影の女王の甘美な渇き
窓を叩く激しい雨音が、暗闇に包まれた工房「シルフィード」に響き渡っていた。前夜、暗殺者スカー・フェイスに襲撃された一階の作業場は、粉砕された正面扉に仮の板が打ち付けられ、荒れた空気がそのまま残っている。オーク材の裁断台は半壊し、床にはまだ片付けきれない木片が散らばっていた。
ユリオ・シルフィードは、作業着の袖をまくり、ランタンの微かな光の下で壊れた什器の整理を続けていた。きつく巻かれたリネンの包帯の下で、右手首がズキズキと鈍く疼く。暗殺者のダガーを仕立て針で受け流した際の捻挫だ。指先は未だに痺れ、感覚が不自然に過敏になっていた。
「お師匠様、まだ片付けを続けるのですか? 右手首に触ると、魔力が乱れて熱を持っています。今夜はもう休んでください……」
二階の寝室から降りてきた弟子のミミが、心配そうにユリオの顔を覗き込んだ。彼女はユリオが作った新しい『身代わりの縫いぐるみ』を大切そうに抱きしめている。前夜、自分の身代わりとなって破裂したクマのぬいぐるみの代わりにと、ユリオが残った魔力を振り絞って応急処置で直したものだ。
「大丈夫だよ、ミミ。これくらい片付けておかないと、明日からの仕事に差し障るからね。それに、白銀の魔導糸は無事に金庫に保管してある。心配しないで、先に眠っていいよ」
ユリオが優しく微笑みかけると、ミミはなおも不服そうに口を尖らせたが、師の頑固さを知っているため、渋々と二階へ戻っていった。階段を上る彼女の足音が消えると、再び工房には嵐の咆哮だけが残された。
その時だった。仮の板が打ち付けられた正面の扉から、重く、引きずるような音が響いた。ノックではない。まるで何かが力尽きて扉に倒れ込んだかのような、不穏な摩擦音。
ユリオは右手首の痛みを堪えながら、左手で『銀翼の仕立てハサミ』を静かに握りしめた。傷ついた指先に緊張が走り、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされる。ゆっくりと扉に近づき、隙間から外の闇を覗き込んだ。
嵐の霧が立ち込める路地裏。そこに、漆黒のマントを羽織った二つの影が立っていた。一人は影のように実体の薄い魔族の男――影国ノクスの女王直属隠密、ヴェール。そして彼に支えられ、苦しげに肩呼吸を繰り返している小柄な人影。
「……ユリオ殿、開けてくれ。女王が、限界だ」
ヴェールの冷酷な声が、嵐の風音に混ざってかすかに届いた。ユリオはハサミを腰に収め、急ぎ仮の閂を外して扉を開けた。滑り込んできた冷たい雨風とともに、濃密な「影」の魔力が工房内へと溢れ出す。
ヴェールに抱えられるようにして入ってきた人物は、深く被っていたフードを自ら払いのけた。現れたのは、夜の闇を溶かし込んだような漆黒の髪と、妖艶なまでの美貌を持つ少女。影国ノクスを統べる女王、セレナ・ノクスだった。
だが、普段の彼女が見せる余裕に満ちた妖しい微笑みは、そこにはなかった。彼女の呼吸は熱く沸騰し、白い肌は不自然に赤潮んでいる。そして何より、普段は神秘的な紫色の瞳が、今は獣のように獰猛な「赤」へと染まっていた。
「はあ、はあ……っ、ユリオ……やっと、会えたわ……」
セレナの唇から、熱い吐息とともに、小さく伸びた鋭い犬歯――牙が覗いていた。彼女の体から立ち上る影の魔力は、嵐の夜の水分を吸ってドロドロとしたタールのように床を侵食している。
「セレナ様……! これは、『吸血呪』の突発活性化か!?」
「中立都市を包む『赤い霧の夜』の残滓が、女王の心臓を刺激したのだ。本国での心労も重なり、理性を失いかけている。ユリオ殿、早く試着室へ!」
ヴェールの言葉に、ユリオは深く頷いた。このまま一階の作業場で彼女の魔力を暴走させれば、教会の探知網に引っかかるだけでなく、彼女の肉体そのものが内側から崩壊してしまう。
「ヴェール、一階の警戒をお願いします。ミミが起きてこないように、階段の結界を強化して」
「承知した」
ヴェールが影に溶けるようにして消えるのと同時に、ユリオはセレナの細い腰を左腕で支え、工房の奥にある「漆黒のフィッティングルーム(試着室)」へと急いだ。防音と国家級の遮断結界が施された、完全中立の絶対領域。
真鍮の「試着室の遮断鍵」を内側から施錠した瞬間、外の嵐の音は完全に消え去り、濃密な静寂が二人を包み込んだ。壁一面を覆う黒いベルベットが、ランプの光を吸い込んで重厚な陰影を作り出している。
だが、その静寂こそが、室内の緊張感を極限まで高めていた。
「う、あ……っ! 身体が、熱いの……。喉が、裂けそうよ……っ!」
セレナは採寸台に倒れ込み、自身の胸元を掻きむしるようにして、まとっていた黒いドレスの襟元を引き裂いた。露わになった白い鎖骨と豊かな胸元が、激しい呼吸に合わせて大きく波打っている。彼女の体温は異常に上昇しており、触れずとも伝わってくる熱風が、ユリオの頬を焦がすようだった。
ユリオは右手首の痛みを堪えながら、彼女の傍らに跪いた。仕立て屋としての義務感が、彼の理性を辛うじて繋ぎ止めている。だが、感覚が過敏になっている右手の指先が、彼女の放つ甘いPerfumeの香りと、溢れ出る魔力の波動を過剰に感知してしまう。
「セレナ様、今、中和のためのハーブと冷却の準備を――」
「嫌……そんなもの、いらない……っ!」
突如、セレナの瞳が赤く怪しく輝いた。彼女は驚くべき怪力でユリオの胸ぐらをつかみ、そのまま彼を試着室のベルベットの壁へと押し倒した。背中が壁に叩きつけられ、ユリオの口から短い呼気が漏れる。捻挫した右手首に激痛が走り、視界が一瞬白くなった。
「うっ……!」
「ああ、なんていい匂いなの……。あなたの魔力、透き通っていて、冷たくて……私の渇きを、狂わせるわ……」
セレナはユリオの身体の上に完全に覆いかぶさり、その豊かな肉体の重みと柔らかさを容赦なく押し付けてきた。彼女の熱い吐息が、ユリオの耳元から首筋へと滑り降りていく。ユリオの胸の中央にある「糸巻きの痣」が、彼女の影の魔力に共鳴して、ドクン、ドクンと激しく脈打ち始めた。
ユリオの身体を流れる『神衣の民』の清浄な魔力が、吸血呪に狂う彼女にとって、世界で最も甘美な「毒」として作用していたのだ。彼女はユリオの首筋に顔を埋め、鋭い牙をその白い皮膚へと押し当てた。牙の先が皮膚をわずかに傷つけ、一滴の赤い血が滲み出る。その甘美な刺激に、セレナの身体が歓喜で小さく震えた。
(しまっ……このままじゃ、理性を完全に失った彼女に吸い尽くされる!)
ユリオは恐怖を押し殺し、仕立て屋としての冷徹な思考を起動した。右手首の激痛を意識の外へと追いやり、左手を腰のポーチへと伸ばす。取り出したのは、極寒の地で採取された永久氷壁の結晶を粉砕した『氷結晶の微粉末』の小瓶だ。
彼は歯で小瓶の栓を引き抜き、その光り輝く青い微粉末を、自身の左手の指先に素早く塗布した。凍てつくような冷気が彼の指先を白く染めていく。
「セレナ様、冷やします……! 少し、我慢してください!」
ユリオは左手を伸ばし、彼女の熱く火照った首筋、そして引き裂かれたドレスの隙間から覗く白い鎖骨へと、直接その冷たい指先を押し当てた。
「摩擦熱の冷却(クール・プレス)」――起動。
「ひゃんっ……!? つ、つめたい……っ!」
極限の熱感の中に放り込まれた絶対零度の冷気に、セレナの身体がビクッと大きく跳ね上がった。氷結晶の粉末が彼女の肌の上で蒸発し、白い涼しげな冷気がシュウシュウと音を立てて立ち上る。沸騰しかけていた彼女の魔力器官が急激に冷却され、彼女の赤い瞳に、一瞬だけ正気の光が戻った。
「あ……ゆ、りお……? 私、何を……」
セレナは動きを止め、潤んだ瞳でユリオを見つめた。だが、呪いの根源はまだ消えていない。彼女の荒い息遣いは収まらず、その豊満な胸元は、ユリオの胸にぴったりと押し付けられたままだ。密室の静寂の中に、二人の激しい鼓動だけが重なり合って響いている。
ユリオは、彼女を傷つけることなく、この官能的な暴走を根本から鎮める方法を模索した。言葉での説得は通じない。物理的な力でも抑えられない。ならば、職人としての『目』で、呪いの核心を捉えるしかない。
ユリオは覚悟を決め、自身の瞳に魔力を集中させた。
「呪詛視(カース・アイ)」――起動。
ユリオの瞳が淡い銀色の輝きを放ち、至近距離にあるセレナの美しい肉体を透かして、その奥底を捉えた。彼女の豊かな胸元の奥、心臓の真上――そこに、教会の洗礼によって極秘裏に埋め込まれた、悍ましい『影の刻印』が、黒い蛇のようにのたうち回りながら怪しく脈打っているのが、はっきりと見えた。
セレナの熱い吐息が、再びユリオの首筋にかかる。彼女の牙が、再び血の匂いを求めて彼の皮膚へと近づいていく――。
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