狂気のキャンバスと地下の鍵
放課後の校舎に漂うのは、単なる夕闇ではなかった。
日が落ちると同時に、誠陵高校の空気は急速に湿り気を帯び、重く澱んでいく。鼻腔を突くのは、古い油絵の具が腐ったような、そして人間の悪意が凝縮されたような、異様で不快な匂いだった。新校舎の美術室がある特別棟の周辺には、すでに一般の生徒には視認できない漆黒の「糸の結界」が幾重にも張り巡らされ、その内部からは、かすかに女子生徒のすすり泣く声が漏れ聞こえていた。
美術教師、荒木茂雄。骸の「狂気の脚本」に魂を汚染された彼は、今や放課後の美術室を独自の檻へと変貌させ、捕らえた女子生徒の「恐怖に歪む表情」をキャンバスに描き続ける怪異と化していた。あの結界を強引に切り裂けば、中に囚われている生徒の命すら保証できない。結界の術式を安全に解錠し、美術室の扉を開くには、旧校舎の最上階に隠されているという「誠陵高校旧校舎の真鍮鍵」が必要だった。
「……っ」
一ノ瀬陽菜は、屋上庭園の隅で拾い上げた黒い園芸用手袋をはめ直し、動かない右手を胸元に引き寄せた。手袋に包まれた右手の人差し指と中指の第一関節は、昨夜の戦いの代償として完全に半透明のガラスと化し、体温を失っている。吐き出す息は、秋の夕暮れとは思えないほどに白く濁り、彼女の周囲の空気だけが、まるで氷を置いたかのように冷え切っていた。
「先輩、あっちです。旧校舎のほうから、すごく嫌な匂いが流れてくる」
傍らに立つ結城瞬が、暗い渡り廊下の先を指差した。彼の瞳の奥――茶色い虹彩のさらに深層で、銀色に輝く小さな雛菊の紋様が微かに明滅している。昨夜、陽菜の硝子の手に触れたことで覚醒した彼の「霊糸感応力」は、まだ未熟であり、急激に流れ込む因果のノイズのせいで、瞬の額には薄い汗がにじみ、こめかみを痛そうに指で押さえていた。
陽菜は左手を伸ばし、瞬の制服の袖を軽く引いた。言葉は発しない。ただ、「無理をしないで」という静かな憂いが、その物憂げな瞳に揺れていた。だが、瞬は無理に笑顔を作り、首を横に振った。
「大丈夫です。先輩を一人で行かせたりしません。僕が、日常の盾になるって決めたんですから」
二人は新校舎と旧校舎を繋ぐ、長い木造の渡り廊下へと足を踏み入れた。一歩進むたびに、床板がギィギィときしむ音を立て、窓の外からは不気味な夜の霧が押し寄せてくる。かつて使われていた旧校舎は、今や立ち入り禁止の廃墟であり、夜間は天照衆の監視の目からも外れた、怪異の温床となっていた。
「待って、先輩! 足元に……!」
旧校舎の一階廊下に差し掛かった瞬間、瞬が鋭い声で陽菜の肩を引いた。陽菜が足を止め、暗闇の床に目を凝らす。瞬の瞳の雛菊が青白く発光し、彼の視線の先――床から数センチメートルの高さに、肉眼では見えない極細の「黒い糸」が、蜘蛛の巣のように張り巡らされているのが見えた。踏めば即座に侵入者を感知し、骸の配下を呼び寄せるトラップだ。
陽菜は無言で頷き、瞬の危険察知能力の正確さに感謝した。彼女は左手だけで通学バッグから『霊糸の鋏』を取り出し、刃を軽く開いた。右手には感覚がないため、すべての操作を左手だけで行わねばならない。銀色の霊糸をハサミの可動部に絡め、宙に浮かせたハサミの刃を、黒いトラップの糸へと滑らせる。
パチィン――。
かすかな火花と共に、黒糸が煙となって消え去った。陽菜は瞬の顔を見つめ、小さく頷く。二人は慎重に黒糸を避け、あるいは切り裂きながら、埃っぽい旧校舎の階段を上り、最上階の理科室へと到達した。
理科室の扉は、黒く変色した古い木製だった。ノブに手をかけると、金属の冷たさが硝子化の進む陽菜の左手にも伝わってくる。この中に、荒木先生の狂気を解くための「真鍮鍵」が隠されているはずだった。
陽菜はハサミを構え、意を決して扉を押し開けた。
キィィィ、と耳障りなきしみ音が静まり返った旧校舎に響き渡る。理科室の内部は、月光が窓から斜めに差し込み、埃を被った解剖模型や実験器具が、不気味な影を床に落としていた。そして、部屋の中央の天井――。
そこに、それは張り付いていた。
人間の赤ん坊の顔を歪ませたような、手足が異様に長い、湿った泥の人形――骸が配置した呪詛人形『赤子』だった。その泥の皮膚は生き物のようにピクピクと蠢き、濁った赤い瞳が、侵入者である陽菜と瞬をじっと見つめていた。
「オギャァァァァァァッ!!!」
次の瞬間、赤子の裂けた口から、鼓膜を直接突き破るような、強烈で不快な産声が放たれた。それは物理的な音ではない。聞く者の脳髄を直接かき乱し、三半規管を破壊する、最悪の精神汚染デバフ魔術だった。
「う、あぁっ……!」
瞬が両耳を押さえ、その場に崩れ落ちた。脳内を直接針で刺されるような激痛に、彼の瞳の雛菊の紋様が激しく乱れ、鼻から一筋の血が流れ落ちる。
陽菜もまた、強烈な眩暈に襲われ、視界が急速に白黒へと染まっていった。立っていることすら困難なほどの重力感が全身を襲う。左手で握っていた『霊糸の鋏』が、カランと虚しい音を立てて床に滑り落ちた。感覚のない右手は、ただ冷たく胸元で固まっているだけだ。
「オギャァァァァッ! オギャァァァッ!」
赤子の産声が二重、三重に重なり、理科室のガラス窓がビリビリと音を立ててひび割れていく。陽菜の喉の奥に施された霊的封印が、この音響ノイズに共鳴し、まるで鉄の枷のように彼女の気管を締め上げた。息が、吸えない。肺から空気が押し出され、銀色の血が喉の奥からせり上がってくる感覚に、陽菜は胸を押さえて激しく咳き込んだ。
(ハサミを……拾わなきゃ……!)
床のハサミに手を伸ばそうとするが、三半規管を破壊された陽菜の身体は平衡感覚を失い、床に倒れ込んでしまう。赤子の赤い瞳が、勝利を確信したように歪んだ。天井から泥の腕が伸び、陽菜の首を絞め上げようと迫る。
「先輩……!」
その時、ボロボロになりながらも、瞬が立ち上がった。彼は耳から血を流しながら、理科室の隅にある理科準備室の重い防音扉に目を留めた。瞬は陽菜の細い身体を両腕で抱きかかえ、床のハサミを引っ掴むと、全力で準備室の中へと滑り込んだ。
バタンッ!!!
理科準備室の厚い木製の防音扉が、大きな音を立てて閉まった。防音構造の壁と扉が、赤子の呪わしい産声を一時的に遮断する。遠くでかすかに響く不協和音。耳鳴りは止まないが、脳を破壊するような激痛は劇的に和らいだ。
「はぁ、はぁ……先輩、大丈夫ですか!?」
瞬が陽菜を床にそっと横たえ、彼女の口元から流れる銀色の血を、自分のエプロンの袖で優しく拭った。陽菜は激しく胸を上下させながら、動かない右手で自身の喉を押さえ、かすれた呼吸を繰り返していた。喉の封印が悲鳴を上げている。筆談のノートを取り出す体力すら、今の彼女には残されていなかった。
「ふん、不甲斐ないな、小娘ども」
準備室の暗闇の中、陽菜の影から、赤い隻眼を光らせた黒蛇おろちが姿を現した。彼は真鍮の煙管から紫色の煙を吐き出し、ハーブの香りで準備室の澱んだ空気を浄化していく。
「あの泥人形は、骸が犠牲者の髪と怨念を練り上げて作った呪いの器だ。物理的な破壊は通用せん。だが、あの赤子の頭頂部を見ろ。天井の裏を通り、準備室のこの壁の隙間を抜けて、お前たちのすぐ近くにある『真鍮鍵』へと繋がる、一本の黒い因果の糸が見えるはずだ」
おろちの言葉に、陽菜は薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、準備室の壁を見つめた。
見えた。壁の隙間から、天井の赤子の頭頂部へと伸びる、どす黒く脈打つ一本の『黒糸』。その黒糸の先には、古い実験棚の引き出しの中に隠された、鈍い黄金色の光を放つ「誠陵高校旧校舎の真鍮鍵」が結びつけられていた。あの黒糸こそが、赤子に無限の怨念を供給している呪いの主軸だった。
(瞬……あの引き出しを……)
陽菜は左手の指先を微かに動かし、実験棚の引き出しを指差した。彼女の無言の意思を、瞬の瞳の雛菊が正確に受信する。
「わかりました。あの引き出しですね」
瞬が駆け寄り、埃まみれの引き出しを強引に引き開けた。中から現れたのは、大正時代の複雑な呪印が刻まれた、重厚な真鍮の鍵だった。鍵が露出した瞬間、壁の黒糸が激しくきしみ、準備室の扉の外で、赤子の産声がさらに狂暴さを増した。防音扉が、泥の爪で激しく引っ掻かれ、メキメキと音を立ててたわみ始める。扉が破られるのは時間の問題だった。
(ハサミを……!)
陽菜は瞬からハサミを受け取り、左手でしっかりと握りしめた。右腕は完全に感覚を失い、氷のように冷たいが、彼女の瞳の奥に宿る「名もなき雛菊の光」は、まだ消えていなかった。
彼女は左手から極細の銀糸を紡ぎ出し、ハサミの刃に絡めた。そして、準備室の壁の隙間から覗く、赤子へと繋がる「黒い因果の糸」に向けて、ハサミの刃を当てた。喉の封印がきしみ、激しい呼吸困難が彼女の身体を蝕む。だが、陽菜は「誰も傷つけさせない」という強い覚悟を胸に、ハサミの刃を力強く閉じた。
パチィン――!!!
銀色の火花が散り、壁の隙間の黒糸が、一瞬にして真っ白な雛菊の花弁へと変化して散り散りに消え去った。骸の呪詛の供給源が、完全に切断されたのだ。
扉の外で、耳を劈くような赤子の最後の絶叫が響き、直後、ズシンと何かが天井から床へ落下する重い音がした。陽菜が扉を少しだけ開けて外を覗くと、天井に張り付いていた異形の赤子は、呪いを失い、ただの無害な濡れた泥の塊となって、理科室の床に崩れ落ちていた。
「……やった、のか?」
瞬が安堵の息を漏らし、引き出しから「旧校舎の真鍮鍵」を慎重に拾い上げた。ずっしりとした金属の重みと、大正時代の古い魔力のきしみが、瞬の手のひらに伝わる。
鍵の奪還には成功した。しかし、陽菜の喉の霊的封印は、赤子の産声を至近距離で浴びたダメージにより、深刻に悪化していた。彼女は激しい眩暈のなかで、瞬の肩にすがりつき、辛うじて意識を保つのが精一杯だった。右腕だけでなく、全身の体温が急速に低下していく感覚に、陽菜の視界が暗さを増していく。
その時だった。
安堵した二人の足元――準備室の床と壁の隙間から、じわりと、黒い『絵の具』のような、粘り気のある液体が染み出し始めた。それはまるで、新校舎の美術室から漏れ出した「荒木先生の狂気」が、地脈を伝ってこの旧校舎にまで侵食してきたかのようだった。黒い液体は、壁を血のように赤黒く染め上げながら、不気味に広がり始めていた。
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