屋上の対峙と無音の欺瞞
朝霧が、校舎の窓を白く塗り潰していた。湿った冷気が廊下のコンクリートを濡らし、登校する生徒たちの足音を鈍く吸い込んでいく。
新校舎特別棟の廊下。私と瞬の前に立ちふさがった転校生、日向翔の瞳は、底知れない冬の湖のように澄み渡り、そして冷たかった。
「君が、一ノ瀬陽菜さんだね」
少年の声は、鈴の音のように清らかでありながら、有無を言わせぬ絶対的な「秩序」の重みを孕んでいた。彼の周囲を漂う黄金の霊糸が、私の通学バッグの中で眠る『霊糸の鋏』と共鳴し、キィンと耳障りな高音を奏でる。バッグの布地越しに、ハサミが激しく震えているのが、私の硝子化していない左手の指先に伝わってきた。冷や汗が背中を伝う。
翔の視線が、私の右腕を覆う黒い園芸用手袋へと落とされる。手袋の下――右手先から肘の手前まで完全に半透明の硝子と化し、一切の温もりを失った私の肉体。白真珠の軟膏によって激痛こそ抑えられているものの、硝子の奥から絶えず放出される冷気は、私の体温を奪い続けている。吐き出す息が、朝霧に混ざって白く濁った。
「ちょっと、君。朝から先輩を呼び止めて、何の用?」
瞬が私の前に一歩踏み出し、翔を牽制するように鋭い視線を向けた。瞬の瞳の奥で、微かに銀色の雛菊の紋様が揺れる。昨夜の激戦を経て覚醒した彼の『霊糸感応力』が、日向翔の異常な強さを察知しているのだ。瞬の制服の右ポケットには、骸の魔力が残る『呪いのキャンバスの残片』が隠されている。もし翔の黄金の糸に探知されれば、一瞬で私たちが「因果のバグ」の容疑者として確定してしまう。
「怪しい者じゃないよ。ただ、園芸部の活動に興味があってね。屋上庭園を案内してくれないかな、一ノ瀬さん」
翔は爽やかな笑みを浮かべたが、その瞳の奥は一切笑っていなかった。彼は私の黒い手袋を見つめたまま、静かに右手を差し出す。その指先から、極細の黄金の糸が、まるで獲物を探る触手のように、私のバッグへ向かって音もなく伸びていくのが見えた。
――ハサミの金属反応と魔力波形が検知される。
私は本能的な危機を察し、瞬の制服の袖を左手でクイと引っ張った。そして、小さく首を横に振る。「大丈夫、私が案内する」という無言の意思表示。これ以上瞬を翔の警戒範囲に留めておけば、ポケットの残片が見つかるリスクが高すぎる。
瞬は私の意図を察し、悔しそうに奥歯を噛み締めたが、静かに一歩退いた。私は翔に向けて小さく頭を下げ、屋上へと続く階段を指差した。喋ることのできない私にできる、精一杯の「社会的カモフラージュ」だった。
階段を上る間、背後から翔の静かな足音がついてくる。一歩上るたびに、周囲の空気の因果関係が強制的に凍結され、地脈のノイズが静まり返っていく。この少年の存在自体が、運命神の定めた完璧な調和を維持するための「システム」そのものなのだ。
重い鉄の扉を押し開けると、冷たい朝霧に包まれた屋上庭園が広がっていた。プランターに植えられた雛菊やハーブの花々が、露に濡れて静かに佇んでいる。ここが、私と瞬の秘密の避難所であり、調律者の工房だ。
私が庭園の中央に立ち、翔の方へ振り返った瞬間、少年の纏う雰囲気が一変した。青空を隠す濃い霧の向こうで、彼の指先から無数の黄金の霊糸が一斉に射出され、屋上庭園の周囲のフェンスに結びつけられた。
キィィィン――!
空間が物理的に歪み、黄金の光の防壁が私たちを現実世界から隔離する。『黄金の霊糸術・結界』。一般の生徒たちの声が遠のき、屋上全体が、天照衆の絶対的な秩序の檻へと変貌した。
「さて、一ノ瀬さん。無駄な芝居はやめよう」
翔の声から温もりが消え、冷徹な執行官としての地金が露わになる。
「昨夜、この学校の美術室で、運命神の脚本を書き換える強烈な『因果のバグ』が発生した。その瞬間、この屋上から銀色の霊糸の波形が観測されている。君のその右腕……不自然に冷え切り、手袋で隠されている。そして君のバッグの中で、今も激しく震えているその『金属』は何かな?」
翔の黄金の糸が、私のバッグを包囲するように、空中で蛇のように鎌首をもたげる。金属反応を検知する黄金の光が、私のバッグの輪郭を赤く染め始めていた。ハサミの休眠が破られかかっている。
(ハサミを、出させてはダメだ……)
私は無言のまま、動かない右腕を胸元に抱え、ただ怯える少女のフリをして後退した。恐怖に震え、声を失った緘黙症の社会的弱者。その完璧な「沈黙の欺瞞」を演じ切るため、私は自身の左手をバッグに入れ、ハサミの可動部を指先で強く押さえつけた。魔力の波動を、私の肉体(銀糸)の中に完全に封じ込める。
同時に、私は脳内を「園芸への純粋な愛」と「恐怖」の感情だけで満たした。戦う意志や敵意を一切消去し、ただの喋れない可哀想な少女としての波形を、周囲の空気へ放出する。
だが、翔の黄金の糸は容赦なく近づいてくる。あと一歩で、バッグのジッパーを物理的にこじ開けられる――その時だった。
私の影の中から、ハーブとタバコが混ざった、甘く退廃的な匂いが微かに立ち上った。おろちが、影の底で自身の『黒鉄の煙管』を静かに燻らせたのだ。
紫色の薄い煙が、私の足元から朝霧に混ざって静かに広がっていく。その煙が翔の黄金の糸に触れた瞬間、糸の発光が微かに乱れ、金属反応の赤い光がフッと霧散した。おろちの煙が持つ、天照衆の探知魔術の波長を一時的に狂わせる「隠蔽の毒」が、ハサミの存在を翔のセンサーから完全に覆い隠したのだ。
私はその隙を見逃さず、バッグからハサミではなく、一冊のスケッチブックと、一輪の押し花をあしらった『雛菊のメッセージカード』を左手で取り出した。
スケッチブックには、昨夜のうちに丁寧な文字で書き留めておいた文章が並んでいる。
『私は喋れません。これは、お近づきのしるしに育てた雛菊です』
私は震える手で、雛菊のカードを翔に向けて差し出した。カードに込められた花言葉は『無邪気』『ありのままの希望』。私の純粋な園芸への想いが、カードを通じて翔の黄金の糸に触れる。
翔の黄金の糸は、カードの周囲を何度も探るように這い回ったが、そこに宿る魔力は、ただの「植物の微弱な生命力」としてしか検知されなかった。ハサミの黒鉄の気配は、おろちの煙幕と私の沈黙の欺瞞によって、完全に遮断されている。
「……ただの、押し花か」
翔は眉をひそめ、黄金の糸を自身の指先へとゆっくりと回収していった。屋上を包囲していた黄金の防壁が静かに融け、再び現実の朝霧の冷たさが戻ってくる。
「失礼した。どうやら、僕のセンサーの感度が良すぎたようだ。一ノ瀬さん、君を疑って悪かったね。……そのカード、貰っておくよ」
翔は私の手から雛菊のカードを受け取ると、完璧なエリートの笑みを取り戻し、屋上の鉄扉へと歩き出した。私は左手を胸元に当て、彼が去っていく後ろ姿を、ただ無言で見送る。切り抜けた。私たちの欺瞞は、天照衆の天才の目を欺いたのだ。
だが、鉄扉に手をかけた瞬間、日向翔は不意に足を止めた。
彼は振り返ることなく、静かに鼻を鳴らす。
「……不思議な匂いだね。この学校の屋上には、ずいぶんと古風なタバコを好む幽霊でも住み着いているのかな」
翔の言葉に、私の心臓が冷たく跳ね上がった。
彼は、朝霧の中に微かに残された、おろちの煙管の甘く退廃的な匂いを見逃していなかったのだ。扉が静かに閉まり、翔の足音が遠ざかっていく。
完全に気配が消えたのを見届けた瞬間、私の影がぐにゃりと波打ち、隻眼の黒蛇おろちがプランターの影から姿を現した。煙管を咥えた隻眼が、冷酷な光を放っている。
「ふん、命拾いしたな、小娘。だが、あのガキ……ただ者じゃねえ。一ノ瀬の血脈の匂いを嗅ぎつけ始めてやがる。次は、そのハサミを隠し通せねえぞ」
おろちの警告が、朝霧の庭園に冷たく響き渡り、私の硝子の右腕をきしませた。
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