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歪んだ魔衣と、職人の誇り

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静寂が支配する深夜の仕立て工房「シルフィード」。


 一階の作業場には、薄暗いランプの光だけが灯り、微かな油と古い木材の香りが漂っている。ユリオ・シルフィードは、巨大なオーク材の裁断台に向かい、一枚の大きな羊皮紙の上に炭筆を走らせていた。彼の首には、アンティークな革製の「魂の採寸メジャー」が静かにかけられている。


「うぐ……っ」


 不意に、ユリオの右腕にピリピリとした激しい痺れが走った。彼は炭筆を置き、眉をひそめて右の手首をさする。それは前夜、帝国女王エルゼ・ヴァルハイトに施した「痛覚縫合(ペイン・ステッチ)」の代償だった。彼女の心臓を蝕む「灰化の炎呪」の毒素を、魔導糸を媒介にして一時的に引き受けた名残が、未だに彼の肉体に微弱な負荷として蓄積しているのだ。


「お師匠様、また無理をして……。はい、温かいカモミールティーです」


 作業場の奥から、眠そうに目をこすりながら弟子のミミが近づいてきた。彼女は大きすぎるエプロンをきゅっと結び、湯気の立つ木製のカップをユリオの傍らに置く。その健気な姿に、ユリオの張り詰めていた表情がわずかに和らいだ。


「ありがとう、ミミ。でも、この型紙だけは今夜中に引いておきたいんだ」


「エルゼ様のための『灰化の抑制布』の型紙ですね。でも、肝心の素材が……」


 ミミが心配そうに視線を落とした先には、空っぽの木箱があった。エルゼの呪いを完全に抑え込むための抑制ドレスを仕立てるには、魔力を均一に循環させ、呪詛を遮断する性質を持つ極めて希少な「白銀の魔導糸」が絶対に不足していた。


 ユリオは裁断台の端に置かれた、表紙の擦り切れた革の日誌を開いた。養父ルドルフが遺した「ルドルフの魔導日誌」だ。そこには、魔導衣服の基礎理論とともに、過去にルドルフが試みた呪い抑制の記録が、独特の癖字でびっしりと書き込まれていた。頁をめくるユリオの指先に、職人としての重い責任感がのしかかる。彼女を救う一張りのドレスを仕上げる――それが、仕立て屋としての彼の誓いだった。


 翌朝、ユリオは気分転換と不足している一般素材の買い出しを兼ねて、ミミを伴って中立都市ロンドヴァルの大通りへと向かった。


 普段は退廃的な霧に包まれ、静けさを保っている石造りの街並みだが、その日は異様な熱気に包まれていた。大通りの広場には巨大な特設ステージが組まれ、赤い布に金糸で刺繍された、ヴァルハイト帝国の主戦派貴族「ゲオルグ・フォン・クロンベルク大公」の家紋が風にたなびいている。


「何が始まるの、お師匠様?」


「帝国の主戦派が、何か公開デモを行うらしい。……嫌な予感がするな」


 ユリオが足を止めると、群衆の奥から、冷徹で高慢な声が響き渡った。


「これこそが、我が帝国魔導開発院と、至高の仕立て技術が融合した新時代の結晶――『魔兵衣(まへいい)』である!」


 ステージの上に立っていたのは、仕立ての良い黒い燕尾服をまとい、冷徹な細い目をした黒髪の青年だった。彼の指先には、鋭く尖った黒い魔導針が不気味に光っている。彼の名はクロード・ヴァルア。ゲオルグ大公お抱えの仕立て屋であり、国家予算規模の資金を動かして王族の礼服を専門に仕立てる「宮廷仕立て屋クラス」の天才職人だった。


 クロードの合図とともに、鉄製の重厚な鎧のインナーとして、禍々しい黒い紋様が刺繍された漆黒の戦闘服を纏った帝国の精鋭兵がステージに登る。その兵士が魔力を解放した瞬間、戦闘服の縫い目から、見る者の魂を凍りつかせるような漆黒の炎が噴き出した。


 ズガァン!


 兵士が軽く拳を突き出すと、ステージ上に設置された巨大な石柱が一撃で粉砕され、黒い灰となって霧散した。その圧倒的な破壊力に、観衆からは地鳴りのような歓声が沸き起こる。


「素晴らしい! これぞ我が帝国を三国統一へと導く、究極の兵器だ!」


 ステージの特等席に腰掛けた、隻眼の壮年貴族――ゲオルグ・フォン・クロンベルク大公が、豪華な毛皮のコートを揺らしながら豪快に拍手をした。その隣には、主戦派の魔導師ゼノが不気味な笑みを浮かべて控えている。


 クロードは満足げに観衆を見下ろしていたが、人だかりの中に、地味な仕立て屋のベストを着たユリオの姿を見つけると、その薄い唇を歪めて嘲笑を浮かべた。


「おや、そこにいるのは路地裏の貧相な仕立て屋、ユリオじゃないか。そんな薄汚い格好をして、まだ『呪いを恐れて抑え込むだけの服』などという、弱者のための玩具を作っているのかい?」


 クロードの言葉に、周囲の帝国貴族や兵士たちの視線が一斉にユリオへと向けられ、冷ややかな嘲笑が漏れ聞こえてくる。


「呪いとは、恐れるものではない。我が『魔兵衣』のように、着用者の命を限界まで絞り出し、圧倒的な破壊兵器として活性化させるためのエネルギー源なのだよ。命を削ってこそ、至高の美と力が生まれる。君のような野良の仕立て屋には、この宮廷クラスの数値(ステータス)の価値など理解できないだろうがね」


 ユリオは何も言い返さず、静かに精神を集中させた。彼の瞳が淡い銀色の輝きを放ち始める。「呪詛視(カース・アイ)」の起動。ユリオの視界の中で、ステージの兵士の肉体が透き通り、その魔力器官の流れが露わになった。


 次の瞬間、ユリオは内側から湧き上がる激しい怒りと戦慄に、息を呑んだ。


(……これは、衣服なんかじゃない)


 ユリオの銀の瞳が捉えたのは、兵士の魔力経絡に深く食い込み、その生命力を無理やり抉り出している魔兵衣の「黒い魔導糸」だった。兵士の心臓は不自然な超高速で脈打ち、肉体の細胞は灰化の熱に耐えかねて悲鳴を上げている。着用者の命を文字通り燃料として燃やし尽くす、あまりにも残虐な寄生虫のような衣服だった。


 さらに、その魔兵衣の襟元と袖口の裏側に施された、独特な「ダブル・クロス・ステッチ」の縫い目を見た瞬間、ユリオの胸の中央にある「糸巻きの痣」が、警告するようにドクンと激しく脈打った。


(この不自然な魔力回路の歪み……ルドルフの魔導日誌に書かれていた、一族を裏切って聖教会に寝返った叔父、ヴァルター・シルフィードの縫製癖と、完全に一致している……!)


 暗殺組織「黒い針」を裏で操るファントム――その邪悪な仕立て屋の影が、クロードの技術の背後に確かに存在していた。彼らは、エルゼをもこの歪んだ魔衣の生贄に捧げ、帝国の実権を握ろうとしているのだ。


 ユリオは一歩前に踏み出し、ステージの上のクロードを真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、一切の恐れはなく、ただ仕立て屋としての絶対的な拒絶と誇りだけが宿っていた。


「クロード。君の作ったそれは、衣服ではない」


 ユリオの静かだが、大通りの喧騒を切り裂くような凛とした声が響き渡り、周囲のざわめきがピタリと止まった。


「着用者の命を削り、魂を崩壊させる衣服は、仕立て屋の仕事ではない。それは、人を死へ追いやるための残酷な檻だ。そんな服で、誰を救えるというんだ」


 クロードの顔から笑みが消え、冷酷な怒りがその細い目に宿る。ゲオルグ大公の私兵たちが、ユリオを威圧するように一斉に剣の柄に手をかけた。周囲の貴族たちからは、「無能な仕立て屋が、宮廷の天才に嫉妬している」「臆病者の戯言だ」と罵声が浴びせられる。


「フン、弱者の遠吠えを。ゲオルグ大公、このような無能な男の言葉など、気にする価値もございません」


 クロードはハサミを弄びながら、ユリオを冷たく見下した。ユリオはこれ以上の無駄な議論を避け、ミミの手を引いて静かにその場を立ち去った。背後から浴びせられる嘲笑の嵐を、彼はただ黙って受け流した。


 工房「シルフィード」に戻ったユリオは、ルドルフの日誌を強く握りしめ、裁断台を拳で叩いた。彼の心の中には、かつてないほどの激しい闘志が燃え上がっていた。クロードの歪んだ兵器から、そしてゲオルグ大公の陰謀から、エルゼを、彼女の命を絶対に守り抜く。そのためには、一刻も早く「白銀の抑制ドレス」を完成させなければならない。


 その時、工房のポストに、一枚の不気味な黒い封書が音もなく投げ込まれた。ユリオが封を開けると、そこには闇市場の仲介人ギルバートからの、血のように赤いインクで書かれた極秘の伝書が入っていた。


『今夜、地下街の闇市場「黒薔薇の競売場」にて、何者かが買い占めた極上の「白銀の魔導糸」が、非合法オークションに出品される。手に入れたければ、仮面を被り、奈落へ降りてこい』


 ユリオは伝書を握りつぶし、闇の中に潜む強欲な敵たちとの、命がけの交渉へと身を投じる覚悟を決めるのだった――。

HẾT CHƯƠNG

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