影を編む指、光る審問の影
首筋に、冷たくも鋭い痛みが走った。
セレナの伸びた犬歯が、ユリオの皮膚をわずかに割いたのだ。そこから滲み出た一滴の血が、彼女の熱い唇に触れる。その瞬間、試着室を満たす影の魔力が、狂おしいほどの歓喜に震えるように波打った。彼女の豊かな肉体がユリオをベルバットの壁に押し付け、その甘く退廃的な香りが、ユリオの脳を麻痺させようと立ち上る。
だが、ユリオの意識は、氷のように冷徹だった。
(ここで僕が理性を失えば、彼女の呪いは暴走し、魂ごと崩壊する……!)
きつく巻かれた包帯の下で、前夜の捻挫を負った右手首がズキズキと激しく疼く。その痛みが、逆にユリオの感覚を極限まで研ぎ澄ませていた。指先の感覚が異常なほど過敏になっている。だからこそ、触れる彼女の肌の微細な震えも、その奥を流れる魔力の歪みも、すべてが手に取るように分かった。
「呪詛視(カース・アイ)」――。
ユリオの瞳が淡い銀色の輝きを放ち、至近距離にあるセレナの白い胸元を透かす。心臓の真上、女性としての最も秘められた柔らかな肌の奥に、のたうち回る黒い蛇のような『影の刻印』が脈打っていた。それは、彼女の体温を沸騰させ、理性を奪う呪いの元凶――教会の洗礼によって埋め込まれた『枷』そのものだった。
「セレナ様……僕を見てください」
ユリオは掠れた声で囁き、左手を彼女の熱く火照った鎖骨へと滑らせた。氷結晶の微粉末によって凍えるほど冷たくなった彼の指先が、彼女の皮膚に触れる。ジュウ、と微かな魔力蒸気が立ち上り、セレナの身体がびくりと震えた。
「痛覚縫合(ペイン・ステッチ)を施します。少し、息が苦しくなりますが……僕を信じてください」
ユリオは、激痛に悲鳴を上げる右手で、裁断台から手繰り寄せた極細の魔導針を構えた。その針には、深淵の鉱石から引き出された「白銀の魔導糸」が通されている。さらに、彼はもう一方の手で、セレナの命令によって極秘裏に用意されていた「宵闇石」のボタンを彼女のドレスの襟元に当てがった。
「あ、は……っ、ユリオ……それ、は……」
冷気と痛みの緩和に、セレナの赤い瞳にわずかな光が戻る。だが、その身体は未だに吸血の渇きに震えていた。ユリオは彼女の豊かな胸元を支えるようにして、その心臓の真上に、躊躇うことなく右手の指先を直接触れさせた。
「感情の調律(マナ・チューニング)」――。
ユリオは自身の心拍数を極限まで下げ、穏やかで澄み切った魔力の波形を、指先を通じて彼女の体内へと送り込んだ。怒りや恐怖を優しく包み込むようなその波形が、セレナの荒れ狂う影の魔力をなだめていく。彼女の激しい呼吸が、次第にユリオの静かな呼吸と同調し始めた。ドクン、ドクンと、二人の心臓が試着室の静寂の中で同じリズムを刻み出す。
(今だ……!)
ユリオは、彼女の心拍の最も深い谷間に合わせて、白銀の魔導糸を通した針を刺し入れた。肉体ではなく、彼女の肌の表面を流れる魔力の経絡――そこへ、一針、一針、寸分の狂いもなく銀の糸を滑らせていく。
「心音同調縫合(シンクロ・ステッチ)」――。
試着室全体が、淡い桃色と深みのあるインディゴブルーの魔力光に包まれた。ユリオの指先が、セレナの柔らかな肌をなぞるたび、彼女の心臓に巣食う黒い影の呪糸が、吸い上げられるようにして「宵闇石」のボタンへと流れ込んでいく。青黒い結晶が、彼女の呪いを吸い取って禍々しく、しかし美しく輝き始めた。
「ふ、あ……、ぁ……っ」
セレナの口から、苦痛ではなく、深い安らぎに満ちた熱い溜息が漏れた。彼女の瞳から獰猛な赤が消え去り、神秘的な紫色の輝きが戻っていく。伸びていた牙が静かに退縮し、ユリオの首筋を割いていた傷口から、彼女の唇がゆっくりと離れた。
最後の一針をボタンの裏で結び、ユリオは銀翼の仕立てハサミで糸を切り取った。その瞬間、試着室を覆っていたドロドロとした影の霧が、嘘のように霧散した。
「終わりましたよ、セレナ様」
ユリオが息を整えながら告げると、セレナは力なく彼の胸元へと崩れ落ちた。その顔には、いつもの妖艶な笑みではなく、涙に濡れた一人の少女の素顔があった。
「……信じられない。私の、この醜い渇きを……あなたは、恐れもせず、その手で包み込んでくれたのね……」
彼女はユリオの胸に顔を埋め、愛おしそうにその身体を抱きしめた。ユリオの右手首の痛みを気遣うように、彼女の細い指先が、彼の包帯に優しく触れる。
「ユリオ。あなたに、影国の誓いを捧げるわ」
セレナはユリオの左手を引き寄せると、その中指に、闇の中で青く光る美しい指輪――『影国の夜光石リング』を滑り込ませた。
「これは私のお気に入りの証。影国の隠密は、これを持つあなたの命令に絶対服従する。……そして、あなたを傷つける者は、私が地の果てまで追い詰めて影に沈めるわ」
その瞳に宿る、深く、そしてどこか狂気を孕んだ独占欲の熱に、ユリオは息を呑んだ。セレナは満足そうに微笑むと、衣服を整え、扉の外で待機していたヴェールの導きのもと、夜霧の嵐の中へと静かに消えていった。
一人残されたユリオは、試着室の床に座り込み、激しい疲労感に襲われていた。右手の痺れはさらに悪化し、頭が割れるように痛む。だが、彼は左手の指輪を見つめ、静かに決意を新たにした。
(あの影の刻印……前夜の暗殺者の毒ダガーと同じ、教会の神聖魔術の残滓が混ざっていた。やはり、彼女たちの呪いは、すべてあの教会が仕組んだものなんだ……)
*
翌朝、昨夜の嵐が嘘のように雨は上がっていたが、中立都市ロンドヴァルは、重く冷たい湿った霧に包まれていた。一階の作業場では、ミミが心配そうにユリオの手首に新しい包帯を巻き直していた。
「お師匠様、本当に大丈夫なんですか? なんだか、顔色もすごく悪いですし……」
「大丈夫だよ、ミミ。少し寝不足なだけさ。正面の扉も、カイたちが仮の板を補強してくれたから、今日の営業には差し支えない」
ユリオがそう言って微笑んだ瞬間、仮設の扉に取り付けられた真鍮のベルが、不気味に低い音を立てて鳴り響いた。
冷たい風とともに、霧が作業場へと流れ込んでくる。入ってきたのは、黒い司祭服を纏った白髪の老神父だった。胸元には、赤い十字架の刺繍が鮮やかに施されている。その背後には、丸眼鏡をかけた気弱そうな若い見習い神官、マルコ・ロッシが、書類を抱えて怯えたように控えていた。
「――ここが、街で噂の若き仕立て屋の工房か」
低く、地を這うような声。神父の冷酷な眼差しが、半壊した作業場、そしてユリオの包帯が巻かれた右手へと向けられた。その人物の名は、聖教会ロンドヴァル支部の異端審問官、ベルナール・デュポン。
ミミが本能的な恐怖からユリオの背後に隠れ、ユリオは静かに彼を迎え入れた。
「いらっしゃいませ、神父様。あいにく、昨夜の嵐で店が少し荒れておりまして……お仕立てのご注文でしょうか?」
「いや、仕立てではない。中立都市に紛れ込んだ『異端の残党』について、少々調査を行っていてな」
ベルナールは手に持った重厚な聖書をパラパラとめくりながら、作業場の中をゆっくりと歩き回った。その鋭い視線は、裁断台の上のハサミや、棚に並ぶ魔導糸、そして試着室の重厚な扉へと注がれる。
「神衣の民(ファブリック・クラン)……。かつて、神の法を犯し、呪いを衣服に編み込むという悪魔の技術を操った大罪人たちだ。教会は彼らを完全に根絶したはずなのだが、最近、この街の路地裏から、奇妙な『魔力の調和』が感知されてな」
ベルナールはユリオの目の前で立ち止まり、その冷たい、濁った瞳でユリオを凝視した。ユリオは心拍数を一定に保ちながら、素朴な街の仕立て屋としての無知を完璧に演じ続けた。
「神衣の民……ですか? すみません、僕のようなしがない仕立て屋には、そのような高貴な歴史のお話は分かりかねます。僕はただ、お預かりした生地を型紙通りに縫うだけですから」
「ふむ……ただの仕立て屋、か」
ベルナールは不敵な笑みを浮かべると、突如、ユリオの包帯が巻かれた右手を掴み上げた。その強引な力に、右手首の捻挫が激しく疼く。ユリオは痛みを堪え、表情を変えなかった。
ベルナールはユリオの指先を鋭く睨みつけ、その皮膚に刻まれた、針仕事による微細なタコと、わずかに残る白銀の魔導糸の残滓を観察し始めた。
「ただの街の仕立て屋にしては、随分と魔導糸の扱いに慣れているようだな」
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