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呪いの画廊と妹の幻影

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旧校舎の理科準備室の床から染み出した黒い絵の具は、まるで生き物のようにうねりながら廊下を侵食していた。どろりとした粘り気を持つその液体は、美術室に巣食う荒木先生の狂気が、学校の地脈を伝ってここまで這い上がってきた証だった。


「先輩、こっちです! 絵の具を避けて!」


 結城瞬が私の細い肩を支え、右手に握りしめた重厚な『旧校舎の真鍮鍵』を庇うようにして闇の中を走る。私の右手は、昨夜の戦いの代償として人差し指と中指の第一関節が完全に半透明のガラスと化しており、感覚も温もりも失われていた。黒い園芸用手袋に隠された指先からは、常に凍てつくような冷気が発せられ、私の吐き出す息は、秋の夜とは思えないほど白く濁っている。


 さらに、先ほど至近距離で浴びた呪詛人形『赤子』の産声の余波が、私の喉の奥に施された霊的封印を激しくきしませていた。肺を鉄の枷で締め付けられているかのような息苦しさに、私は走るたびに小さく喘ぎ、胸元を左手で強く押さえた。


(大丈夫……まだ、走れる……)


 私は声帯を震わせることなく、瞬の制服の袖を左指で引き、微かな振動を通じて「先を急ごう」と伝えた。瞬の瞳の奥で、覚醒したばかりの銀色の雛菊の紋様が明滅し、私の無言の意思を正確に受信する。


「はい。美術室の結界はもう目の前です。荒木先生を……監禁されている女の子を、絶対に助けましょう」


 私たちは新校舎の特別棟へと繋がる木造の渡り廊下を駆け抜け、美術室の重い扉の前に到達した。美術室の周囲には、肉眼では視認できない漆黒の黒糸が、幾重にも重なる蜘蛛の巣のように張り巡らされている。それは、人々を絶望に陥れる執行官『骸』が施した、強固な精神汚染の結界だった。


「先輩、鍵を!」


 瞬が真鍮の鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。その瞬間、大正時代の古い呪印が刻まれた鍵から、ずっしりとした金属の冷たさと、かつてこの学校で犠牲になった者たちの古い怨念が、瞬の脳内へと逆流した。


「くっ……あ、あぁっ……!」


 瞬が頭を抱えて激しくよろめく。彼の瞳の雛菊の紋様が苦痛に歪み、視界が一時的に暗転する。だが、彼は歯を食いしばり、陽菜を守るという約束を果たすために、渾身の力で鍵を回しきった。


 カチャリ、と重い金属音が響き、美術室の扉がゆっくりと内側へ向かって開かれる。同時に、漆黒の結界が霧散し、私たちの眼前に『精神汚染の画廊』がその姿を現した。


 そこは、もはや見慣れた誠陵高校の美術室ではなかった。


 月光すら届かない異界の空間。床一面には、血のように赤黒い絵の具と泥が渦巻き、壁という壁には、狂気に満ちたタッチで描かれた無数の絵画が飾られていた。そこに描かれているのはすべて、恐怖と絶望に顔を歪ませた誠陵高校の女子生徒たちの顔だった。さらに恐ろしいことに、絵画に描かれた何百もの「目」が、生きているかのようにギョロリと動き、一斉に入り口に立つ私を直視したのだ。


「――ようこそ、私の最高傑作の画廊へ」


 暗闇の奥から、虚ろな目をした美術教師・荒木茂雄の声が響いた。彼の心臓からは、太い黒糸が天井へと伸び、骸の『絶望の脚本』に完全に支配されていることを示していた。だが、荒木先生の姿を確認する間もなく、絵画の目から放たれた強烈な精神汚染の波動が、私の脳髄を直撃した。


「っ……!!」


 悲鳴すら上げられない私の身体が、激しい衝撃に襲われて床に崩れ落ちる。感覚のない右腕が床に叩きつけられ、左手で握っていた『霊糸の鋏』が手元から滑り落ちた。周囲の空間がぐにゃりと歪み、瞬の叫ぶ声が遠ざかっていく。


「先輩! 先輩!!」


 美術室の床から噴き出した黒い絵の具の壁が、私と瞬の間を物理的に引き裂いた。瞬が『鏡子の古い手鏡』を掲げてこちらへ飛び込もうとするが、厚い絵の具の障壁に阻まれ、向こう側へ押し戻される。


 孤立した私の前に、画廊の最深部から、不気味な静寂と共に一人の少女の幻影が這い出てきた。


 その少女は、かつて一ノ瀬家の離婚騒動の中で他界したとされる、私の妹――小春の姿をしていた。だが、その身体は幼いセーラー服を纏いながらも、全身をどす黒い怨念の糸でがんじがらめに縛り付けられ、顔半分が泥のように黒く崩れていた。


「お姉ちゃん……どうして、あの時、何も言ってくれなかったの?」


 小春の影が、私の脳内に直接、耳を劈くような哀痛な声で語りかけてくる。それは、私の心の最深部に眠る、最も深い罪悪感の傷を抉る精神攻撃だった。


「お父さんとお母さんが喧嘩していた時も、私が泣いていた時も、お姉ちゃんはただ黙っていた。お姉ちゃんが声を失って、何も話さなくなったから、みんな壊れちゃったんだよ」


(違う……私は……!)


 弁明しようと喉を震わせるが、声は出ない。一ノ瀬家に代々伝わる『沈黙の血筋』――神の悲劇の託宣を体内に封じ込めるための呪わしい封印が、私の喉を締め上げ、ただかすれた呼気だけが白く漏れる。私の自己嫌悪と罪悪感の感情が深まるほど、小春の影を縛る黒い糸は太さを増し、私の命である銀の霊糸を侵食していく。


「目を覚ませ、小娘! それは本物の妹ではない!」


 私の影から、隻眼の黒蛇おろちが首を覗かせ、必死に脳内に警告を響かせた。彼の煙管から漂うハーブとタバコの甘い匂いが一時的に私の意識を繋ぎ止める。


「あの執行官『骸』が、お前の記憶の澱みをハッキングして作り出した偽物の怪異だ! 幻影に魂を明け渡せば、お前の心臓の糸は奴の糸車に巻き取られ、本当に死に至るぞ!」


 分かっている。これは罠だ。だが、私の内なる罪悪感が、小春の悲痛な叫びを「真実」として受け入れてしまう。私の心魂が自傷を求めるたびに、小春の黒糸はさらに強固になり、私の首元へと蛇のように這い寄ってきた。


「お姉ちゃんのせいで、私は死んだの」


 小春の影が冷たく囁き、その黒い糸が私の首に巻き付いた。物理的な窒息ではない。魂を直接絞め殺すような絶望の圧力が、私の気管を完全に閉塞させる。喉の封印から銀色の血が溢れ、私の口元を汚した。


 床に落ちたハサミに左手を伸ばそうとするが、黒糸の金縛りによって指一本動かすことができない。私の瞳の奥に宿っていた名もなき雛菊の銀色の光が、急速にその輝きを失い、視界が完全な暗闇へと溶け落ちようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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