迫る魔王軍の暴挙と「安息の温室」
古代の魔導光が、温和な緑の葉を優しく照らしている。中立地帯の地下深く、遺跡の防衛結界に守られた「共鳴の書庫(レゾナンス・アーカイブ)」。その最奥に位置する「安息の温室」は、地上を吹き荒れる戦火の気配を忘れさせるほど、静謐で温かな空気に満ちていた。
「ガ、ガガ……ミリ、ミリ!」
体長三十センチほどの丸っこい土人形――使い魔のモグが、短い手足で一生懸命に乳鉢を抱え、カイルの足元で砂を踏みしめていた。目の部分に刻まれた青いルーンをパチパチと明滅させながら、カイルが調合台から落としたハーブの茎を拾い上げようと奮闘している。
「ありがとう、モグ。でも、それは毒性があるから、そっちの棚に戻しておいてくれ」
カイル・レオンハルトは、かすれた声で微笑みながら、左目の「解析のモノクル」を軽く指先で直した。その動作だけで、胸元に走る骨折の痛みがズキリと疼き、思わず息を詰める。前回のバルトとの死闘で負った肋骨の亀裂は、未だ完治には程遠い。
それ以上に深刻なのは、バルトが放った「毒風」を吸い込んだことによる肺の炎症と、魔力バイパスを強制稼働させたことによる神経の摩耗だった。カイルの黒髪は、その極限の演算の代償として、すでに三分の一ほどが完全な白銀色に染まり、右手の甲には青く焦げ付いたルーンの焼き印が、消えない傷跡として刻まれている。
「カイル様、もうお座りになってください! 調合なら、私が手伝いますから……!」
書庫の司書補であるミリー・ポピンズが、大きなエプロンをきつく締め、おさげ髪を揺らしながら心配そうに駆け寄ってきた。彼女の手には、カイルの額の汗を拭うための温かい濡れタオルが握られている。
「いや、ミリー。この『共鳴の薬草(シンパシー・ハーブ)』の抽出だけは、僕自身の手でやらなければならないんだ。わずかな魔力配列のズレが、薬効を完全に台無しにしてしまうからね」
カイルは、ギルダの店から命がけで持ち帰ったガラス瓶を見つめた。中には、淡い緑色の微光を放つ三枚葉のハーブが収められている。カイルは母親エルザから教わった薬草の知識と、書庫から発掘した古代の薬学文献を融合させた『薬草抽出・調合法』を脳内で展開した。
指先を細かく震わせながら、高純度の魔素結晶の残滓をすり潰し、薬草の抽出液と混ぜ合わせる。相反するマナが反発し、薬液から紫色の煙が立ち上りかけた瞬間、カイルは深く息を吸い込み、三秒間保持し、十秒かけてゆっくりと吐き出す――『痛覚分散呼吸法』を起動した。
心拍数が極限まで低下し、脳の演算が絶対の静寂に包まれる。カイルはモノクルを通じて、薬液内のマナの「不整合(バグ)」を視覚化し、右手のルーン火傷から微小な制御コードを流し込んで、分子レベルで配列を整列させた。やがて、薬液は濁りのない、透き通ったエメラルドグリーンの丸薬へと凝固した。
「ふぅ……。これで、しばらくは肺の痛みも、神経の摩耗も抑えられるはずだ」
カイルが完成した丸薬を口に含み、水で流し込むと、冷たい清涼感が喉から肺、そして全身の神経へと急速に染み渡っていった。燃えるようだった内臓の熱が引き、頭霧が晴れるように脳の演算速度が限界まで引き上げられていく。白銀の髪が、かすかに光を帯びたように見えた。
しかし、その安堵の瞬間は、唐突に破られた。
「キュ、キュウ……ッ! カイル、あぶない! おっきい、黒いのが、くる……!」
カイルの肩に乗っていた、手のひらサイズの風の最上位精霊シルフィード――「風ちゃん」が、透き通った緑色の羽を激しく震わせ、カイルの耳元で悲痛な警告を囁いた。シルフがカイルの護衛として貼り付けたこの精霊は、周囲数キロメートルの風の振動を感知する超感覚レーダーだ。
「風ちゃん、何が見えたんだ?」
「おっきい足音! たくさん、いっぱいの爪と、鉄の音! アジールの外の森が、黒い魔力で真っ黒に染まってる……!」
カイルの表情から、一瞬で温和な色が消え失せた。彼は即座に「解析の魔眼」を起動し、モノクルのレンズを最大倍率で調整した。書庫の結界の隙間から漏れ出る外のマナの流れをスキャンする。
レンズの奥に、アジール近郊の地勢図が立体的な光の線として浮かび上がる。そこには、不気味な漆黒の魔力波形が、うねる大蛇のようにアジールへ向けて進軍している様子がはっきりと映し出されていた。その数、およそ三千。
「魔王軍急進派の将軍、ゴルゴス・ザ・デストロイヤー……。バルトの敗走を受けて、これほど早く本隊を動かしてくるなんて」
ミリーが顔を青ざめさせ、アジールの街から届いた極秘の避難民情報をカイルに手渡した。
「カイル様、アジールの西門から、たくさんの避難民が押し寄せています! ゴルゴス軍は街を蹂躙しながら、何かを探しているようで……。彼らの目的は、この『共鳴の書庫』、いえ、カイル様ご自身です!」
「僕を拉致して、ヴェロニカを脅迫するための人質にするつもりか……。正面衝突すれば、この書庫の結界も、アジールの街も一瞬で灰になる」
カイルの脳裏で、最悪のシナリオが高速で構築されていく。現在のタロス・ワンは関節部の損傷が激しく、出力は五十パーセント。レオンの武勇をもってしても、三千の魔獣軍団を正面から防ぎ切ることは物理的に不可能だ。
(戦力差がありすぎる。まともに戦ってはダメだ。敵の『索敵のバグ』を突き、この書庫の正確な位置を隠蔽しつつ、彼らの進路を逸らすしかない……!)
カイルは書庫の地下魔力炉に直結された制御盤へと走り、ハッキングコードの構築を開始した。だが、その焦燥がソウルリンクを通じて、遠く離れた四人のヒロインたちの心臓を強くノックする。胸元の四つの血印が、白、黒、赤、緑の光を放ち、激しく明滅し始めた。
「くっ……! 魔力供給が、足りない……っ」
カイルは書庫の隠蔽結界をさらに広域へ展開しようと試みたが、彼自身の魔力はゼロ。血印から四人の余剰魔力を強引に引き出そうとした瞬間、カイルの胸に焼け付くような激痛が走り、口から鮮血が吹き出した。
「カイル様!!」
ミリーが悲鳴を上げる。強制的な魔力還流は、カイルの貧弱な肉体を内側から破壊する諸刃の剣だ。カイルは血を拭い、自傷行為に近い brute-force(力任せの展開)を断念した。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。力ではなく、知恵を使え。
「風ちゃん、ゴルゴス軍の索敵魔獣が放っている探知波の周波数を教えてくれ」
「うん……! 細くて、じりじりする、闇の糸みたいな波!」
シルフィードが風の振動を再現し、カイルのモノクルにその波形を同期させた。カイルはモノクルを通じて、ゴルゴス軍の探知波が、書庫の周囲の空間をスキャンしているのを確認した。
(彼らは『書庫の古代マナ反応』を頼りに探している。ならば、その探知波をハッキングし、逆方向の幻影として反射してやればいい!)
カイルは、右手のルーン火傷に刻まれた制御線を起動キーに重ね、書庫の外周結界の屈折率を書き換える術式を展開した。敵の探知魔獣が放った索敵波が書庫の結界に接触した瞬間、カイルのハッキングコードがその波形を百八十度反転させ、アジール東側の険しい渓谷へと偽の「古代マナ反応」を投影した。
地上の森で、ゴルゴス軍の索敵魔獣たちが一斉に東の渓谷を向いて咆哮を上げる。漆黒の大軍勢が、カイルの仕掛けたデコイ(囮)に引きずられるようにして、進路を東へと変えていくのがモノクルの地図上に映し出された。
「よし……! 書庫の位置は隠蔽できた。これで、奴らの目は逸らせたはずだ」
レオンが安堵の息を吐き、大剣を肩に担ぎ直した。だが、カイルのモノクルが示す未来の因果線は、未だ不気味な赤色に染まったままだった。カイルは唇を噛み締め、地図の先を凝視する。
「……いや、まだ終わっていない。ゴルゴス軍が向かった東の進路の先には、神聖教会の守備隊が陣を構えている」
「なんだって!? じゃあ、ハエ野郎の軍勢と、教会の狂信者どもが鉢合わせするってことか?」
「そうだ。もしあの渓谷で、魔王軍と教会の本隊が正面衝突すれば、その余波による大爆発と、リンクしたセレスティアやヴェロニカが受ける激痛が、ソウルリンクを通じて僕の心臓に一気に流れ込んでくる。そうなれば……僕は一瞬でショック死し、繋がった彼女たちも全員死ぬことになる」
アジールの街から避難民が悲鳴を上げて押し寄せる中、膠着した戦火の気配が、確実にカイルの首元を絞めつつあった。この大激突を、境界線で絶対に止めなければならない。新たな胃痛が、カイルの腹を締め付ける。
その時だった。
安息の温室の天井、バルトの急襲によって生じた僅かな隙間から、冷たい風が吹き込んだ。その風に乗って、書庫の絶対の結界をすり抜けて、もう一つの「天敵」の影が、音もなくカイルの背後へと迫っていた。
「――見つけたぞ、人間の羽虫め」
温室の温かな空気が、一瞬にして凍りつくような殺気へと変貌した。カイルが振り返るよりも早く、巨大な影が、彼の細い首元を狙ってその凶暴な牙を剥いた。
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