ギルドの牙と、影の足音
「お、おのれ……ハッタリを言うな! ブル、この生意気な仕立て屋を、今すぐ――!」
ボロフの金切り声が、湿った石壁に囲まれた特別室に響き渡る。その肥満体を包むフリルだらけの衣装の左肩から、パチパチと不気味な青黒い火花が弾けた。それは、魔力の滞留が限界に達し、布地が悲鳴を上げている決定的な証拠だった。
だが、命令を受けた用心棒ブル・タスクの耳には、ボロフの制止の声など入っていなかった。二メートルを超える巨体が地響きを立てて一歩踏み出し、担いでいたトゲ付きの巨大な鉄パイプを、ユリオの頭上に向けて容赦なく振り下ろす。風を切り裂く重苦しい咆哮が、密室の空気を圧迫した。
ユリオは仮面の奥で静かに目を細めた。右腕は未だ、前夜にエルゼの呪いを引き受けた代償で鉛のように重く、指先は慢性的に痺れている。物理的な回避も、仕立てハサミによるパリングも、この状態では間に合わない。
だが、ユリオの心拍は驚くほどに平穏だった。彼が待ち望んでいた「足音」は、すでに扉のすぐ向こうまで迫っていたからだ。
――ズガァァン!
ブルの鉄パイプがユリオの頭頂に達する直前、特別室の重厚な鉄扉が、外側からの圧倒的な衝撃によって吹き飛ばされた。強烈な魔力の爆風が室内に吹き込み、振り下ろされかけた鉄パイプの軌道を強引にねじ曲げる。鉄柱が空を切り、濡れた石床を激しく叩いて火花を散らした。
「……何の騒ぎだ、ボロフ。我がロンドヴァルの地下で、これほど無作法な暴力を振るう者がいるとはな」
砂煙の向こうから現れたのは、立派な毛皮のコートを優雅に羽織り、両手の指に眩い宝石の指輪を幾重にも嵌めた恰幅の良い老人――中立都市ロンドヴァルの商業権力を一手に握る最高実力者、商業ギルド長バルザック・グレイだった。
その背後には、抜刀したギルドの精鋭私兵たちが整然と並び、さらに眼鏡をかけた知的な佇まいの若い女性、ギルド連絡員のミラ・アンダーソンが、分厚い書類束を抱えて冷徹な眼差しをボロフに向けていた。
「バ、バルザック様……!? なぜ、このような地下市場の特別室に……!」
ボロフが泡を食って後ずさりする。その左肩のシーム(縫い目)からは、さらに激しく黒い煙が立ち上り始めていた。
バルザックはボロフの狼狽を完全に無視し、ユリオの元へと歩み寄った。そして、威厳に満ちた顔に温和な笑みを浮かべ、ユリオの肩を軽く叩いた。
「怪我はないかね、ユリオ殿。君に仕立ててもらったこの『至高の外套』の着心地があまりに素晴らしくてね。君のような至宝たる職人に、万が一のことがあってはロンドヴァル全体の損失だ」
「お気遣いありがとうございます、バルザックさん。お陰様で、一針も狂わずに済みました」
ユリオは黒い薔薇の仮面の奥で静かに微笑み、会釈した。この介入は、ユリオが事前にギルバートを介してバルザックに送っていた魔力信号によるものだった。ボロフが不当な買い占めを行うことを見越し、ギルドの最高権力をこの場に召喚したのだ。
「さあ、ボロフ。言い訳を聞こうか」
バルザックが振り返った瞬間、その温和な空気は一変した。特級政商にふさわしい、空間を物理的に押し潰すような圧倒的な「覇気」が室内に満ちる。用心棒のブルが、その威圧感の前に思わず息を呑み、鉄パイプを握る手に冷や汗をにじませた。
「わ、私はただ、この野良の仕立て屋と正当な商取引を……!」
「正当、だと?」
バルザックの合図を受け、ミラ・アンダーソンが一歩前に踏み出した。彼女は冷たい手つきで眼鏡を押し上げ、抱えていた分厚い帳簿を開いた。その口から、抑揚のない、しかし冷酷なまでに正確な数字が紡ぎ出される。
「ボロフ・カザロフ。あなたが直近三ヶ月間で、帝国の主戦派貴族ゲオルグ大公の息がかかった闇商人と行った、軍用魔導武器の違法密輸取引。そのすべての品目、日付、および隠蔽された裏口座の資金流動データを、我がギルドの監査部が完全に把握しました」
ミラの告発に、ボロフの顔は土気色を通り越して真っ白になった。
「な、何をおっしゃる……! そんなものは捏造だ! 私にそんな真似ができるはずが――」
「往生際が悪いな、ボロフ。この帳簿は、君の私邸の金庫から我がギルドの隠密が直接書き写したものだ。中立都市の絶対の掟である『軍事中立』に違反した罪は重いぞ」
バルザックの冷徹な宣告に、ボロフは完全に理性を失った。彼は顔を真っ赤に腫らし、狂ったように叫んだ。
「うるさい! ここは闇市場だ、ギルドの法など知るか! ブル、やれ! ここにいる奴らを全員叩き潰して、証拠ごと闇に葬れ!」
だが、用心棒ブル・タスクは一歩も動かなかった。彼はバルザックの背後に控えるギルド私兵たちの魔導弓の照準が、自身の眉間に完全に合わされているのを見逃さなかった。さらに、バルザックという男を敵に回せば、このロンドヴァルで生きていくことは二度とできない。
「……悪いな、ボス。ギルド長を殺す仕事にゃ、あの鉄パイプじゃ割に合わねえよ」
ブルは退屈そうにため息をつくと、トゲ付き鉄パイプを床に転がし、両手を上げて壁際へと退いた。事実上の降伏だった。
「ブル! 貴様、裏切る気か……あ、あがっ!?」
ボロフが激昂して叫ぼうとしたその瞬間、ユリオが予言した通りの「限界」が訪れた。
――パンッ!
乾いた破裂音とともに、ボロフの左肩の縫い目が内側から激しく弾け飛んだ。過剰に蓄積され、行き場を失っていた魔力の奔流が、一気に彼の肉体へと逆流する。黒い煤けた煙が噴き出し、ボロフは「ぎゃあああ!」と短い悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……っ、息が……魔力が、逆流して……!」
床に這いつくばり、自身の胸をかきむしりながら喘ぐボロフ。衣服の魔力回路が崩壊したことで、彼自身の器官が激しい魔力酔いを引き起こしていた。ユリオは冷徹な職人の瞳でその様子を見つめ、静かに告げた。
「言ったはずです、ボロフさん。あなたの服は、着用者を支配し、壊すために作られている。本物の衣服は、着用者を包み、生かすためのものです」
バルザックが冷ややかにボロフを見下ろし、最後の手札を突きつけた。
「ボロフ。今すぐ君のすべての資産、およびこの『白銀の魔導糸』の所有権をギルドに返上し、ロンドヴァルから永久追放されるか。それとも、中立違反の罪で地下牢の肥やしになるか。どちらかを選びたまえ」
「あ、あう……っ、助けて……所有権は、すべて渡す……! だから、医者を……!」
涙と鼻水で顔を汚した強欲商人は、息も絶え絶えに這いずりながら、机の上の木箱をユリオの方へと押し出した。
ユリオは静かに一歩前に進み、懐から、エルゼから支払われた「魔導金貨」の袋を机の上に置いた。床に散らばっていた金貨も、ミラが静かに拾い集めて机に並べる。
「ボロフさん。これは、この『白銀の魔導糸』の正当な取引価格です。僕は仕立て屋ですから、泥棒のような真似はしません。代金は、きっちり支払います」
ユリオは木箱を開け、中にある一筋の白銀の糸を見つめた。清浄な魔力が、彼の痺れる右手の指先に吸い付くように馴染んでいく。それは、エルゼの命を救うための、最初の「一張りのドレス」の核心となる素材だった。
「……見事な交渉だったよ、ユリオ殿。君の職人としての目には、やはり敵わないな」
バルザックは満足げに頷き、私兵たちに命じてボロフを連行させた。ミラは帳簿を閉じ、ユリオに向けて小さく頭を下げた。
「ユリオ様、今回の違法密輸の調査にご協力いただき、感謝いたします。おかげで、ギルドの不穏分子を排除できました。……例の『お約束』、楽しみにしておりますね」
ミラの少し赤らんだ顔を見て、ユリオは苦笑した。バルザックへの「至高の外套」の調整と、ミラへの普段着の仕立て。今回の経済的制裁の対価として、ユリオは大きな技術的恩義を彼らに負うことになったが、それだけの価値は十分にあった。
「ええ、必ず素晴らしい服を仕立てます。ありがとうございました」
ユリオは木箱をしっかりと抱え、ギルバートと共に競売場を後にした。
地下水路から地上へと繋がる、薄暗く霧の立ち込める石造りの通路。ランタンの鈍い光が、行く手をぼんやりと照らしている。ギルバートは仮面を外し、安堵のため息をついた。
「いやはや、冷や冷やしましたよ、ユリオ殿。まさかボロフの上着の欠陥をその場で見抜いて時間を稼ぐとは。さすがはルドルフ氏の跡継ぎだ」
「僕には、服の悲鳴が聞こえるだけです。……でも、これでようやく、エルゼ様のドレスが縫えます」
ユリオは抱えた木箱の温もりを感じながら、静かに答えた。右腕の痺れはまだ残っているが、この白銀の糸があれば、彼女の「灰化の炎呪」をドレスの魔力回路へと完璧に編み直すことができる。職人としての高揚感が、彼の胸を満たしていた。
だが、その瞬間だった。
ユリオの「呪詛視(カース・アイ)」が、仮面の奥でピクリと反応した。通路の曲がり角、深い霧が不自然に渦巻く闇の奥に、通常の人間には見えない「冷酷な殺気の糸」が漂っているのを、彼の銀の瞳が捉えたのだ。
ユリオは足を止めた。
霧の奥から、音もなく現れたのは、顔に大きなバツ印の傷跡(スカー)を持つ、黒ずくめの細身の男だった。その瞳は完全に光を失っており、まるで死人のように冷たい。男の指先には、不気味な紫色の毒液が滴る「魔毒のダガー」が握られていた。
暗殺組織「黒い針(ブラック・ニードル)」の特級暗殺者、スカー・フェイス。
男はユリオを殺すのではなく、その「右手」――仕立て屋としての命である指先を、じっと見つめていた。その冷酷な視線には、明確な意思が宿っていた。
(あいつの狙いは……僕の指か。ゲオルグ大公の仕向けた刺客……!)
ユリオは本能的に、自身が手に入れた「白銀の魔導糸」の価値が、すでに裏社会の危険な職人たち、そして帝国の主戦派に完全に知れ渡ってしまったことを直感した。
スカー・フェイスは不敵な笑みを一瞬浮かべると、霧のなかに溶けるように、音もなくその姿を消した。しかし、湿った空気に残された濃厚な死の気配は、深夜の工房に迫る「最悪の夜襲」を、冷酷に予感させていた――。
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