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深夜の下駄箱と影の猟犬

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午前二時。世界が寝静まり、闇が最も深く澱む時間。都立誠陵高校の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。雨は上がったものの、湿ったアスファルトからは冷たい霧が立ち上り、月光をぼんやりと遮っている。


 私は、守衛の巡回ルートと防犯カメラの死角を縫うようにして、北側昇降口の錆びついた扉の前に滑り込んだ。あらかじめハッカーの佐藤くんにカメラの映像を数分間だけループさせてもらっている。私に許された時間は、極めて短い。


 キィ、と微かな軋み音を立ててアルミサッシの扉を開ける。足を踏み入れた昇降口は、冷えたコンクリートと砂埃、そして無数の生徒たちの履物が放つ、生活感の混ざった独特の匂いに満ちていた。


「……っ」


 右手の指先に、ツンとした冷たい痛みが走る。セーラー服のエプロンの下、絆創膏を巻いた人差し指の先は、すでに感覚を失いかけていた。大正時代の調律者たる一族の血を覚醒させ、おろちと血の誓約を交わした代償――私の肉体を硝子へと変える呪いは、着実に私の身体を侵食している。冷え切った指先を庇うようにして、私は左手で通学バッグから一枚の手作りのカードを取り出した。


 それは、私が夜な夜な学習机で、祖母から教わった押し花の技術を用いて作った『花言葉のメッセージカード』だった。和紙の台紙に、真っ白な雛菊の一輪が丁寧に押し花にされている。その横には、私のぎこちない手書きの文字が添えられていた。


『ありのままの希望を、あなたに。生きて』


 言葉を話せない私には、いじめに絶望し、骸の「自殺脚本」に囚われかけているケイトを言葉で救うことはできない。声を失ったトラウマが、私の喉を物理的に締め付けるからだ。だからこそ、このカードに私の魂の震えを、銀色の糸と共に縫い込んだ。


 ケイト――織原景斗の下駄箱を探す。カーストの最底辺に追いやられた彼の靴入れは、隅の最も目立たない場所にあった。落書きや埃で汚れたその下駄箱の隙間に、私はそっとカードと、庭園で摘んできたばかりの新鮮な雛菊の生花を滑り込ませた。カサリ、と静かな音が暗闇に響く。


(これで、彼の心魂に希望の楔が打ち込まれれば……骸の呪縛が弱まるはず)


 そう安堵した、まさにその瞬間だった。


 昇降口の空気が、一瞬にして凍りついた。


 ただの夜の冷気ではない。それは、水銀のようにどろりとした、霊的な不純物を孕んだ「一界層」の歪み。現実世界の境界線が融け、ネオンの裏側に潜む異界の闇が、足元から染み出してくるのが分かった。床に溜まった水たまりのような影が、意思を持つかのように波打ち、急速に広がっていく。


 グゥゥゥゥ……。


 地を這うような、不気味な獣の唸り声が暗闇の奥から響いた。冷たいコンクリートを、鋭い爪が引っ掻く乾いた音が近づいてくる。心臓が、早鐘のように肋骨の裏を叩き始めた。私は恐怖で喉を鳴らそうとしたが、緘黙症の呪縛によって、かすれた呼気しか外に出せない。


「おい、小娘。のんびり手紙を届けている場合ではないぞ」


 私の脳内に直接、おろちの冷ややかで退廃的な声が響いた。私のエプロンのポケットから、隻眼の黒蛇がするりと首を覗かせ、咥えた煙管から紫色の煙を燻らせる。


「奴の猟犬だ。お前の放つ『調律者』の銀糸の匂いを嗅ぎつけて、歌舞伎町の深淵から這い上がってきたな」


 おろちの隻眼が見つめる先――中央階段の下に広がる巨大な影の中から、その怪異は姿を現した。


 骸の猟犬、『黒耳』。全身が漆黒の影の霧で形成された、異様な巨体を持つ獣。実体を持たず、輪郭が常に煙のように揺らめいているが、その瞳だけは、血のように赤く爛々と輝いている。裂けた口からは、影でできた鋭い牙が覗き、どろりとした絶望の粘液が床に滴り落ちていた。


 ガルルルッ!


 黒耳が咆哮を上げた。物理的な音ではない。それは、魂を直接揺さぶる「絶望の叫び」。昇降口のガラス窓が激しく振動し、私の耳の奥にキィンと不快な金属音が突き刺さる。脳髄を直接掻き回されるような激しい偏頭痛が、私を襲った。


 次の瞬間、黒耳が床を蹴った。影の獣とは思えないほどの圧倒的な質量と速度。黒い突風が、私に向けて一直線に迫る。


(――動け!)


 私は必死に、感覚のない右手ではなく、左手を前に突き出した。指先から極細の銀色の霊糸を射出し、周囲の下駄箱の角に繋いで『糸の結界』を展開する。不可視の蜘蛛の巣のような防壁が、私たちの間に張られた。


 しかし、黒耳の鋭い爪が一閃した。バチィィン! と激しい火花が散り、私の紡いだ銀糸は、いとも簡単に切り裂かれた。結界が破壊された霊的な反動が、私の左腕を直撃する。激痛に耐えかねて、私は横の金属製ロッカーに激しく身体を叩きつけられた。セーラー服の袖が裂け、左肩に鈍い痛みが走る。


「無駄だ。実体のない影の獣に、仮初めの結界など通じぬ」


 おろちが私の耳元で冷酷に囁く。黒耳は倒れた私を見下ろし、赤い瞳をさらに凶暴に輝かせながら、その鋭い牙を私の首元へと近づけてきた。息が詰まる。死の気配が、肌を突き刺すように冷たい。


(嫌……まだ、死ねない。ケイトを救うと、約束したから!)


 私は震える左手をエプロンのポケットに突っ込んだ。指先が触れたのは、錆びついた黒鉄の『霊糸の鋏』、そして、私が屋上庭園で丹精込めて育てた『雛菊の種子』。


「小娘、魂を編め。死者の未練を花の生命に宿し、お前の『希望』を具現化するのだ。それこそが花霊調律術の第一歩」


 おろちの声が、私の脳内で爆発するように響いた。私は覚悟を決め、声にならない叫びを喉の奥で震わせた。


 左手で雛菊の種子を掴み出し、自身の指先から溢れ出る銀色の霊糸を、その種子の芯へと強引に接続する。私の命の輝きが、種子を通じて急速に脈打ち始める。感覚のない右手を無理やり動かし、ハサミの錆びついた刃の間に、その霊糸の繋がった種子を挟み込んだ。


 黒耳が、私の喉首を噛みちぎろうと、大口を開けて飛びかかってくる。至近距離に迫る、影の牙。


 私は、左手に全霊力を込め、ハサミの刃を力強く閉じた。


 パチン――!


 静寂を切り裂く、乾いた金属音。切断された銀糸の先端から、眩いばかりの光の粒子が吹き出した。私はその発光する種子を、迫り来る黒耳の影の肉体に向けて、全力で投げつけた。


 種子が床に触れた瞬間、銀色の霊糸が激しく回転を始め、空間に巨大な光の渦が巻き起こった。その渦の中から、泥臭くも神聖な軍靴の音が響き、明治時代の志願兵の輪郭を持つ、小さな、しかし頑強な影が実体化し始める――!

HẾT CHƯƠNG

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