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一輪咲きと銀の血痕

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種子が床に触れた瞬間、銀色の霊糸が激しく回転を始め、空間に巨大な光の渦が巻き起こった。その渦の中から、泥臭くも神聖な軍靴の音が響き、明治時代の志願兵の輪郭を持つ、小さな、しかし頑強な影が実体化し始める――!


「我が主(あるじ)よ。これより、御身の盾とならん」


 声は発せられない。だが、私の脳裏に直接、その花霊が抱く強固な忠誠心が流れ込んできた。私の命を吸って紡がれたその意思は、どこまでも純粋で、そして狂おしいほどに真っ直ぐだった。


 白銀の光の霧が晴れる。そこに立っていたのは、雛菊の紋様が刻まれた古い軍服を纏った、小柄な少年兵の姿だった。彼の瞳には生気はなく、ただ透き通るような忠誠の光だけが宿っている。その手には、刃先が黒ずんだ『錆びた突撃槍』がしっかりと握られていた。


 ガルルルルッ!


 影の猟犬『黒耳』が、突如出現した花霊に敵意を剥き出しにし、不気味な咆哮を上げた。影の霧でできた巨体がしなり、コンクリートを鋭く引っ掻きながら跳躍する。黒い突風が、昇降口の冷たい空気を引き裂きながら、私を目がけて一直線に迫る。


(防いで、雛菊!)


 私の言葉にならない悲痛な叫びを、左手の指先に繋がれた銀の霊糸が、微細な振動波となって少年兵に伝える。


「はっ!」


 雛菊の兵士は錆びた突撃槍をコンクリートの床に深く突き立てた。瞬間、彼の前方に向かって、巨大な雛菊の真っ白な花弁が幾重にも重なり合う、半透明の銀色の防壁――『雛菊の盾』が展開される。花弁の一枚一枚が、私の抱く「ケイトを救いたい」という『ありのままの希望』と同調し、神聖な輝きを放っていた。


 直後、黒耳の影の爪が、激しい音を立ててその盾に激突した。


 キィィィン! ギギギギッ!


 激しい金属のきしみのような音が昇降口に響き渡り、暗闇を白銀の火花が切り裂く。黒耳の爪が放つ漆黒の怨念と、雛菊の盾が放つ清らかな霊力が、互いを消し去ろうと激しくせめぎ合っている。黒い霧と銀色の光の粒子が、嵐のように周囲に吹き荒れた。


「くっ……!」


 私は喉の奥で息を詰まらせた。肺が急激に収縮し、まるで酸素を奪われたかのような激しい息苦しさに襲われる。


 花霊を現世に維持するだけで、私の体から極細の銀糸が絶え間なく引き出され、凄まじい勢いで霊力を貪っていくのだ。頭痛が激しさを増し、視界が急速に白黒に染まっていく。立っていることすら困難なほどの眩暈が、私の細い身体を揺さぶった。


 さらに、黒耳が盾を叩くたびに、その霊的な衝撃が、ハサミを握る私の右手の指先へと直接フィードバックされてきた。人差し指の先は、凍てつくような冷気と感覚の麻痺に襲われ、すでに爪の形すら白く濁り始めている。等価交換の代償――私の肉体を硝子へと変える呪いが、きしみを上げて侵食を進めているのだ。


「何を怯んでいる、小娘。維持限界は近いぞ」


 私のエプロンのポケットから、おろちが冷ややかに囁いた。咥えた煙管から吐き出された紫色の煙が、ハーブとタバコの甘く退廃的な匂いを漂わせながら、私の視界の端で揺らめく。


「あの影の獣をいくら叩こうと、実体を持たぬ。奴の影の奥を見ろ。歌舞伎町の『骸』が紡いだ、黒い因果の糸が這っているはずだ。その結節点を切り裂かねば、あの猟犬は何度でも泥から這い上がるぞ」


 おろちの指示に従い、私は激しい偏頭痛に耐えながら、灰色の世界の中で目を凝らした。


 見えた。


 黒耳の影の核――胸の奥で蠢く不気味な黒い結晶から、空に向かって伸びる一本の太い『黒い因果の糸』。それは学校の天井を突き抜け、新宿の夜空の向こうへと、蛇のようにうねりながら繋がっていた。あの糸こそが、ケイトを自殺へと誘う骸の脚本の導火線であり、この猟犬の命綱だ。


(雛菊、敵を抑えて!)


 私の無言の意思に応え、雛菊の兵士が盾を消滅させると同時に、地を這うような鋭い突進を見せた。


「一途な突撃――!」


 少年兵は錆びた突撃槍を黒耳の影の肉体に深く突き刺し、その巨体を昇降口のコンクリート床へと力ずくで縫い留めた。物理的な質量を持たないはずの影の獣が、花霊の神聖な霊力によって実体化させられ、床に固定される。


 ギャァァァッ!


 黒耳が絶叫し、影の霧を激しく飛散させながら狂暴に暴れ回る。しかし、兵士の泥臭き執念が、怪異の再生を完全に封じ込めていた。


 今しかない。


 私はよろめきながらも一歩を踏み出した。感覚を失いつつある右手に全神経を集中させ、錆びついた黒鉄の『霊糸の鋏』を構える。左手でハサミの可動部を支え、震える指先で、黒耳の胸から伸びる黒い因果の糸を刃の間に挟み込んだ。


(これで、終わらせる……!)


 私は、自身の心臓の鼓動と同調させるように、ハサミの刃を力強く閉じた。


 パチン――!


 昇降口に、硬く冷たい金属音が響き渡る。


 瞬間、ハサミの刃から眩いばかりの銀色の火花が爆発的に吹き出した。切り裂かれた黒い因果の糸が、バチバチと音を立てて激しくのたうち回り、一瞬にして灰となって霧散していく。骸が仕組んだ悲劇の脚本の一部が、物理的に切断されたのだ。


「ガ、ア、ア、ア、ア、ア――!」


 主との繋がりを断たれた黒耳は、断末魔の叫びを上げながら、影の肉体がボロボロと砂のように崩れ去り、完全に消滅した。周囲に立ち込めていた水銀のような澱んだ霧も、嘘のように晴れていく。


 雛菊の兵士もまた、役目を終えたように私を振り返り、静かに一礼した。その身体が真っ白な花弁の粒子となって、夜の空気の中に優しく融けていく。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 私は崩れ落ちるように膝をついた。激しい疲労感と、喉の奥から込み上げる銀色の血の味が、私の口内を支配する。あまりの霊力消費に、肺が悲鳴を上げていた。


 ふと見ると、私の指先から滴り落ちた銀色の血痕が、下駄箱の冷たいコンクリート床に微かに染み込んでいた。それは、一般の人間には見えない微弱な銀の光を放ちながら、学校の地脈のノイズと静かに共鳴し始めている。だが、今の私には、それを拭い去る体力すら残されていなかった。


 それ以上に、私の目を釘付けにしたのは、自分の右手だった。


 ハサミを握り締めていた右手の人差し指と中指の先。


「……ッ」


 息が止まる。


 雲の切れ間から差し込んだ月の光が、私の手元を青白く照らしていた。


 そこに、人間の皮膚の温もりはなかった。血の通う赤みも、爪の生気も失われている。


 右手の人差し指と中指の第一関節までが、色素を完全に失い、硬質で冷酷な、半透明のガラスへと変質していた。指を曲げようとしても、まるで冷たい異物を押し付けられているかのように硬く、何の感覚も返ってこない。


 等価交換の代償。運命を切り裂いた対価として、私の肉体は、確実に、そして不可逆的に硝子へと侵食され始めていたのだ。


 静まり返った昇降口で、私はただ、月の光に透ける自分の硝子の指先を、声もなく見つめ続けていた。

HẾT CHƯƠNG

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