闇に光る白銀の糸
中立都市ロンドヴァルの地下は、地上よりもさらに深い霧と、頽廃的な死の気配に満ちていた。
冷たい滴が滴る石造りの地下水路。松明の煤けた炎が、湿った壁に不気味な影を落としている。ユリオ・シルフィードは、顔の半分を覆う「黒い薔薇の仮面」の裏側で、静かに呼吸を整えていた。首から下げた「魂の採寸メジャー」は、衣服の内に隠している。
「……お体の具合はいかがですか、ユリオ殿。右腕の調子が優れないようですが」
隣を歩く男――闇市場の仲介人、ギルバート・レインが、片眼鏡の奥の細い目をさらに細めて囁いた。洗練されたシルクハットを被り、仕立ての良いスーツを纏った彼は、この奈落の案内人にふさわしい不敵な笑みを浮かべている。
「大丈夫です、ギルバートさん。少し、指先が冷えているだけですから」
ユリオはそう答えたが、右手の指先を小さく握りしめた。衣服の袖の奥で、未だにジンジンと痛むような痺れが残っている。前夜、帝国女王エルゼの呪いを「痛覚縫合」で引き受けた代償は、思った以上に彼の肉体を蝕んでいた。針を握る右手の感覚は、通常の半分程度にまで鈍っている。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。彼女の命を本当に救う「灰化の抑制ドレス」を仕立てるためには、呪詛の衝突を完璧に遮断する伝説の素材「白銀の魔導糸」がどうしても必要だった。そして今夜、その糸がこの地下深くの闇市場「黒薔薇の競売場」に出品されるのだ。
二人は、仮面をつけた怪しげな取引使いたちが行き交う薄暗い大広間へと滑り込んだ。そこは、各国の盗品や、聖教会が禁忌とする魔導書、違法な魔導素材が巨額の金で取引される、中立都市の最も深い闇だった。
競売台の周囲には、蝋燭の光に照らされた無数の仮面が並んでいる。やがて、壇上のオークショニアが、重々しい黒漆塗りの木箱を開いた。
「さあ、紳士淑女の皆様。今夜の極上品、深淵の第一層から極秘裏に切り出された、天然の『白銀の魔導糸』でございます!」
木箱の中から引き出されたのは、冷たく、そして息を呑むほどに純粋な銀色の光を放つ、一筋の金属糸だった。その糸が放つ清浄な魔力波動は、地下のドブ臭い空気すらも一瞬で浄化していくかのようだった。ユリオの胸の中央にある「糸巻きの痣」が、その光に共鳴してドクンと小さく脈打つ。
(間違いない……あの糸なら、エルゼ様の『灰化の炎呪』をドレスの回路へ完全に縫い留められる!)
ユリオが手を挙げようとした、その瞬間だった。オークショニアが、困惑した表情で手元の羊皮紙を見つめ、声を張り上げた。
「失礼いたしました、皆様。……たった今、こちらの『白銀の魔導糸』は、競売開始前に『一括での事前買い占め』が成立いたしました! 落札者は――ボロフ・カザロフ様です!」
会場が騒然となる中、ユリオの心臓が冷たく凍りついた。
競売場の特別ブースの重厚なカーテンが開き、一人の丸々と太った男が姿を現した。シルクの高級衣装を無理やり肉体に押し込み、すべての指に成金じみた宝石の指輪を嵌めた男――闇市場を牛耳る悪徳商人、ボロフ・カザロフだった。その背後には、身長二メートルを超えるスキンヘッドの巨漢、用心棒のブル・タスクが、巨大なトゲ付き鉄パイプを肩に担いで、冷酷な笑みを浮かべて控えている。
「ククク……探したぞ、路地裏の売れない仕立て屋。お前がその『白銀の糸』を喉から手が出るほど欲しがっていることは、すべて調査済みだ」
ボロフは下品な笑みを浮かべ、ユリオを特別室へと呼び出した。冷たい石壁に囲まれた密室で、ボロフは机の上に、先ほどの白銀の魔導糸が収められた木箱を乱暴に置いた。
「ボロフさん、その糸を譲ってください。僕には、どうしてもそれが必要なんです」
ユリオは痺れる右手を隠しながら、冷静に交渉を切り出した。
「譲る? ああ、いいとも。私は商人だからな、適正な対価を支払う者には誰にでも売る。……そうだな、魔導金貨で『十万枚』だ。通常の百倍、国家予算規模の金額を今すぐここで支払ってもらおうか」
ボロフの突きつけた法外な金額に、ユリオの傍らに立つギルバートが眉をひそめた。「ボロフ殿、それはいくら何でも闇市場の規約を……」
「黙れ、ギルバート! ここは私の市場だ!」
ボロフは机を叩き、ユリオを指差した。ユリオは懐から、エルゼから仕立て代(治療代)として支払われた、純粋な魔力が封入された「魔導金貨」の袋を取り出し、机の上に置いた。ずっしりとした音が響く。
「僕が今支払えるのは、これが限界です。ですが、これは非常に純度の高い魔導金貨です。これで――」
「ハッ、笑わせるな! そんな端金(はしたがね)で、この伝説の糸が買えると思っているのか!」
ボロフは鼻で笑い、金貨の袋を床へと叩き落とした。チャリンと鈍い音が響き、金貨が濡れた石床に散らばる。
「支払えないなら、この糸は今ここで燃やして、ただの灰にしてやってもいいんだぞ? お前が誰のためにこの服を作ろうとしているかは知らんが、そいつの命はここで終わりだな、ククク!」
ボロフの合図とともに、用心棒のブル・タスクが一歩前に踏み出した。巨大な肉体がユリオを押し潰さんばかりに迫り、担いでいたトゲ付き鉄パイプを床に叩きつける。ゴン、と重苦しい金属音が密室に響き渡り、石の床に微細な亀裂が入った。
「おい、仕立て屋。大人しくボロフ様の言う通りにするか、それともその自慢の『指』をここで一本ずつ叩き潰されるか、選びな」
ブルが鼻のリングを鳴らしながら、ユリオの顔の前にその凶悪な鉄パイプを突きつけた。物理的な暴力の圧迫感が、ユリオの呼吸を奪おうとする。
だが、ユリオは怯まなかった。彼の銀の瞳――「呪詛視(カース・アイ)」が、仮面の奥で静かに、しかし冷徹に起動した。
ユリオの視界の中で、ボロフの醜悪に肥大化した肉体が透き通り、彼が身に纏っている、フリルや金糸を過剰にあしらった派手な高級衣装の「魔力回路」が露わになった。その瞬間、ユリオの職人としての目が、その衣装の致命的な欠陥を完璧に捉えた。
(……やはり、そうだ。この男の着ている服、魔力回路の接続が滅茶苦茶だ。過剰な金糸のせいで、自身の魔力が外に放出されず、内側で滞留している。だからこの男の肉体は、不自然に膨張し、魔力器官が崩壊しかけているんだ)
ボロフの衣装の左肩の縫い目(シーム)は、滞留した魔力の圧力に耐えかねて、今にも弾け飛びそうに黒く煤けている。それは、彼がお抱えのレオン・デュマのような、外見の派手さだけを重視した三流デザイナーが作った衣服の、決定的な敗北の証だった。
ユリオは懐から、レミィから融通してもらった、精神と魔力を落ち着かせる「魔力安定香」の小さな瓶を静かに取り出し、机の上に置いた。
「ボロフさん。交渉を引き延ばすために、僕の持つこの希少な『魔力安定香』を一時的な担保として差し出します。……それと、あなたのその素晴らしい衣装について、一つお伝えしたいことがあります」
「何だと……? 貧乏な仕立て屋が、私の至高の衣装に難癖をつける気か?」
ボロフが不快そうに顔を歪めた。ユリオは、痺れる右手のハサミを握り直すように、静かに言葉を紡いだ。
「あなたのその上着、左肩の裏地の縫い目が、あなたの強欲な魔力の膨張に耐えかねて、あと数分で内側から完全に弾け飛びますよ。そうなれば、滞留した魔力があなたの心臓に逆流し、あなたは二度と、その贅沢な暮らしを送れなくなる」
ボロフの顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼は自身の左肩を慌てて押さえたが、衣服の奥から、確かに微かな「パチパチ」という魔力の火花の音が響いていることに気づいたのだ。ブル・タスクも、不審そうにボロフを見つめる。
「お、おのれ……ハッタリを言うな! ブル、この生意気な仕立て屋を、今すぐ――!」
ボロフの怒号とともに、ブル・タスクが巨大な鉄パイプを振り上げた。絶体絶命の瞬間。だが、ユリオの耳には、地下水路の奥から、彼が待ち望んでいた「ある足音」が静かに響いてくるのが聞こえていた――。
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