白百合の温もりと黄金の追跡者
豪雨が窓を激しく叩き、新校舎の美術室には冷たい静寂が戻っていた。骸の呪縛から解放された荒木先生は、床に崩れ落ちたまま、己が犯した狂気の行いにただ声を上げて泣き崩れている。
救うことはできた。けれど、その代償はあまりにも無慈悲だった。
「先輩……! 先輩、しっかりしてください!」
絵の具の壁が消え去った美術室の床で、結城瞬が必死の形相で私に駆け寄ってきた。私は床にへたり込んだまま、動かなくなった右腕を左手で抱きしめ、ただ無言で小刻みに震えていた。右手の指先から手首、そして肘の手前までが、色素を完全に失った半透明の「硝子」へと変質している。月光を透かすその腕には温もりなど微塵もなく、血管の代わりに銀色の霊糸が青白く発光しながら、網目のように脈打っているのが見えた。感覚は、完全に消失していた。
私が吐き出す息は、極寒の冬の日のように白く濁っている。体温はすでに三十度を下回り、全身が氷の塊になったかのように冷え切っていた。これこそが、二体の花霊を同時に使役する禁忌の術式『双葉』を強行し、因果を書き換えた調律者が支払うべき『第一限界』の代償だった。
「先輩、手を貸します。さあ、立って……」
瞬は涙を堪えながら、私の身体を支えようと手を伸ばした。その時、彼の視線が、荒木先生の泣き崩れる足元に落ちていた「絵の具の破片」に留まった。骸の黒い魔力が微かに残る、あの恐怖の絵画の残片――『呪いのキャンバスの残片』だ。瞬はそれを無言で拾い上げると、制服のポケットへと密かに滑り込ませた。それが、これからの戦いに必要な手がかりになると直感したのだろう。
「……やれやれ、無茶を通り越してただの自殺志願者だな、お前は」
私の影から、隻眼の黒蛇おろちがするりと首を覗かせた。咥えた煙管から吐き出される紫煙が、ハーブと煙草の甘く退廃的な香りを漂わせ、私の濁った意識をかろうじて引き留める。
「だが、このままここに居れば、美術室の霊波の乱れを嗅ぎつけた天照衆の犬どもに包囲されるぞ。瞬、その小娘を担いでさっさと移動しろ。向かう先は一つだけだ」
おろちの言葉に瞬は力強く頷き、私の硝子の右腕を傷つけないよう細心の注意を払いながら、私の身体を背負った。私は彼の背中で、きしむ硝子の腕を抱え、ただ静かに目を閉じた。
新校舎の暗い廊下を、瞬は静かに、しかし迅速に駆け抜けていく。目指すのは、新校舎特別棟の最上階にある、あの場所だった。
ハーブの香りと、温かい蒸気の匂いが漂う部屋。カウンセリングルームの重い木製の扉を瞬が静かに押し開けると、そこには、白いブラウスにグレーのカーディガンを羽織った白石鏡子先生が、深い憂いを含んだ瞳で私たちを待っていた。
「……やっぱり、あの子の結界を破ったのね、陽菜ちゃん」
鏡子先生は驚く風もなく、ただ静かに私を受け入れた。瞬が私をソファに横たわらせると、鏡子先生はすぐに私の右腕を覆う黒い園芸用手袋を外した。露わになった肘までの硝子の腕を見て、鏡子先生の息が止まる。
「ここまで侵食が進むなんて……『双葉』を使ったのね。なんて無茶なことを」
鏡子先生は痛ましそうに顔を歪めると、部屋の奥の棚から、古びた薬瓶を取り出した。熊野神社の聖水と銀砂を練り合わせて作られた特別な保存薬――『白真珠の軟膏』だった。
鏡子先生は、私の感覚を失った硝子の皮膚に、その白い軟膏を優しく塗り広げていく。ひんやりとした聖なる冷気が、硝子の奥でくすぶっていた、骨が直接きしむような phantom pain(幻肢痛)をゆっくりと和らげていくのが分かった。体内に滞っていた霊糸の乱れが、軟膏の成分によって一時的に調律され、私の白い息が少しずつ静かになっていく。
その丁寧な手つきを見つめていた時、鏡子先生のカーディガンの袖が微かにめくれた。私の目が、その手首に釘付けになる。
――そこには、私と全く同じ、半透明の硝子と化した皮膚のひび割れがあった。
「……気づかれたわね」
鏡子先生は悲しげに微笑み、自らの硝子の手首をさすった。これこそが、彼女が隠し続けていた『白石鏡子の過去の傷』だった。
「私は、先代の調律者だったのよ、陽菜ちゃん。今のあなたと同じように、見えないハサミを握り、誰かの悲劇を切り裂き続けた。けれど、定められた運命に抗う代償は、肉体だけでは済まないの」
鏡子先生の瞳から、一滴の涙が零れ落ち、私の硝子の腕に触れて弾けた。
「私はかつて、自分の最も大切な人を救うために、すべての霊糸を紡いで彼の死の運命を書き換えたわ。……けれどね、世界はその等価交換として、彼の存在そのものを歴史から消し去ったの。私の記憶からも、彼の顔や、温もりや、愛していたという名前さえも、すべて奪い去ってしまった。残されたのは、この冷たい硝子の傷跡と、底知れない喪失感だけ」
鏡子先生の告白は、言葉を失った私の胸に、冷酷な杭となって突き刺さった。救えば救うほど、自分の存在が世界から削り取られ、周囲から忘れ去られていく――それが調律者の辿る、本当の悲劇の末路なのだと。
「お願い、陽菜ちゃん。もうハサミを置いて。これ以上糸を紡げば、あなたは自分自身の存在を失うことになるわ」
鏡子先生の愛に満ちた説得が、私の心を激しく揺さぶる。瞬もまた、悲痛な表情で私を見つめていた。ハサミを置けば、私は普通の女子高生に戻れるのかもしれない。だが――私の脳裏に、あの屋上で絶望に震えていたケイトの姿が、そして「先輩を守る」と誓ってくれた瞬の温かい手が浮かんだ。私は声を失ったまま、首を横に振った。左手で『霊糸の鋏』を強く握りしめる。私は、もう引き返さない。
私の無言の決意を見た鏡子先生は、深く、哀しいため息をついた。「……本当に頑固な子ね。お父様にそっくりだわ」と呟きながら、私の硝子の右腕に、白真珠の霊水を浸した包帯を優しく巻き直してくれた。
やがて、夜が明け始めた。雨は上がり、窓の外からは朝霧に包まれた校庭が見える。私は鏡子先生に頭を下げ、瞬に伴われてカウンセリングルームを後にした。右腕は動かないままだが、軟膏のおかげできしみは治まっている。しかし、学校全体に、昨日までとは明らかに異なる、異様な気配が漂い始めていることに私は気づいた。
それは、骸の放つドロドロとした陰湿な悪意ではない。もっと神聖で、圧倒的で、息が詰まるほどの完璧な「秩序」の波動。
一歩、廊下を踏み出した瞬間だった。廊下の向こう、朝霧の立ち込める窓辺から、一人の少年が静かにこちらへ歩み寄ってきた。
完璧に着こなされた誠陵高校の制服。整った顔立ちに、冷徹な光を宿した瞳。彼の周囲には、一般の生徒には絶対に見えない、眩い「黄金の霊糸」が、まるで光の防壁のように張り巡らされていた。彼が歩くたびに、空間の因果が強制的に凍結され、地脈のノイズが完全に静まり返っていくのが分かる。
彼こそが、天照衆の最高エリートであり、この学校に潜む「バグ」を排除するために転校してきた黄金の追跡者――日向翔だった。
翔は私の前で足を止めると、鋭い眼光を私の黒い手袋をはめた右腕へと向けた。彼の周囲の黄金の霊糸が、私のハサミに共鳴するように、キィンと高い音を立てて激しく震え始める。廊下の空気が、一瞬にして極限の緊張感で満たされた。
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