亜人連合の風と、静かなる誓い
「――見つけたぞ、人間の羽虫め」
温室の温かな空気が、一瞬にして凍りつくような殺気へと変貌した。
カイルが振り返るよりも早く、頭上の闇から巨大な影が舞い降りた。月光を浴びてぎらりと光る鋭い牙、そして狼の耳と尾。そこに現れたのは、亜人連合の過激派戦士長であり、盟主シルフの義理の兄であるガウル・ウルフだった。
「ガウル……っ!?」
カイルの肩の上で、風の最上位精霊シルフィード――風ちゃんが悲鳴のような羽音を立てる。
「カイル、危ないっ! この人、ものすごく怒ってる!」
「下がってろ、カイル!」
守衛のレオンが叫び、大剣を構えて割り込もうとした。しかし、ガウルの動きは野生の獣そのもの、いや、それを遥かに凌駕する神速だった。ガウルは全身の筋肉を膨張させ、獣人族固有の秘技『獣化・神速』を発動していた。空気を切り裂く突進の前に、達人級の剣士であるレオンの反応すらコンマ数秒遅れる。
「人間の分際で、シルフに不浄の呪いをかけた罪、その命で償え!」
ガウルが咆哮し、大斧を振り下ろす。レオンが大剣でそれを受け止めたが、凄まじい物理質量と衝撃波に押され、レオンの強靭な肉体が後方へと弾き飛ばされた。温室のガラスが何枚も砕け散り、鋭い破片が降り注ぐ。
防衛線を突破したガウルは、そのままカイルの胸元へと突進した。鋭い爪が、カイルの細い首筋に向けて突き立てられる。
「がはっ……!」
カイルは床に押し倒され、首元を冷たい爪で強固に固定された。喉を圧迫され、酸素が遮断される。肋骨の折れた胸が悲鳴を上げ、視界が急速にチカチカと明滅し始めた。
(くそ、速すぎる……。物理的な戦闘力じゃ、一瞬で首を刎ねられる……!)
カイルは死の深淵に引きずり込まれそうになりながらも、必死に『痛覚分散呼吸法』を起動しようとした。心拍数を下げ、脳のショック死を防ぐ。しかし、首を絞められている状態では、呼吸を制御することすら極めて困難だった。
その時、カイルの胸元に刻まれた四つの血印のうち、深緑色の紋様が、まるで脈打つように激しく輝き出した。
「う……、あ、がっ……!?」
突如として、ガウルの動きがピタリと止まった。いや、止まったのではない。ガウル自身が、喉をかきむしるようにして激しく咳き込み、顔を苦痛に歪めたのだ。
「な、なんだこれは……!? 息が……できない……!」
ガウルが苦悶の声を上げる。それと同時に、カイルの脳内に、遥か遠方の風の里にいるシルフの精神波が流れ込んできた。彼女は今、カイルと全く同じ『窒息の苦しみ』と、首元を締め付けられる激痛を共有し、悲痛な悲鳴を上げていたのだ。
「キュウ……ッ! やめて! シルフが苦しんでる! このままだと、シルフも死んじゃうよ!」
風ちゃんがガウルの耳元で涙ながらに訴えかける。その声に、ガウルは目を見開いた。
「シ、シルフが……? バカな、私はシルフを救うために、この呪術師を……!」
ガウルの爪の力が僅かに緩んだ。その一瞬の隙を、カイルは見逃さなかった。彼は震える左手を伸ばし、首元に下げていた翡翠色の小さな笛――『風盟主の魔笛』を口元へと運び、ありったけの呼気を吹き込んだ。
ピィィィ――!
澄んだ笛の音が温室内に響き渡る。次の瞬間、カイルの周囲の空気が激しくうねり、純粋な風の結界――『微風の衣』が展開された。風の防壁はガウルの巨体を物理的に数センチ押し戻し、カイルの首元からその爪を完全に引き剥がした。
「はぁっ、ごほっ……! はぁ、はぁ……!」
カイルは激しく咳き込みながら、床に手をついた。首元からは赤い血が滲み、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。しかし、彼は眼鏡の位置を直し、モノクルの奥の瞳で、激しく動揺するガウルを真っ直ぐに見据えた。
「……言ったはずだ、ガウル。僕を殺せば、シルフも死ぬ、とね」
カイルの声は静かだったが、そこには絶対の論理が宿っていた。これこそが、彼の唯一の武器である『等価生命論』だった。
「戯言を! 人間がかけた呪いなら、その術者を殺せば解けるのが道理だ!」
「道理が通じないから、これは『生死の境界線(ソウルリンク)』と呼ばれているんだ。僕の心臓が止まれば、シルフの心臓も同時に止まる。今、君が僕の首を絞めたとき、シルフが同じ苦しみを味わっていたのが、何よりの証拠だろう?」
ガウルは自身の大きな手を凝視し、戦慄に身を震わせた。獣人としての鋭い直感が、カイルの言葉に嘘偽りがないことを告げていた。もし先ほど、勢いに任せてカイルの首をへし折っていれば、最愛の義妹であるシルフの命も同時に奪っていたのだ。
「くそ……、卑劣な人間め! このような不浄な契約でシルフを縛り、人質にするとは!」
「人質にしているわけじゃない。僕だって、こんな胃が痛くなるような契約は今すぐ解除したい。だが、解除の方法を見つけるまでは、僕の生存こそが、シルフの生存を保証する唯一の盾なんだ。君がシルフを本当に大切に思うなら……僕を殺すのではなく、僕を守るべきだと思わないか?」
カイルの冷徹な交渉論理に、ガウルは歯噛みした。圧倒的な武力を持ちながら、目の前の非戦闘員である人間に指一本触れることができない。その屈辱と葛藤が、ガウルの表情を複雑に歪めていく。
「……信じられるか。人間など、我ら亜人を奴隷として扱ってきた仇敵だぞ」
「僕は宮廷を追放されたただの書記官だ。種族の戦争にも、権力闘争にも興味はない。僕の望みは、この書庫で静かに本を読み、生き延びることだけだ。そのためには、シルフを、そして他の彼女たちを戦わせるわけにはいかないんだ」
カイルが静かに語りかけると、風ちゃんがガウルの肩に乗り、彼の頬に小さな手を当てた。
「ガウル、カイルは悪い人じゃないよ。シルフの痛みを、いつも半分引き受けてくれてるの。風ちゃん、知ってるもん」
「風の最上位精霊までが、この人間に懐いているというのか……」
ガウルは深くため息をつき、大斧をゆっくりと背中に収めた。張り詰めていた殺気が、潮が引くように消えていく。レオンもまた、警戒を解かずに大剣を構えたまま、カイルの傍らへと歩み寄った。
「……フン、お前の命がシルフと繋がっていることは理解した。だが、亜人連合の過激派がお前を狙っている事実は変わらん。彼らは人間との全面戦争を望んでいる」
「過激派を動かしているのは、長老ガームだな。だが、なぜ彼らは僕の正確な位置を知り得たんだ? この書庫の結界は、そう簡単に破れるものではないはずだ」
カイルがモノクルを覗き込み、ガウルの感情のオーラをスキャンする。ガウルの胸元には、激しい怒りと共に、微かな「戸惑い」のノイズが混ざっていた。
「……これを見ろ」
ガウルは忌々しげに吐き捨て、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、カイルに向けて放り投げた。カイルがそれを受け取り、モノクルでスキャンすると、羊皮紙の表面に刻まれた不気味な黒い魔力の紋章が浮かび上がった。
「これは……魔王軍急進派の将軍、ゴルゴスの血印……!?」
カイルの瞳が驚愕に見開かれた。羊皮紙に記されていたのは、魔王軍急進派と、亜人連合の過激派が秘密裏に結んだ『共同共闘の密約書』だった。その内容は、境界線の人間(カイル)を暗殺し、その罪を神聖教会の異端審問部に擦り付けることで、人間と各種族との全面戦争を強制的に誘発させるという、極めて邪悪な計画だった。
「ゴルゴスとガームが、裏で繋がっていたのか……。だからゴルゴス軍は、アジールへの進軍を開始したんだ。彼らの本当の狙いは、僕を殺して戦争の引き金にすること……!」
カイルの脳裏で、バラバラだったパズルのピースが一つに繋がっていく。しかし、それは同時に、これまでにない最悪のタイムリミットが迫っていることを意味していた。
「ガウル、この密約書が本物なら、ゴルゴス軍と教会の先兵が東の渓谷で激突するのは、彼らにとって予定通りの『シナリオ』だ。もしそこで戦火が爆発すれば、アジールは消滅し、僕たちの命も終わる」
カイルは胸の痛みを堪え、立ち上がった。彼の白銀の髪が、温室の光を浴びて静かに輝く。
「大激突を止めるために、僕は境界線へ行く。ガウル、君の力を貸してくれ。シルフの命を救うために」
ガウルはカイルの細い身体と、その奥にある揺るぎない覚悟の瞳を見つめ、静かに拳を握りしめた。
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