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女帝の過保護と、甘い看病

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凍てつく風が、鼓膜を破らんばかりに狂い咲いていた。


 だが、カイル・レオンハルトの身体を包んでいるのは、氷の冷気ではない。肌を焦がすほどの、圧倒的な熱量――そして、自分を壊れ物を抱くかのように強く、必死に抱きしめる一対の逞しい腕だった。


「死ぬな……! 私の許可なく、死ぬことなど絶対に許さぬと言っているのだ、この羽虫が……!」


 鼓膜の奥で響くのは、竜族の女帝イグニスの、悲痛なまでに張り詰めた叫び声だった。普段の傲慢な威厳はどこへやら、その声は細く震え、狂おしいほどのパニックに支配されている。


 カイルの意識は、暗い泥の底に沈むように混濁していた。自ら胸元に『魔皇の黒炎短剣』を突き立てた代償はあまりにも大きく、失血と、四人の魔力が心臓へ逆流したショックによって、彼の貧弱な魔力回路は完全に崩壊しかけている。鼓動はドクン……ドクン……と、今にも停止しそうなほどに遅く、不規則だった。


 そして何よりも、生死を共有する『生死の境界線(ソウルリンク)』を通じて、カイルの死の深淵が、イグニスの心臓をも直接締め付けていた。彼女の視界が暗転しかけ、その絶対的な命が脅かされるたび、イグニスはカイルを抱きしめる腕に力を込めた。


 背中から生やした真紅の翼が、嘆き谷の猛吹雪を強引に切り裂く。目指すは、大陸の東方にそびえるドラゴニアの火山地帯――彼女が生まれ、孵化したとされる絶対の聖地にして竜族の禁足地、『炎竜の産床(ドラゴン・ネスト)』だった。


 どれほどの時間が流れただろうか。極寒の吹雪の音が、いつしかゴオゴオと地底から湧き上がる不気味な地鳴りと、硫黄の混ざった熱風の音へと変わっていた。


「着いたぞ、カイル……! おい、目を開け! 私の声を聴け!」


 どさりと、硬くも温かい結晶のベッドに横たえられる衝撃で、カイルは微かに意識を浮上させた。だが、視界は真っ白に霞み、右目は嘆き谷での魔力酷使による毛細血管の破裂で完全に塞がっている。辛うじて開いた左目のレンズの向こうに映ったのは、赤熱する溶岩が周囲を流れる、巨大な洞窟の光景だった。


 壁一面に群生する、真紅に輝く竜火結晶。そこから放たれる熱量は、常人であれば一瞬で灰に変わるほどの灼熱地獄だ。しかし、カイルの胸元で輝く『竜帝の逆鱗印』のブローチが、イグニスの魔力と共鳴して不可視の障壁を展開し、彼の皮膚が直接焼き焦がされるのを防いでいた。


「冷たい……。なぜこれほどの熱の中にいて、お前の身体は凍りついているのだ!?」


 イグニスはカイルの額に手を当て、その氷点下まで低下した体温に息を呑んだ。カイルの体内には、嘆き谷で浴びた古代氷結魔術の冷気と、自傷による失血の寒気が根深く居座っている。


「くっ、竜族の秘薬を……。いや、だめだ! あれは人間の脆弱な肉体にとっては猛毒すぎる……!」


 イグニスは懐から取り出しかけた薬瓶を、焦燥のあまり床に投げ捨てた。結晶に当たって砕けた薬液が、一瞬で蒸発して赤い煙となる。力による支配しか知らなかった女帝は、今、目の前の「壊れやすい人間」をどう扱えばいいのか分からず、完全に狼狽していた。


「どうすればいい……。お前が死ねば、私も……。いや、お前を失うなど、私は絶対に認めん!」


 イグニスは意を決したように、自身の身体を包む重厚な真紅の竜鱗甲冑を、魔力で霧散させて解除した。薄いインナーだけになった彼女の豊満な肢体から、竜族特有の、太陽そのもののような凄まじい体温が放たれる。


 彼女は結晶のベッドに這い上がり、カイルの血塗れで冷え切った身体を、正面から直接抱きしめた。


「熱っ……!?」


 カイルの脳裏に、強烈な熱の衝撃が走る。イグニスの肌が直接触れた部分から、沸騰するような熱量が流れ込んできたのだ。その熱はあまりにも暴力的で、カイルの弱り切った内臓を内側から焼き尽くそうとする。


(だめだ……このままじゃ、彼女の熱に焼き殺される……!)


 本能的な死の危険を察知し、カイルは無意識のうちに、自身が編み出した『痛覚分散呼吸法』を開始した。


 深く、深く、肺の痛みを堪えながら息を吸い込む。三秒間、その熱を体内で保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す。心拍数を極限まで下げ、脳が急激な温度変化によるショック死を起こすのを防ぐ。


「……ほう?」


 イグニスは、カイルの胸元の血印が、自身の『竜火の加護』を受け入れ、その熱を体内の冷気と相殺させながら、綺麗に全身の経絡へと循環させ始めたことに気づいた。


「羽虫の分際で、私の熱を飼い慣らすか。……だが、それでいい。そのまま私の熱を吸い尽くし、生き長らえよ」


 イグニスはさらに腕を回し、カイルの身体を自分に密着させた。彼女の豊かな胸の鼓動が、カイルの背中にダイレクトに伝わる。彼女の首筋から漂う、甘い灰と硫黄の香りが、カイルの鼻腔を満たしていった。


 イグニスは空いた手で、カイルの胸元の痛々しい刺傷に触れた。そこへ、自身の抜け落ちた鱗を細かく砕いた『竜鱗の粉末』を優しく擦り込んでいく。竜族の絶対的な生命力を宿した粉末が、カイルの傷口を瞬時に凝固させ、出血を完全に止めていく。


「これほど脆い生き物が、なぜあのような真似をした……。私を脅迫し、世界を敵に回してまで、あの戦いを止めるなど……狂っているのはお前の方だ、カイル」


 彼女の囁きは、いつしかいつもの傲慢さを失い、ひどく熱を帯びた、優しいものへと変わっていた。カイルの右目の出血を、彼女は自身の髪を浸した温水で丁寧に拭い、自身の衣服を裂いて作った包帯を優しく巻き付けた。


 極限の灼熱に満ちた『炎竜の産床』の中で、二人の呼吸は次第に重なり合い、一つになっていく。カイルの凍りついていた血液が、イグニスの体温によって完全に解きほぐされ、安全な温度へと収束していった。


 やがて、カイルの心臓が、静かに、しかし力強くドクン……ドクン……と、一定のリズムを取り戻した。


     * * *


 カイルが次に意識を取り戻した時、洞窟内の暴力的な熱波は、心地よい微熱へと和らいでいた。イグニスが彼の肉体に合わせて、周囲の結晶のマナをコントロールしたのだろう。


 彼はゆっくりと左目を開けた。右目は清潔な布で保護されており、痛みはほとんど引いている。


「……う、ん……」


 身体を動かそうとしたカイルは、自身の胸元に、奇妙な「重み」と「温もり」があることに気づいた。


 視線を落とすと、そこには、カイルの胸元にぴったりと寄り添い、すやすやと穏やかな寝息を立てているイグニスの姿があった。


「え……?」


 カイルは息を呑んだ。


 普段は誰も近づけず、人間を「羽虫」と見下していたあの傲慢な竜帝が、重甲冑を脱ぎ捨てた無防備な姿で、カイルの身体を抱きしめたまま眠っているのだ。彼女の頬は、カイルの体温と自身の気恥ずかしさからか、未だに林檎のように真っ赤に染まっている。その小さな竜の角が、カイルの呼吸に合わせて、優しく朱色の光を放っていた。


 その顔は、戦場の支配者ではなく、ただ「大切な存在」を失わずに済んだことに安堵した、一人の少女のそれだった。彼女の手は、カイルの血に汚れた書記官ローブの裾を、今でも絶対に離さないとばかりに、ぎゅっと強く握りしめている。


「イグニス……君が、僕を……」


 カイルの胸の奥に、かつてない甘い温もりが広がった。彼女の過保護な看病が、自身の命を救ってくれたのだ。ソウルリンクを通じた彼女の精神的同調は極限に達しており、彼の瞳の奥で、『逆鱗の威圧(イグニス共鳴)』の魔力が、完全に暴走を止めて安定していくのを感じた。


 だが、その甘い安堵の瞬間――カイルの胸元の血印が、突如としてビクリと跳ねるように脈打った。


「……っ!?」


 ソウルリンクの接続パスが、異常なまでの熱量を帯びて活性化している。イグニスの肌の温もり、彼女の心臓の鼓動、そしてカイルの胸を支配する「甘く、気恥ずかしい快感」が――生死の境界線を通じて、大陸の四方にいる他の三人のヒロインたちの脳内へと、リアルタイムでダイレクトに送信されていく。


 カイルの脳内に、遠く離れた神聖都、魔界、そして精霊の森から、一斉に冷たく、そして凄まじい「怒り」と「嫉妬」の精神波が、津波となって逆流し始めた。

HẾT CHƯƠNG

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