命を賭した三極中立(トライアングル・ゼロ)
白濁した蒸気が、凍てつく嘆き谷を完全に埋め尽くしていた。
竜帝イグニスの全身から放たれる真紅の魔力は、地響きを立てて周囲の氷床を猛烈な勢いで溶かしていく。極限の冷気と超高熱の衝突が、視界を遮る濃密な霧を生み出していた。
「……くっ、あ、頭が割れそうだ……だが、彼女の炎を今、止めなければ……!」
カイル・レオンハルトは、ぬかるむ溶けかけの氷の上に片膝を突き、激しく喘いだ。
極限の演算の代償として、彼の右目の端からは、未だに一本の赤い血の涙が頬を伝って流れ落ちている。引き裂かれるような頭痛が脳を万力のように締め付け、視界は半分赤く染まっていた。
だが、休む暇など一瞬もなかった。
左目の『解析のモノクル』の微かにひび割れたレンズ越しに見えるのは、最悪の光景だ。溶け出した氷床のさらに数メートル地下で、漆黒の『虚無の泥』の波形が、まるで獲物を待つ蛇のように不気味な脈動を強めている。
このままイグニスの炎が谷を焼き尽くせば、氷床は完全に崩壊し、地下の黒泥が一気に噴出する。そうなれば、この場にいる全員が精神を汚染され、カイルの死を通じて、繋がった四人のヒロインも全滅するのだ。
「穢れた魔族どもめ! 我が光の前に塵と消えよ!」
東門を塞ぐ異端審問官バルタザール・フォン・ドミニクスが、再び聖槌を掲げ、必死の『断罪の光鎖』を再構築しつつある。その瞳には、カイルを異端として抹殺せんとする狂信的な光が宿っていた。
「ハッ、人間どもを皆殺しにせよ! この谷を我らの血で染めてくれる!」
西門から迫る魔王軍急進派の突撃隊長バザン・アイアンホーンが、巨大な『突撃の鉄甲』をはめた腕を振り上げ、狂暴な魔獣たちを扇動して突撃の構えを取る。
言葉による説得など、この狂乱の戦場では何の意味も持たなかった。圧倒的な武力を持つ強者たちを前に、魔力ゼロの書記官にできることなど、本来なら何一つないはずだった。
しかし、カイルの瞳には、冷徹なまでの光が宿っていた。
「……止められないなら、ルールそのものを書き換えるまでだ」
カイルは震える右手で、懐から一本の短剣を抜き放った。
それは、魔皇ヴェロニカから「自分を脅かす不届き者を刺せ」と渡された、漆黒の刃を持つ『魔皇の黒炎短剣』だった。短剣の柄を握り締めた瞬間、彼の魔力に反応して、音もなく揺らめく漆黒の炎が刃から立ち上る。
「全員、動きを止めろ。――さもなければ、今ここで僕が自分の心臓を貫く」
カイルは短剣の先端を、自身の胸元――四色の血印が不気味に明滅する、その心臓の真上へと突き立てた。
そして、躊躇なく、ぐ、と刃を押し込んだ。
薄い皮膚が裂け、鮮血がじわりと溢れ出て、カイルの地味な書記官ローブを赤く染めていく。
「ガ、ハッ……!?」
次の瞬間、目の前にいたイグニスが、突如として胸を押さえて激しく咳き込み、その場に膝を突いた。彼女の金色の瞳が驚愕に見開かれ、全身の真紅の魔力が一瞬にして霧散していく。
それだけではない。ソウルリンクの「生死の境界線」を通じて、カイルの胸に走った鋭い刃の痛みが、遠隔地にいる神聖教会の聖女セレスティア、魔界のヴェロニカ、そして亜人連合のシルフの心臓へと、ダイレクトに強烈な「激痛」として還流したのだ。
「お、お前……正気か……!? 何をして……!」
イグニスが、胸をかきむしりながら喘ぐように叫ぶ。彼女の額からは冷や汗が流れ落ち、その傲慢な顔が、生まれて初めて味わう「死の恐怖」によって青ざめていた。
「『等価生命論』のルールは、すでに証明したはずだ」
カイルは胸元から血を流しながら、しかし驚くほど冷静な声で、戦場全体に響き渡るように絶叫した。
「僕が死ねば、君たち四人もここで死ぬ! このまま両軍が激突し、足元の虚無の泥が噴出すれば、僕は一瞬で消し飛ぶ。それは、君たちの全滅を意味するんだ! 僕の命を人質に、この戦いを強制的に停止させる!」
その狂気的なまでの「調停者としての覚悟」に、戦場を支配していた強者たちが息を呑んだ。
「ハッタリを……! そのような不浄の呪い、我が光で焼き尽くしてくれる!」
バルタザールはカイルの行動をハッタリだと断じ、強行突破を狙って聖槌を振り下ろそうとした。だが、その瞬間、彼の背後から放たれるはずだった神聖な光の術式が、不自然に掻き消された。
「なっ……馬鹿な!? 術式が……不発だと!?」
驚愕するバルタザールの耳に、大聖堂にいるはずの聖女セレスティアの、苦悶に満ちた、しかし絶対的な冷徹さを孕んだ念話が直接響いた。
『……バルタザール。その男を傷つけることは……神への反逆です。私が、あなたの魔力供給を物理的に遮断しました。今すぐ……兵を退きなさい』
セレスティアは、カイルの痛みを共有したことで、教会の命令よりもカイルの生存を無意識に最優先し、自身の権能を用いてバルタザールの術式を遠隔から強制遮断したのだ。
「聖女様が……異端を庇うだと……!?」
バルタザールが絶望的な衝撃に凍りつく中、今度は西門からバザン・アイアンホーンが「知るか!」と咆哮を上げて突撃してきた。
「人間一人の命など、我が鉄甲で踏み潰してくれるわ!」
バザンがカイルに向けてその巨体を突進させる。レオンが前に出ようとしたが、その前に、カイルの隣にいたイグニスが立ち上がった。
「――我が羽虫に、触れるなと……言っているのだ、雑種が」
カイルの痛みを共有し、彼が自傷したことへの強烈なパニックと怒りに支配されたイグニスが、その金色の瞳をバザンへと向けた。
カイルの身体を中継点にして、イグニスの圧倒的な魔力が放射される。――『逆鱗の威圧(イグニス共鳴)』。
カイルの背後に、天をも焦がす巨大な真紅の火竜の幻影が一瞬だけ揺らめき立った。その神格級の圧倒的なプレッシャーが、バザンの脳を直接叩き潰す。
「ギ、ギャァァァッ!?」
バザンは咆哮を上げる間もなく、本能的な恐怖によって白目を剥き、一歩も進めぬまま地面に崩れ落ちて失神した。
圧倒的な静寂が、嘆き谷を支配した。
イグニスの炎、バザンの魔獣、バルタザールの光。そのすべてが、カイルという『一つの生命のハブ』の自傷行為によって、完全に武装解除されたのだ。三方向の絶対的な静止状態――「三極中立(トライアングル・ゼロ)」の成立だった。
バルタザールは聖女の意思の介入に戦慄し、魔王軍は突撃隊長を失って混乱に陥る。イグニスの放つ圧倒的な熱波が、これ以上の戦闘は「死」を意味すると両軍の兵士たちに本能的に理解させ、彼らは失意と恐怖のまま、撤退を開始せざるを得なくなった。
カイルは、両軍が引いていくのを見届け、ゆっくりと短剣の柄から手を離した。
「……交渉、成立だ……」
だが、カイルの肉体はすでに限界を超えていた。自ら負った胸元の刺傷と、四人の魔力が逆流したことによる強烈な心不全。カイルの心臓の鼓動が、ドクン……ドクン……と、急激に不規則に遅くなっていく。
「羽虫……!? おい、しっかりしろ! 目を開け!」
カイルの鼓動の低下に連動して、イグニスの視界も急速に暗転し始める。彼女は生まれて初めて、自身の命が消えかける恐怖と、何よりも「この男を失いたくない」という狂おしいほどのパニックに襲われた。
「死ぬな! 私の許可なく、死ぬことなど絶対に許さぬ!」
イグニスはなりふり構わず、瀕死のカイルをその逞しい両腕で抱きかかえた。そして、背中から真紅の翼を広げ、嘆き谷の吹雪を切り裂いて、自身の聖地である『炎竜の産床』へと、猛烈な速度で飛び去っていった。
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