漆黒のフィッティングルームへようこそ
石造りの古い街並みが、夜を徹して這いずる這うような濃霧に呑まれていく。ここは三国大戦の火種を抱えながらも、奇跡的な均衡を保ち続ける中立都市ロンドヴァル。その薄暗い路地裏の一角に、ひっそりと佇む古びた木造二階建ての店舗があった。――仕立て屋「シルフィード」。
一階の作業場には、煤けたランプの光がぼんやりと揺れている。古いオーク材の裁断台の上で、二十歳の店主ユリオ・シルフィードは、一本の細い魔導糸を針穴に通していた。その指先は細く端正でありながら、職人特有の微細なタコが刻まれている。
「お師匠様……じゃなかった、ユリオさん。この裏地のヘム縫い、これで大丈夫ですか?」
傍らで、スラム出身の見習い少女ミミが、おずおずと小さな布地を差し出してきた。少し大きめのエプロンをきゅっと結んだ彼女の額には、一生懸命に作業した証拠の汗が光っている。
「うん、すごく丁寧だ。針目が一定で、生地が突っ張っていない。ミミは本当に手先が器用だね」
ユリオが穏やかに微笑むと、ミミの丸い瞳が嬉しそうに輝いた。亡き養父であり師匠でもあったルドルフが数年前に亡くなって以来、この工房を維持するのは容易ではなかった。世間的には「少し風変わりだが腕の良い若い仕立て屋」でしかないユリオだが、彼には誰にも明かせない秘密があった。
ユリオは、かつて聖教会によって歴史の闇に葬られた伝説の「神衣の民(ファブリック・クラン)」の生き残りなのだ。他者の体内に蠢く魔力や呪いを「物理的な糸」として視認し、それを衣服の魔力回路へと縫い合わせることで無害化・制御する「霊糸縫合術(ソウル・ステッチ)」。その異能の血脈が、彼の胸の中央にある「糸巻きの痣」に眠っている。
突如、工房の入り口に取り付けられた古びた真鍮のベルが、けたたましく鳴り響いた。
冷たい霧が、開かれた扉から一気に作業場へと流れ込んでくる。ミミが小さく悲鳴を上げてユリオの背後に隠れた。立ち込める霧の向こうから現れたのは、深くフードを被った二人の人影だった。
いずれもロンドヴァルの霧を織り込んだ「霧の外套」を羽織っているが、その足取りと体から放たれる気配は、明らかに一般の顧客のものではない。特に前を歩く小柄な人影からは、周囲の空気を物理的に圧迫するような、冷徹極まりない「覇王のオーラ」が漂っていた。
「ここが、いかなる呪いをも抑える魔導服を仕立てるという、野良の仕立て屋の工房か」
凛とした、だが酷く冷ややかな鈴を転がすような声が、作業場の静寂を切り裂いた。
後ろに控える背の高い人影――近衛女騎士ヒルダ・フォン・クロンベルクが、周囲を油断なく警戒しながら一歩前に踏み出す。その手は、マントの内に隠された長剣の柄にかけられていた。
「主、このような寂れた路地裏の店に、本当に我らを救う技術など……」
「黙れ、ヒルダ。我が命の灯火が消えるのが先か、この男の腕を試すのが先か、それだけのことだ」
前方の人物が、ゆっくりとフードを外した。現れたのは、燃えるような緋色の髪と、すべてを射すくめるような黄金の瞳を持つ、絶世の美女。ヴァルハイト帝国を統べる若き女王、エルゼ・ヴァルハイトその人であった。
だが、その圧倒的な美貌とは裏腹に、彼女の呼吸は不自然に浅く、かすかに喘ぐような熱を帯びている。ユリオは、自身の瞳に魔力を集中させた。「呪詛視(カース・アイ)」の起動。ユリオの黒い瞳が、淡い銀色の輝きへと変色していく。
ユリオの視界の中で、エルゼの美しい肉体が透き通り、その心臓の奥底が露わになった。
(これは……酷すぎる。魔力器官の隅々にまで、黒くひび割れた炎のトゲが絡みついている。これが『灰化の炎呪』……呪いレベル3の極限状態だ)
彼女の白い首筋や手の甲の皮膚が、かすかに灰のように白くカサついて剥がれ落ちかけている。放置すれば、あと数ヶ月で彼女の肉体は文字通り内側から灰となって崩れ去るだろう。
「……無礼者。我が顔をそのような奇妙な目で見つめるな」
エルゼが不快そうに眉をひそめ、黄金の瞳に鋭い殺気を宿らせた。同時に、彼女の体から黒い火花がパチパチと弾け、作業場の空気が一気に灼熱へと変わる。女王としての絶対的な威厳が、ユリオを圧迫した。
「無礼な態度を続けるならば、不敬罪としてその首を即座に刎ねる。仕立て屋、お前に我が呪いを抑える服が作れるのか、答えよ」
ヒルダが長剣をわずかに引き抜き、キィンと鋭い金属音が響いた。さらにヒルダは、ユリオの身元と魔力特性を探るため、隠密裏に探知魔術の波形を放とうとする。
しかしその瞬間、工房の奥から放たれた目に見えない防壁が、ヒルダの魔術を完全に弾き返した。カツン、と乾いた音が響き、ヒルダが驚愕して一歩後退する。
「何だと……? 我が魔力探知が、完全に遮断された……!?」
「そこまでにしてください、騎士様。この工房の中、特に奥の試着室は『絶対中立の領域』です。いかなる王権も、武力の行使も、ここでは無効化されます」
ユリオは動じることなく、静かに、だが職人としての冷徹なまでに真剣な瞳でエルゼを見つめ返した。
「そしてエルゼ様。あなたの体は、すでに限界を迎えています。胸の奥が燃えるように熱く、呼吸をするたびに肺が灰で埋まるような激痛に襲われているはずだ。指先の感覚も、すでに半分は失われているのでは?」
その言葉が放たれた瞬間、エルゼの黄金の瞳が大きく見開かれた。
「お前、なぜそれを……! 我が病状は、帝国の最高医官すら詳細を知らぬ極秘事項のはずだ!」
「私は仕立て屋です。衣服を仕立てるためには、顧客の肉体と魔力のクセを完璧に把握しなければなりません。あなたのその『灰化の炎呪』、私の仕立てる服でなければ、もう抑え込むことはできませんよ」
エルゼは息を呑み、自身の震える手の甲を見つめた。カサついた皮膚が、薄く空気中に溶けていく。彼女は自身の命の限界を、誰よりも自覚していた。主戦派のゲオルグ大公らによる退位の圧力が強まる中、彼女にはもう時間がなかったのだ。
「ヒルダ……剣を収めよ。この男の言う通りだ」
「しかし、エルゼ様! このような素性の知れぬ者に、御身を晒すなど……!」
「構わぬ。我が命を繋ぐ唯一の糸がこの男にあるのなら、私はそれに縋るのみだ」
エルゼは自嘲気味に微笑み、ユリオに向き直った。
「仕立て屋ユリオ。我が命を救う服を仕立ててみせよ。だが、もし失敗すれば……」
「失敗はしません。私はプロですから。……では、奥の『漆黒のフィッティングルーム』へどうぞ。これより、採寸を開始します」
ユリオは、接客スペースの奥にある重厚な扉を開いた。壁一面が黒いベルベットで覆われ、中央に巨大な全身鏡と採寸台が置かれた、一切の光と音を遮断する密室。そこは、世界を揺るがす女王たちが鎧を脱ぎ、一人の女性としての素顔を晒す、甘美で危険な聖域であった。
ユリオは首からアンティークな「魂の採寸メジャー」を下げ、裁断台から頑丈な仕立て針を手に取った。エルゼが、緊張した面持ちでフィッティングルームの中央へと歩みを進める。
「……仕立て屋。採寸を行うということは、我が体に直接触れるということだな?」
エルゼの声が、試着室の密閉された空間の中で、かすかに震えて響いた。女王の肉体に触れることは、帝国において即座に極刑に値する大罪。しかし、この漆黒の部屋の中では、その禁忌すらも「衣服の完成」という目的のために完全に免除される。
「はい。不敬はお許しください、エルゼ様。あなたの骨格と、呪いのトゲの位置を正確に測るためには、一分の狂いも許されないのです」
ユリオはメジャーを両手に構え、彼女の美しい、しかし呪いに蝕まれた白い肌へと、不敬を承知でゆっくりと手を伸ばした。室内の温度が、二人の吐息と羞恥、そして迫り来る呪詛の熱気によって、甘美なまでに上昇していく――。
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