聖なるベールと、クッキーの盾
「ただの街の仕立て屋にしては、随分と魔導糸の扱いに慣れているようだな」
冷酷な声が、作業場の重苦しい湿気の中に響き渡った。
聖教会ロンドヴァル支部の異端審問官、ベルナール・デュポンは、ユリオの右手を掴んだまま、その指先を至近距離で凝視している。捻挫した右手首が、彼の強引な握力によってギリギリと軋み、焼けるような激痛が走った。しかし、ユリオは顔の筋肉一つ動かさず、ただ困惑したような、気弱な仕立て屋の表情を維持し続けた。
「し、神父様……痛いです。その、私はただ、毎日針を握っているだけの職人でして。昨夜の嵐で壊れた正面扉を修理していた際、不器用にも手首を痛めてしまったのです。どうか、手を放していただけないでしょうか……」
ユリオの声はかすかに震えていた。だが、それは恐怖からではなく、右手首の激痛を必死に堪えているがゆえの生理的な震えだった。彼の左手の中指には、昨夜影国の女王セレナから授けられた『影国の夜光石リング』が嵌められている。それは今、作業着の長い袖口の奥に完全に隠されていた。もし、この狂信的な審問官に指輪の存在を気づかれれば、国家規模の異端容疑として、即座に処刑台へと送られることは明白だった。
「ほう、扉の修理か。だが、この指先に残る微細なタコ、そして爪の間にわずかにこびりついた、金属とも絹ともつかぬ不思議な糸の繊維……。これがただの木材を扱っただけのものとは思えんな」
ベルナールは冷たい薄笑いを浮かべ、掴んだ右手にさらに力を込めた。彼の瞳の奥に、獲物を追い詰めた獣のような濁った光が灯る。彼は確信していた。この若者が、教会が血眼になって捜索している「神衣の民」の生き残りであり、女王たちの呪いを衣服によって隠蔽している張本人であると。
「嘘か真か、この『光の経典』が暴き出してくれる。神の前で、いかなる欺瞞も無意味だ」
ベルナールが左手に持った重厚な聖書を掲げ、低く呪文を唱え始めた。その瞬間、彼の指先から、目に見えないほど細く冷たい「光の糸」――教会の高感度精神探知魔術が放出された。それはユリオの皮膚を透過し、彼の経絡を伝って、脳の記憶領域へと這い上がろうとする。冷たい針で脳を直接掻き回されるような、おぞましい感覚がユリオの精神を襲った。尋問魔術が脳の深部に達すれば、昨夜セレナと試着室で行った濃密な「心音同調縫合」の記憶も、エルゼの呪いを抑えた事実も、すべてが白日の下に晒されてしまう。
(くっ……! 脳が、引き裂かれそうだ……!)
ユリオの額に冷や汗がにじむ。だが、彼にはこの尋問を予期し、事前に施していた「裏地」があった。
――サァ、とユリオの着ている黒い作業用ベストの内側から、目に見えないほど微細な、しかし極めて清浄な温かい魔力が立ち上った。
ベストの裏地に極秘裏に縫い込まれていたのは、聖樹国シルフィアの女王――聖女フリーデが、かつて彼に極秘裏に贈った『聖樹の祈りベール』だった。教会の最高級の加護が宿る純白のベールを、ユリオは自身の「霊糸縫合術」を用いて、作業着の裏地にパッシブな防衛回路として完璧に編み込んでいたのだ。
ベルナールが放った冷酷な精神探知の光の糸が、ユリオの体内に侵入した瞬間、その裏地のベールが自動的に起動した。同じ教会の聖なる属性を持つ魔力同士が、ユリオの皮膚の下で静かに衝突し、探知の波形を完全に相殺していく。冷たい探知の刃は、ベールの温かい光に包まれて霧散し、ベルナールのもとには「右手首の激痛」と「素朴な仕立て屋としての無知」という偽りの精神波形だけが返された。
「お前は呪いを衣服にする悪魔の技――『霊糸縫合術』について、何か知っているか? あるいは、この工房に敵対する国の王族が出入りしているのではないか?」
ベルナールはユリオの目を覗き込み、魔力をさらに強めて問いかけた。
ユリオは「体温同調」の技術を逆応用し、自身の心拍数を極限まで一定に保ちながら、怯えた目を神父に向けた。
「レイシホウゴウ……? すみません、私のような若輩者には、そのような難解な魔術の言葉はわかりません。私はただ、破れた布を縫い合わせるだけの仕立て屋です。王族の方々がこのような寂れた路地裏の店に来るはずがありません……。神父様、本当に痛いです。どうか、放してください……!」
ベルナールの眉が不快そうにひそめられた。彼の精神探知魔術には、何の嘘の反応も返ってこない。ただ、捻挫による本物の激痛と、若者の純粋な恐怖だけが、聖書を通じて伝わってくるのだ。どれほど探知を深めても、ユリオの記憶の表面には「朝の冷たい霧」と「壊れた扉への愚痴」しか浮かび上がらない。完璧な偽装だった。
「……チッ。本当に、ただの不器用な職人なのか?」
ベルナールが苛立ちを隠せずに呟いた、その時だった。
「あ、あの……! お茶が入りました。昨夜、お師匠様と一緒に焼いたクッキーです。よろしければ、どうぞ……」
作業場の張り詰めた空気を切り裂くように、ミミが震える手で木製のトレイを差し出した。トレイの上には、温かい湯気を立てるハーブティーと、不格好ながらも香ばしく焼き上げられた、手作りのクッキーが並んでいた。
その香ばしい甘い香りが、一瞬にして作業場に漂う冷酷な魔力の気配を和らげた。
ベルナールの背後に控えていた若い審問官補佐、マルコ・ロッシは、昨夜からの過酷な監視任務と、中立都市特有の湿った冷気によって、心身ともに限界を迎えていた。教会の厳しい規律とベルナールの冷酷な尋問に、内心では強い恐怖と疑問を抱いていた彼は、ミミが差し出した温かいお茶と、その健気な笑顔を見つめ、思わず生唾を飲み込んだ。
「マルコ、任務中だぞ」
ベルナールが冷たく叱責したが、ユリオはすかさず笑顔を作って応じた。
「神父様、私の弟子がせっかく淹れたお茶です。ロンドヴァルの霧は身体を芯から冷やしますから、どうかお連れ様だけでも温まっていってください。当店は貧しいですが、お客様をもてなす心だけは、先代の師匠から叩き込まれておりますので」
「う、うむ……。では、お言葉に甘えて……」
マルコはベルナールの顔色を窺いながらも、我慢できずにクッキーを一枚手に取り、口へと運んだ。サクッ、と心地よい音が静かな作業場に響く。
その瞬間、マルコの丸眼鏡の奥の瞳が、驚きと感動で大きく見開かれた。
「美味しい……! 外はカリッとしているのに、中はしっとりとしていて、ほんのりとした蜂蜜の甘さが広がります。ハーブティーの爽やかな香りと完璧に調和している……! 冷え切った身体に、染み渡るようです……」
「ふふ、お口に合ってよかったです! お師匠様が、疲れた時には甘いものが一番だって、いつも教えてくれるんです」
ミミが嬉しそうに微笑むと、マルコの緊張は完全に氷解した。彼は書類を小脇に抱えたまま、夢中で二枚目のクッキーに手を伸ばし、ミミと楽しげに話し始めてしまった。
「君がこれを焼いたのかい? 素晴らしい技術だ。教会の宿舎の食事は硬いパンばかりで、こんなに温かみのあるお菓子は滅多に食べられないんだ」
「まあ、そんなに大変なんですか? じゃあ、もっとたくさん食べてください!」
マルコは完全にミミのおもてなしによって胃袋を掴まれ、監視任務のことなど頭から吹き飛んでいるようだった。彼は手元の魔力測定器をポケットにしまい込み、ベルナールに向かって言った。
「し、審問官。この店には不審な魔力反応は一切ありません。昨夜撒かれた『呪素吸着炭』のせいか、空気も極めて清浄です。ただの、腕の良い若い仕立て屋と、優しいお弟子さんの店に間違いありません」
実際、ユリオは昨夜、セレナが立ち去った直後、ミミに命じて工房の換気口や床の隙間に「呪素吸着炭」を徹底的に撒かせていた。空気中に漏れ出した微細な影の魔力粒子はすべて吸着されており、教会の測定器には何の反応も出ないのは当然だった。
「黙れ、マルコ! 腑抜けたことを言うな!」
ベルナールは激怒し、ユリオの右手を乱暴に放り投げた。ユリオは痛む右手首を左手で庇いながら、よろめいて裁断台に手をついた。心臓が激しく高鳴っていたが、表情はあくまで「理不尽な暴力に怯える市民」を演じきった。
ベルナールは苛立ちのまま聖書をきつく閉じ、ユリオを冷酷に睨みつけた。
「……今回は物証がない。だが、仕立て屋、よく覚えておくがいい。中立都市の生ぬるい結界が、いつまでお前たちのような異端を隠し通せると思うな」
ベルナールは仮設の扉へと歩み寄り、立ち止まって振り返った。その瞳には、底知れない執念の炎が燃えていた。
「近いうちに、聖教会と帝国の合同による、中立都市の全店舗への一斉監査が強行される。その時、少しでも不審な『魔導衣服』や『裏帳簿』が見つかれば、お前も、その小娘も、まとめて異端審問所の火あぶりの刑に処してくれる。……精々、今のうちにその針仕事を震えながら続けるがいい」
不穏な警告を捨て台詞のように残し、ベルナールは作業場から去っていった。マルコは、トレイに残ったクッキーを名残惜しそうに見つめながら、ユリオとミミに小さく会釈をして、慌てて神父の後を追いかけていった。
バタン、と仮設の扉が閉まり、真鍮のベルが小さく余韻を響かせた。
静寂が戻った作業場で、ユリオは一気に全身の力を抜き、裁断台の上に崩れ落ちるようにして座り込んだ。裏地の『聖樹の祈りベール』を維持するために魔力を急激に消費したため、全身に激しい倦怠感が襲い、視界がかすんでいる。
「お師匠様……!」
ミミが駆け寄り、ユリオの震える肩を支えた。彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
「怖かったです……あの神父様、本当にお師匠様を殺そうとしていました。私のクッキー、役に立ちましたか……?」
「ああ、本当に助かったよ、ミミ。お前のおかげで、あの若い神官の目を逸らすことができた。ありがとう……」
ユリオは痛む右手でミミの頭を優しく撫でた。右手首の包帯の下では、昨夜セレナの牙によって刻まれた微細な傷痕が、かすかに疼いていた。その傷から染み出た彼自身の血が、彼の胸にある「糸巻きの痣」と共鳴し、彼の体内で眠る「神衣の民」の血脈を、さらに深く活性化させているのを感じていた。
中立都市の結界が、教会の圧力によって揺らぎ始めている。一斉監査が始まれば、エルゼやセレナのカルテ、そして地下の白銀の魔導糸が発見されるのは時間の問題だ。一刻も早く、彼女たちの呪いを完全に抑え込む「抑制ドレス」を仕立て上げなければならない。
*
その夜、ロンドヴァルは昼間よりもさらに深い、乳白色の霧に包まれていた。一階の作業場のランプの灯りを極限まで落とし、ユリオは裁断台の上でエルゼの「灰化の抑制ドレス」の初期型紙を広げていた。右手首の痛みは、アトウッドから貰った湿布薬によって少し和らいでいたが、指先の慢性的な痺れは消えていない。
「一斉監査が来る前に、ドレスの基本構造を完成させなければ……」
ユリオが呟き、銀翼の仕立てハサミを握り直した、その瞬間だった。
チリン、と、夜の静寂を切り裂くように、正面の扉の真鍮のベルが、極めて優しく、清らかな音を立てて鳴り響いた。
ユリオはハサミを構え、警戒しながら扉を見つめた。昨夜のような不気味な影の魔力でも、昼間の冷酷な教会の威圧感でもない。仮設の扉の隙間から漏れ出してきたのは、見る者の心を洗うような、清浄で、どこか哀愁を帯びた「純白の光」だった。
ゆっくりと扉が開き、深いフードを被った、一人の小柄な人影が滑り込んでくる。その足元から、ロンドヴァルの冷たい湿気を一瞬にして温かい聖なる息吹へと変える、圧倒的な光の魔力が溢れ出した。
「――突然の訪問を、お許しください。仕立て屋様」
フードが外され、現れたのは、透き通るような白金色の髪と、奇跡のように美しい、しかし深い孤独を湛えた翡翠色の瞳を持つ少女。
聖樹国シルフィアの女王であり、教会の操り人形として幽閉されているはずの聖女、フリーデ・フォン・シルフィアその人であった。彼女の美しい白い首筋の奥から、不気味に脈打つ「神の声」の光り輝く呪糸が、ユリオの『呪詛視』の前に、悲しく露わになっていた。
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