手袋の秘密と見習いの芽
朝の光は、残酷なほどに白く、そして冷たかった。
昨夜の昇降口での死闘――骸の猟犬『黒耳』との戦いから数時間。私は自宅の学習机の前に座り、自分の右手を見つめていた。人差し指と中指の第一関節。そこには皮膚の温もりも、爪の生気もない。ただ、朝日に透ける半透明の、冷徹なまでに美しい硝子が、私の指先を侵食していた。
ハサミを握る。悲劇を切り裂く。その代償が、この硝子化だ。失われた感覚は、どれほど指を擦り合わせても二度と戻らない。
「……っ」
言葉を失った私の喉から漏れたのは、かすれた吐息だけだった。喉の奥に施された霊的な封印が、沈黙を強要するように重くきしむ。私は引き出しの奥から、使い古された『黒い園芸用手袋』を取り出した。手袋の黒い布地が、私の醜い硝子の指先を覆い隠していく。内側に施された微細な緩衝材が、冷え切った硝子の冷気をわずかに和らげてくれたが、それでも右腕全体に漂う冷たい気配までは消せなかった。
セーラー服の袖を整え、私は手袋をはめた右手を庇うようにして、冷え切ったアパートを出た。
通学路を行き交う生徒たちの喧騒をすり抜け、誠陵高校の正門をくぐる。私の視界には、未だに学校全体を包囲しようとする骸の『黒い蜘蛛の糸』がうっすらと見えていた。だが、昨夜その一本を切り裂いた影響か、糸の浸食は一時的に停滞している。
昇降口に足を踏み入れた瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。視線が、自然と北側の下駄箱へと向かう。
そこには、猫背のまま立ち尽くす一人の少年がいた。織原景斗――ケイト。クラスでの陰湿ないじめに絶望し、自殺の脚本に囚われかけていた少年だ。
ケイトは震える手で、自分の下駄箱を開けた。その中には、私が昨夜命をかけて届けた、一輪の白い雛菊と、手書きの押し花カードが静かに収められていた。
ケイトがカードを手に取る。そこには、私の拙い文字で、ただ一言だけ、雛菊の花言葉が綴られていた。
――『ありのままの希望』。
その瞬間、ケイトの胸元でどくどくと脈打っていた不気味な黒い因果の糸が、目に見えて縮み、その凶暴な脈動を失っていくのが見えた。ケイトの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。彼は雛菊を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめ、それから、小さく、だが確かに頷いた。生きることを諦めないという、無言の意思表示だった。
(よかった……)
胸の奥が、温かい安堵感で満たされる。言葉を話せない私が、誰かの生きる理由になれた。その喜びが、右手の硝子の冷たさを一瞬だけ忘れさせてくれた。
しかし、その安堵はすぐに、張り詰めた日常の緊張感へと引き戻される。
「一ノ瀬先輩」
廊下の角を曲がったところで、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには癖のある茶髪を揺らした少年が立っていた。園芸部の後輩であり、私を「先輩」と慕う唯一の理解者、結城瞬だ。
「おはようございます。あの……右手、どうしたんですか?」
瞬の視線が、私の右手の黒い手袋に注がれる。室内だというのに手袋をはめている不自然さに、彼は気づいていた。私は慌てて、右手を通学バッグの陰に隠し、左手だけで小さく手を振った。「なんでもない」という、いつものジェスチャー。
だが、瞬は納得していないようだった。彼は私の顔をじっと見つめ、小さく鼻を鳴らした。
「……先輩の周り、すごく冷たい匂いがします。それに、息が……」
瞬の指摘に、私はハッとして口元を隠した。まだ秋の入り口だというのに、私が吐き出す息は、まるで極寒の冬の日のように白く濁っていたのだ。硝子化した右手から伝わる冷気が、私の体温を急激に奪い、体温はすでに三十度近くまで低下している。
私は小さく首を横に振り、瞬の視線から逃げるようにして教室へと急いだ。背中に突き刺さる彼の心配そうな視線が、痛いほどに痛かった。
昼休み、私は廊下を歩いている途中で、新校舎の最上階にある『誠陵高校・カウンセリングルーム』の前に差し掛かった。開いた扉の隙間から、柔らかい日差しとハーブの香りが漂ってくる。
「陽菜ちゃん、少し休んでいかない?」
声をかけてきたのは、スクールカウンセラーの白石鏡子先生だった。彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、私の黒い手袋をはめた右手を、鋭く、しかし深く案じるような眼差しで見つめていた。
鏡子先生が淹れてくれた温かいハーブティーを受け取る。その温もりが、手袋越しに硝子の指先へと伝わる。彼女が「先代の調律者」であることは、まだこの時の私は確信していなかった。けれど、彼女の前にいる時だけは、私の喉のきしみが和らぎ、冷え切った心が一時的にリセットされるような感覚があった。
「無理はしないでね。あなたが背負おうとしているものは、一人で抱えるには重すぎるのだから」
鏡子先生の静かな言葉が、私の胸に重く沈殿する。私はただ、無言でカップを握りしめることしかできなかった。
放課後。
私は一人、日常の避難所である屋上庭園へと向かった。錆びついたフェンスを越え、放置されたプランターの並ぶハーブ園に立つ。夕暮れのオレンジ色の光が、私の黒い手袋を赤銅色に染め上げていた。
左手だけでジョーロを持ち、雛菊の苗に水をやる。右手はポケットの中に深く押し込んだままだ。おろちは私の影の中で静かに眠り、煙管の甘い匂いだけが微かに漂っている。
「一ノ瀬先輩。やっぱり、ここにいた」
静寂を破って、瞬が屋上庭園に現れた。彼はエプロンをつけたまま、真剣な表情で私に近づいてくる。
「先輩、もう隠さないでください。朝からずっと右手を庇ってる。それに、その手袋……園芸用にしては長すぎるし、不自然です。僕に言えないような、酷い怪我をしたんですか?」
瞬の言葉には、怒りよりも、私を一人にしていることへの焦燥感と、深い心配が満ちていた。私は一歩後退り、左手で通学バッグからノートを取り出そうとした。筆談で、彼を遠ざけるための嘘を書こうとしたのだ。
――その時だった。
屋上を、突発的な突風が吹き抜けた。風はハーブの葉を激しく揺らし、私のセーラー服の襟をはためかせる。
そして、私の右手のポケットから滑り落ちかけていた、黒い手袋の緩いカフスを、風が無慈悲に拐っていった。
「あ……」
声にならない悲鳴が、私の喉で潰れた。手袋が風に舞い、屋上のコンクリート床を転がっていく。
遮るもののなくなった、私の右手が、夕暮れの光の中に晒された。
瞬の動きが、完全に凍りついた。彼の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
オレンジ色の落日に照らされた私の右手。人差し指と中指の第一関節。それは、血の通った人間の皮膚ではなかった。夕日を浴びて、赤銅色の光を複雑に屈折させる、完全に透き通った『半透明の硝子』。
そこには、指紋も、爪の生気もない。ただ、冷酷なまでに美しい硝子の彫像のような部位が、私の身体の一部として存在していた。
「先輩……それ、何、ですか……?」
瞬の声が震えていた。恐怖、驚愕、そしてそれ以上の困惑が彼を支配している。
私は、自分が化け物になってしまったかのような激しい自己嫌悪に襲われた。他者を救うために、自分自身が壊れていく。この醜い硝子の腕を見せれば、誰もが私を恐れ、遠ざかるに違いない。瞬だって、同じはずだ。
私は硝子の右手を隠すように胸元に抱きしめ、瞬から視線を逸らして、屋上の出口へと走り出そうとした。逃げなければ。この孤独な呪いの中に、彼を巻き込むわけにはいかない。
しかし、私の足が扉に届く前に、背後から力強い足音が迫った。
「逃げないでください!」
瞬が私の行く手を阻むように前に回り込み、逃げようとする私の右手を、両手でがっしりと掴み取った。
「冷たっ……!?」
瞬が息を呑む。彼の温かい手のひらが、私の凍てつくような硝子の指先に触れた瞬間、氷を押し当てられたかのような強烈な冷気が彼を襲ったはずだ。だが、瞬はその手を決して離さなかった。むしろ、私の硝子の指先を温めるように、さらに強く握りしめた。
「こんなに冷たい……先輩、一人で、こんな身体になってまで、あの黒い糸と戦ってたんですか? 織原くんを救うために、自分の身体を削ったんですか!?」
彼の問いかけが、私の胸を激しく揺さぶる。なぜ、恐れないの。なぜ、化け物になった私を、そんなに優しい目で見つめるの。
言葉にできない感情が、私の喉の奥で嵐のように渦巻く。喋りたい。伝えたい。けれど、私の声帯は固く閉ざされたままだ。
(――なら、糸で伝える)
私は覚悟を決め、左手から極細の銀色の『霊糸』を紡ぎ出した。銀糸はハープの弦のように微かに青白く発光しながら、瞬の指先へと絡みついていく。一ノ瀬一族に伝わる特殊伝達術――『無音の対話(サイン・ランゲージ)』の起動だった。
銀糸が微細に振動を始める。その振動波が、瞬の皮膚を通じて、彼の脳内へと私の「言葉なき想い」をダイレクトに投影していった。
『お願い、瞬、私から離れて……』
私の声のイメージが、瞬の頭の中に直接響き渡る。私の孤独、硝子化していく肉体への恐怖、そして、彼を悲劇の因果に巻き込みたくないという、張り裂けんばかりの拒絶の想い。
『このハサミは運命を切り裂くけれど、使うたびに私の身体を硝子に変えていく呪いなの。これ以上私に関われば、あなたまで天照衆や怪異に狙われる。私は一人でいい。名もなき花のように、静かに消えていけばいいの……!』
私の魂の叫びが、銀糸を通じて瞬の精神を揺さぶる。その衝撃に、瞬は一瞬だけ苦しそうに眉をひそめた。だが、彼の瞳から、決意の光が消えることはなかった。
「嫌です」
瞬は私の硝子の指先を見つめながら、はっきりと、力強く言った。
「先輩が一人で消えていくなんて、絶対に認めません。僕の命は、先輩がくれた『花言葉カード』に救われたんです。あの時、先輩が僕の絶望を繋ぎ止めてくれたから、今の僕がある」
瞬の手の温もりが、硝子の指先を通じて、私の凍てついた心臓へと染み込んでくる。等価交換の呪いを打ち破るような、圧倒的な人間の温もり。
「先輩が他人の悲劇を切り裂く盾になるなら、僕は、先輩の日常を守る盾になります。硝子化の代償を止める方法が今は分からなくても、一人で背負わせたりしない。僕を、先輩の『見習い』にしてください」
その言葉は、私の沈黙の孤独を、根源から打ち砕く光だった。他者を巻き込みたくないという私の頑固な拒絶が、彼の「先輩を一人にしない」という純粋な執念の前に、静かに崩壊していく。
瞬が、私の硝子の指先に、そっと自身の親指を重ね合わせた。
その瞬間――。
瞬の瞳の奥、茶色い虹彩のさらに深層で、銀色に輝く小さな雛菊の紋様が微かに発光した。彼の眠っていた霊糸感受性が、私の銀糸と同調し、覚醒の産声を上げたのだ。
「う、あ……っ」
瞬が小さく呻き、頭を押さえた。彼の脳内に、普段は一般人には聞こえない、世界を満たす「見えない霊糸」の微細なノイズが、濁流のように流れ込んでいく。それは美しくも不気味な、因果のささやきだった。
夕暮れの屋上庭園で、私と瞬は銀色の糸で固く結ばれていた。孤独だった私の戦いに、初めての「芽」が息吹き、小さな結び目が生まれた瞬間だった。
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