかすかに熱を帯びる。


――『微風の囁き(シルフ共鳴)』、起動。


 次の瞬間、カイルの左耳の奥で、手のひらサイズの風の精霊シルフィードが、チチチと小さく囁くような音を立てて飛び回った。カイルの知覚が、アジールの森を吹き抜ける微風と同調する。半径五百メートル以内の、あらゆる微細な空気の振動、葉の擦れる音、そして冷徹な暗殺者たちの「足音」が、音響グリッドとなってカイルの脳内へと立体的に投影され始めた。


(東側に三人、西側の岩陰に二人。……そして、書庫の正門前に、ひときわ冷たく、光を吸い込むような巨大な魔力反応がある。あれが、ハザード・ザ・リッパー……)


 カイルは深く息を吸い込み、三秒間保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す。自身の編み出した『痛覚分散呼吸法』により、心拍数を毎分四十回以下にまで低下させ、自身の体温と存在感を極限まで削ぎ落としていく。


 ――『気配遮断の歩行法』。


 カイルは一歩、踏み出した。彼の足裏は、地面に刻まれた微細な振動ルーンを敏感に感知していた。書庫の周囲の地面には、かつて先代調停者が敷き詰めた、侵入者を検知するための微弱な感応ラインがある。カイルはそのラインの「バグ(死角)」をモノクルで視覚化し、音を完全に吸収する風の衣を足元に纏わせながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。


 ざ、ざ、という風の音に紛れ、カイルの身体は陽炎のように揺らめき、暗闇の森と同化していた。


 その時、カイルの左耳に、風に乗って掠れた、しかし冷酷な老人の声が届いた。


『……バルタザール様。ジョセフです。書庫の地下結界の第三接合部に、僅かな魔力の揺らぎを検知しました。大司教ユリウス様には伏せたまま、こちらで処理を進めております。……ええ、あの不浄の書記官は、間もなく我が「聖痕の影」の鉤爪によって、その魂ごと切り裂かれるでしょう……』


 (やっぱり、ジョセフ・ミュラー……! あの聖書の陰に密告の魔石を隠していた老いぼれめ。セレスティアを操り人形にするために、僕を悪魔に仕立て上げるつもりか)


 カイルは怒りで胃がキリキリと痛むのを感じたが、痛覚分散呼吸法でその酸を無理やり中和した。ここで感情を乱せば、歩行法の振動カットが乱れる。


 カイルは姿勢を低くし、書庫の入り口へと続く古い石階段の影を這うようにして進んだ。すぐ上空を、教会の斥候がゆっくりと浮遊しながら通り過ぎていく。その距離、わずか数センチ。斥候の持つ探知の松明が、カイルの被る『隠蔽のローブ』の端をかすめそうになる。


(風ちゃん、お願いだ……!)


 カイルの肩に乗ったシルフィードが、小さな羽をそっと羽ばたかせた。微風が不自然に流れを変え、カイルの体温と、僅かに漏れ出そうとした薬草の香りを、斥候の鼻先から完全に遠ざけた。斥候は何の不審も抱かず、そのまま闇の奥へと去っていった。


 だが、安堵したのも束の間、カイルの視界の端で、不気味な純白の光がパチパチと弾けた。ハザードの暗殺部隊が設置した、侵入者を即座に検知して焼き尽くす『光の探知弾(聖痕の罠)』が、空間に無数に浮遊していたのだ。


(これに触れれば、一瞬で光の柱が立ち上り、ハザードの標的になる。……モノクル、バイパスを設計しろ!)


 カイルは左目のモノクルを強く押し当てた。亀裂の入ったレンズの奥で、探知弾の魔導回路が赤く浮かび上がる。彼は自身の右袖に刻み込んでおいた、簡易的な『魔力吸収のルーン』に指先を触れさせた。


――『結界ルーンのバイパス敷設』。


 カイルは探知弾が放つ極小の探知波を、自身の魔力回路を経由して、右袖のルーンへと直接流し込み、一時的に吸い取って無効化させた。探知弾は一瞬だけ白く輝いたが、カイルの偽装コードにより「空気の揺らぎ」と誤認し、アラームを鳴らすことなく静かに消滅した。


「はっ……はぁ……」


 極限の緊張と、全身の筋肉を硬直させ続けたことによる代償が、カイルの肉体を襲った。彼のふくらはぎの筋肉が、ピキピキと音を立てて強烈に痙攣(攣り)を始める。あまりの激痛に、カイルは冷や汗を流しながら、その場に崩れ落ちそうになった。


(くっ……ここで、声を上げるわけにはいかない……!)


 カイルは自身の足の痛みを、痛覚分散呼吸法で必死に「受け流し」ながら、泥臭く地面を這い、ついに書庫の隠し入り口である、苔むした崩落壁の隙間へと到達した。この奥に入れば、アトラの防衛結界の内側に入れる。ミリーたちを救い出せる。


「……よし、届いた」


 カイルが安堵の息を漏らし、隠し扉の石肌に手をかけた、まさにその瞬間だった。


 不自然なほど、周囲の風がピタリと止んだ。

 シルフィードが、カイルの肩の上で、今までにない恐怖の悲鳴を上げて縮こまる。


 頭上の闇から、一切の音も、魔力の放射すらもなく、何かが音もなく滑り降りてきた。


「……無能な書記官の分際で、我が『聖痕の影』の探知網をこうも美しくすり抜けるとはな。噂以上のハッキング技術だ、カイル・レオンハルト」


 背筋が凍りつくような、感情を完全に殺した冷酷な声。


 カイルが息を呑んで振り返るよりも早く、包帯で顔全体を覆った不気味な細身の男――ハザード・ザ・リッパーが、両手に嵌めた『閃光の爪』から、パチパチと純白の光刃を立ち上らせながら、音もなくカイルの背後に舞い降りていた。


 その光る鉤爪が、カイルの無防備な首元へと、容赦なく振り下ろされる――!

HẾT CHƯƠNG

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