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深夜の裁断、そして守るべき命

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中立都市ロンドヴァルを包む深い霧は、深夜になるといっそう濃くなり、路地裏の仕立て屋「シルフィード」を完全に外界から切り離していた。窓を叩く冷たい雨音が、静まり返った工房に規則正しいリズムを刻んでいる。


 ユリオ・シルフィードは、一階の作業場に置かれた頑丈なオーク材の裁断台の前に立っていた。手元にあるのは、闇市場「黒薔薇」から命がけで持ち帰ったばかりの、純白に輝く『白銀の魔導糸』。木箱を開けた瞬間、その糸から放たれる清浄な魔力が、薄暗いランプの光を浴びて美しくきらめいた。


「……これで、エルゼ様のドレスが縫える」


 ユリオは小さく呟いた。だが、その声には疲労が滲んでいる。彼の右腕は、前夜に帝国女王エルゼの『灰化の炎呪』を一時的に引き剥がした『痛覚縫合』の代償により、鉛のように重く、指先には今もピリピリとした痺れが残っていた。仕立て屋としての精密な指先の動きが、著しく低下している状態だ。本来なら今すぐ泥のように眠るべきだった。


 しかし、彼には休んでいる時間はなかった。女王の呪いの再発は数週間以内。一針の遅れが、彼女の死、ひいては三国大戦の引き金になりかねない。


「お師匠様……お茶を淹れました。少し、休んでください」


 背後から、心配そうな声がした。弟子のミミが、湯気の立つカップを小さな両手で抱えて立っている。スラムから救い出したこの健気な少女は、ユリオの夜なべ仕事を少しでも手伝おうと、眠い目をこすりながら起きていたのだ。


「ありがとう、ミミ。でも、この型紙の調整だけは終わらせておきたいんだ」


 ユリオは優しく微笑み、カップを受け取ると、代わりに懐から小さな布製のクマのぬいぐるみを取り出した。それは彼が自らの生命魔力を一週間かけて注ぎ込み、一針ずつ縫い上げた『身代わりの縫いぐるみ』だった。


「これを、ポケットに入れておいて。お守りだ」


「わあ、可愛い……! お師匠様、ありがとうございます!」


 ミミは嬉しそうにぬいぐるみを胸に抱きしめ、エプロンの大きなポケットに大切そうに仕舞い込んだ。その無邪気な笑顔に、ユリオはわずかな安らぎを覚える。


 だが、安らぎは一瞬にして切り裂かれた。


 ――キィン。


 ユリオの『呪詛視(カース・アイ)』が、仮面を外した素顔の裏で、警告音のように激しく反応した。一階の薄暗い作業場の隅、影が最も濃く溜まっている場所から、通常の人間には見えない「冷酷な殺気の糸」が、ユリオの『右手』に向けて真っ直ぐに伸びていたのだ。


「ミミ、下がれ!」


 ユリオが叫ぶと同時に、影が弾けた。闇の中から現れたのは、顔に大きなバツ印の傷跡を持つ男――暗殺組織「黒い針」の特級暗殺者、スカー・フェイス。男は無言のまま、紫色の毒液が滴る『魔毒のダガー』を突き出し、ユリオの右手の指を根元から切り落とさんと、神速の踏み込みを見せた。


(狙いは、僕の指……仕立て屋としての命か!)


 ユリオは本能的に、右手に挟んでいた頑丈な仕立て針を突き出し、ダガーの軌道を逸らそうとした。『針撃の防御』――しかし、今の彼の右手は痛覚縫合の痺れで鈍っていた。暗殺者の圧倒的な筋力と魔力の前に、小さな仕立て針はキィンと高い音を立ててへし折れ、衝撃がユリオの右手に激痛となって走った。


「くっ……!」


 ダガーの刃が、ユリオの右手に迫る。絶体絶命の瞬間、ユリオは咄嗟に体を捻り、身に着けていた『仕立て屋の作業エプロン』を盾にするように前に突き出した。


 ――キィィィン!


 不気味な金属摩擦音が響く。影蜘蛛の絹糸を多層構造で織り上げた黒いエプロンは、暗殺者のダガーの鋭い刃をその滑らかな表面で完全に「滑らせ」、物理的な衝撃を霧散させた。エプロンの防護結界が淡く光り、毒液を弾き飛ばす。


 最初の一撃を防がれたスカー・フェイスは、眉一つ動かさず、即座にターゲットを切り替えた。背後にいる無防備なミミへとダガーの矛先を向け、彼女を人質にするかのように腕を伸ばす。


「キャッ……!」


「ミミに触らせない!」


 ユリオは左手の指先を弾いた。事前に工房の床や什器の隙間に張り巡らせておいた、目に見えない極細の影蜘蛛の糸が、ユリオの魔力に反応して青白く光り輝く。『糸縛りの結界』の起動だ。


 ――シュルルルッ!


 空間に満ちた見えない糸が一気に引き絞られ、スカー・フェイスの足首と手首に絡みついた。蜘蛛の巣にかかった獲物のように、暗殺者の俊敏な動きが物理的に制約され、ダガーの軌道がわずかにブレる。


 だが、特級暗殺者の執念は凄まじかった。スカー・フェイスは結界の糸に肉体を食い込ませ、血を流しながらも、強引に手首をひねってダガーをミミの胸元へと投射した。糸の拘束を逃れた刃が、死の閃光となって少女へと一直線に飛ぶ。


「ミミ!」


 ユリオの手は届かない。誰もが息を呑んだその瞬間、ミミのポケットから眩い黄金の光が溢れ出した。


 ――ボンッ!


 大きな破裂音とともに、ミミのポケットに入っていた『身代わりの縫いぐるみ』が、ダガーの致命的な一撃を完全に身代わりに引き受け、光の粒子となって破裂した。ダガーは軌道を失って床に突き刺さり、ミミは無傷のままその場にへたり込んだ。


「な……っ!?」


 スカー・フェイスの冷酷な瞳に、初めて驚愕の色が浮かんだ。仕立て屋の魔道具が、自身の必殺の一撃を完全に無力化したのだ。


 その驚愕による一瞬の隙は、致命的だった。


 ――ドゴォォン!


 工房の正面扉が、外側からの圧倒的な衝撃によって豪快に蹴破られた。嵐の風雨とともに乱入してきたのは、純白のマントを翻し、大剣を構えた凛々しい女騎士――エルゼの護衛、ヒルダ・フォン・クロンベルクだった。


「仕立て屋に仇なす不届き者め! 我が剣の錆となれ!」


 ヒルダの放った大剣の一閃が、空間の空気を力づくで押し潰し、凄まじい衝撃波となってスカー・フェイスを襲う。結界の糸に縛られていた暗殺者は避けることもできず、その巨躯を壁際まで激しく吹き飛ばされた。石壁に深い亀裂が入り、スカー・フェイスは口から鮮血を吐き出した。


「……ちっ、近衛騎士か」


 スカー・フェイスは壁に手をつき、忌々しげにヒルダを睨みつけた。すでに身体の数箇所から血が流れ、結界の糸による裂傷とヒルダの一撃で致命的な重傷を負っている。これ以上の戦闘は不可能と判断した男は、懐から不気味な黒い煙幕弾を取り出し、床に叩きつけた。


 一瞬にして、工房内が視界を遮る濃い黒煙に包まれる。ヒルダが大剣を振るって煙を吹き飛ばしたときには、スカー・フェイスは窓の割れ目から、夜の霧の中へと音もなく消え去っていた。


「逃がしたか……。すまない、ユリオ殿。私の警備が甘かった」


 ヒルダは大剣を収め、悔しそうに拳を握りしめた。


「いえ、助かりました、ヒルダさん。あなたがいなければ、本当に危なかった」


 ユリオはへたり込んでいるミミの元へ駆け寄り、彼女の小さな肩を抱き寄せた。ミミは恐怖に震えながらも、ユリオの顔を見て、涙を流しながら「お師匠様……お師匠様……」と何度も縋り付いてきた。彼女が無事であることに、ユリオは心の底から安堵する。


 だが、ユリオの『呪詛視』は、まだ終わっていなかった。


 彼は、床に突き刺さったままのスカー・フェイスのダガー、そして彼が流していった血液の残滓に目を向けた。銀色の瞳を凝らし、その魔力波形を詳細に分析する。


(これは……ただの暗殺者の毒じゃない)


 ダガーの刃に塗られていた紫色の液体。それは、通常の薬術では調合不可能な、極めて清浄でありながら邪悪な波形を持つ、聖教会が管理する特殊な『呪いの毒』だった。


(なぜ、帝国のゲオルグ大公が雇った暗殺者が、聖教会の秘匿された毒を持っているんだ……?)


 ユリオの脳裏に、養父ルドルフが遺した日誌の警告が蘇る。ゲオルグ大公と教会の裏の繋がり――『ゲオルグ大公と教会の密約』を示す不穏な真実が、深夜の静寂の中で、冷酷に浮かび上がろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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