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黒い糸と死の脚本

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誠陵高校の朝は、いつも灰色に濁っている。


 二年生の教室、二組の片隅で、私――一ノ瀬陽菜は静かに机に向かっていた。周囲で行き交う他愛のない笑い声や、教科書をめくる乾いた音。そのどれもが、私を避けるようにして通り過ぎていく。極度のストレスから声を失った「緘黙症」の少女。それが、この箱庭における私の記号だった。誰も私に話しかけないし、私もまた、誰の領域にも踏み込まない。


 ただ、昨日までと決定的に違うものが、私の右手にあった。


(……冷たい)


 セーラー服の袖から覗く右手の人差し指。その指先が、微かに硬質化している。爪の付け根から第一関節にかけて、皮膚が色素を失い、まるで安物のガラスのように半透明に変質していた。触れても、そこだけ自分の肉体ではないような、奇妙な拒絶感が指先に残る。


 園芸倉庫で錆びついた『霊糸の鋏』を握り、隻眼の黒蛇・おろちと交わした「血糸の誓約」。他者の悲劇を切り裂く代償として、私の肉体は硝子へと変わっていく――おろちの警告は、決して脅しではなかったのだ。


 絆創膏をきつく巻き、その冷たさを隠す。その時、教室の引き戸が乱暴に開いた。冷たい朝の空気と共に、カーストの上位に君臨する赤城駿太と、その取り巻きたちが騒がしく入ってくる。


「おいおい、今日も陰気なツラしてんなぁ、織原ぁ」


 赤城がニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべ、一人の少年の机を蹴り飛ばした。ガタガタと大きな音が響き、周囲の生徒たちが一瞬だけ視線を向ける。だが、誰も止めようとはしない。教師さえも見て見ぬふりをする、この教室の冷酷な「秩序」がそこにあった。


 机を蹴られた少年――ケイト(織原景斗)は、痩せた背中をさらに丸め、机にへばりつくようにして俯いていた。いじめの傷を隠すための長袖の制服が、微かに震えている。


 そのケイトの胸元を見た瞬間、私の瞳の奥が、鋭い痛みを伴って熱を帯びた。


(あれは……)


 霊糸感応力が覚醒した私の視界に、異形な光景が映し出される。


 ケイトの心臓の奥から、太く、どす黒い油に塗れたような「黒い糸」が伸びていた。それは血管のように脈打ちながら、彼の身体をがんじがらめに縛り付け、窓の外へと伸びている。黒糸の先は、新宿の澱んだ空の向こう――歌舞伎町の闇に潜む、運命の執行官「骸」の手元へと繋がっているのだ。


「おい、聞こえてんのかよ、ゴミ」


 赤城がケイトの頭を乱暴に小突き、彼の手元にあったノートを奪い取って破り捨てた。ひらひらと教室の床に舞い散る白い紙切れ。その瞬間、ケイトの胸の黒糸が、どくどくと不気味に脈打って太さを増した。彼の「死にたい」という絶望が、黒糸を通じて骸の脚本へと吸い上げられていく。


 キィィィン――。


 私の通学バッグの中で、隠し持っていた『霊糸の鋏』が、激しい共鳴音を立てた。耳の奥を直接針で刺されるような高い金属音。それは、悲劇の因果を切り裂けと、私の本能に訴えかけているようだった。


(助けなきゃ……)


 私は無言のまま席を立ち、ケイトの元へ歩み寄ろうとした。せめて、彼の絶望を繋ぎ止めるための何かを。声を失った私にできることは少ない。それでも、彼の衣服を引っ張り、この呪われた連鎖から引き離そうと手を伸ばした。


 だが、その指先がケイトに届く直前、赤城の取り巻きの一人が、わざとらしく私の肩にぶつかってきた。


「っと、わりぃ。一ノ瀬か。おい、ゴミに近づくと病気がうつるぞ?」


 下卑た笑い声が教室に響く。周囲の生徒たちの冷淡な視線が、見えない壁となって私とケイトの間に立ちふさがった。教室のカーストという強固な同調圧力が、私の物理的な介入を完全に拒絶する。


 その瞬間、ケイトの黒糸から溢れ出た生の絶望の波形が、私の指先をかすめた。


「うっ……!」


 脳髄を直接泥水で満たされるような、強烈な吐き気と悪寒。言葉にならない悲鳴が喉の奥でつかえ、私は激しい偏頭痛に襲われてその場に膝をつきそうになった。視界が急速に白黒に染まっていく。これが、他者の絶望を直視した調律者が支払う、精神的な「代償」の重さだった。


「なんだよ、気味の悪い……行こうぜ、赤城」


 赤城たちは私を忌々しそうに見下ろし、ケイトを置き去りにして教室を出て行った。私はこめかみを押さえながら、なんとか自分の席に戻ることしかできなかった。机に突っ伏したケイトの背中からは、さらに太くなった黒糸が、死神の触手のように這い回っていた。


 放課後。


 頭痛が引かないまま、私はいつもの避難所である「屋上庭園」へと逃げ込んだ。夕暮れの光が、放置されたハーブや雛菊の花弁を赤銅色に染めている。風に乗って漂う土の匂いだけが、私の荒んだ心を辛うじて繋ぎ止めていた。


「一ノ瀬先輩……?」


 園芸倉庫の前でスコップを持っていた結城瞬が、私に気づいて駆け寄ってきた。癖のある茶髪に、少し大きめの園芸エプロン。彼は、かつて私の無言の花言葉カードに救われたと言い、私を「先輩」と慕って影から支えてくれる、唯一の生身の人間だった。


「顔色がすごく悪いです。また……頭痛ですか? 右手、どうしたんですか?」


 瞬の鋭い視線が、私が無意識に庇っていた右手に向けられる。私は慌てて、指先の絆創膏を隠すように手を後ろに回した。声を出す代わりに、小さく首を横に振る。「大丈夫」という、いつもの嘘のジェスチャー。


 瞬は心配そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。彼の瞳の奥には、微かな霊糸の感受性が芽生えつつある。私が纏う不穏な気配を、彼は本能的に察しているのだろう。


 ニャー、と静かな鳴き声が響いた。


 屋上庭園の煉瓦の塀の上に、いつの間にかオッドアイの黒猫――チビが座っていた。右目が金、左目が青。普通の人間には見えない「霊糸」を視認する、おろちの使い魔。チビは私をじっと見つめた後、その首に巻かれた鈴をチリンと鳴らし、学校のシンボルである「時計塔」を鋭い視線で指し示した。


 ハッとして時計塔を見上げる。夕闇の霧の向こう、時計塔の文字盤の周囲に、教室で見たケイトの黒糸が、まるで巨大な首吊りロープのように幾重にも巻き付いているのが見えた。時計の針が刻む一秒一秒が、彼の命を削るカウントダウンの音に聞こえる。


『くくく……やはり、あの餓鬼の余命は残り僅かのようだな』


 私の脳内に直接、低く退廃的な声が響き渡った。園芸倉庫の影から、赤い隻眼を光らせた黒蛇・おろちが這い出てくる。おろちは咥えた煙管から紫色の煙を燻らせ、冷笑的な笑みを浮かべた。


『執行官・骸の脚本は完璧だ。あの少年に「いじめ」という舞台装置を配し、絶望を極限まで熟成させ、最後はあの時計塔から美しく飛び降りさせる。お前がそのハサミで黒糸を切らぬ限り、奴は百パーセントの確率で死ぬぞ』


 おろちの隻眼が、私のガラス化した右手の人差し指を舐めるように見つめる。


『だが、因果を切り裂けば、世界はお前にさらなる代償を求める。右腕が完全に硝子となり、砕け散る恐怖に、お前は耐えられるか?』


 私は、エプロンのポケットの中にある『霊糸の鋏』をそっと握りしめた。冷たい鉄の感触が、私の手のひらに冷酷な覚悟を促す。声を失った私には、言葉で彼を救うことはできない。無防備に介入すれば、彼の壊れかけた精神を完全に崩壊させるか、あるいは骸の追っ手を引き寄せるだけだ。


(言葉が届かないなら……花を届ける)


 私は日誌に記された調律の基礎を思い出す。直接切り裂くのが無理なら、まずは間接的に、彼の心魂に「希望の楔」を打ち込む。深夜、誰もいなくなった昇降口の下駄箱に、一輪の雛菊と、私の想いを綴った花言葉カードを忍び込ませるのだ。それしか、彼の運命を繋ぎ止める方法はない。


 その決意を固めた瞬間だった。


 屋上から見下ろす中庭。放課後の静まり返った校門へ向かって、ケイトが力なく歩いていく姿が見えた。彼の背中は、まるで死神に操られる操り人形のように不自然に突っ張っている。


 ケイトが、ふと足を止めた。


 彼はうつろな瞳で、ゆっくりと、時計塔を見上げた。その瞳には、光が一切宿っていない。ただ、深い深淵のような絶望だけが、その瞳に吸い込まれていく。


 次の瞬間、私の視界が、黄金の不気味な光で埋め尽くされた。


 ケイトの頭上の空間がぐにゃりと歪み、そこから巨大な、血に染まった羊皮紙のような「黄金の脚本」が音もなく出現したのだ。そこに刻まれた、運命神が定めた冷酷な文字。


『織原景斗――時計塔ヨリ投身自殺』


 黄金の文字が妖しく明滅し、ケイトの心臓の黒糸が、爆発的な勢いで時計塔の頂上へと巻き上がっていく。悲劇のシナリオの、強制執行が始まったのだ。

HẾT CHƯƠNG

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