沈黙の少女と錆びたハサミ
「喋れよ、この居候が。母親のツラを潰す気か?」
湿った新宿の夜、安物のタバコと泥の匂いが混ざり合った息が、私の顔を掠めた。
沼田茂。母が離婚調停のストレスから逃げるようにして連れてきた、新しい交際相手の男だ。ギャンブルで狂った濁った瞳が、薄暗いアパートの玄関先で私を隅へと追い詰める。母、律子は奥の部屋で耳を塞ぎ、泥のように眠りこけていた。ネグレクト――そう呼ぶにはあまりにも日常的で、冷え切った沈黙がこの家を支配している。
私は声を出すことができない。言葉を発しようとすると、喉の奥が目に見えない鉄条網で締め付けられるようにきしみ、ただ冷たい息が漏れるだけだった。選択性緘黙症。医者はそう呼んだが、私にとっては、この世界から拒絶された証のような「呪い」だった。
「おい、無視すんじゃねえよ!」
沼田の分厚い手が、私のセーラー服の襟元を掴んで強引に引きずる。暴力の気配に、私の心臓は狂ったように鼓動を刻んだ。必死で助けを呼ぼうと喉に力を込める。しかし、喉の奥の「霊的な封印」が激しく火花を散らすように締め付けられ、喉が裂けるような激痛とともに、胃の底から鉄の味がせり上がってきた。声が出ないどころか、吐血しそうになり、私は激しく咳き込む。
「ちっ、気味の悪いガキだな。さっさと消えろ!」
突き飛ばされた勢いで、私は玄関の扉を押し開け、冷たい雨が降る新宿の街へと飛び出した。傘も持たず、ただ夜の闇をがむしゃらに走る。行き先などなかった。ただ、あの窒息しそうな箱から逃げ出したかった。濡れたアスファルトに反射する赤や青のネオンが、まるで私の傷口をあざ笑うかのように歪んで流れていく。
気がつけば、私は都立誠陵高校の校門の前に立っていた。日没後の学校は静まり返り、不気味な銀色の霧が立ち込めている。私は錆びたフェンスをよじ登り、屋上庭園へと向かった。ここだけが、私が誰の目も気にせず、ただの「喋らない少女」として呼吸できる唯一の避難所だった。
雨に濡れたハーブや土の匂いが漂う庭園の片隅に、トタン製の古びた園芸倉庫が佇んでいる。普段は施錠されているはずのその扉が、なぜか今夜は微かに開いていた。失踪した父親、宗二郎が遺した古い鍵が、私のポケットの中で微かに熱を帯びたような気がした。
倉庫の中に滑り込み、重いトタンの扉を閉める。外の雨音が遠のき、古い木箱と乾燥した草花の匂いが私を包み込んだ。隅に置かれた、朽ちかけた木製のプランターの影。そこに、何かが埋もれているのが見えた。
吸い寄せられるようにして近づき、濡れた手で土を掘り返す。指先が硬い金属の感触に触れた。引きずり出したのは、おびただしい錆に覆われた、黒鉄の不気味なハサミだった。それと、大正時代のものと思われる、色褪せた革製の手帳。表紙には『初代調律者の園芸日誌』と、掠れた文字で書かれている。
「……っ」
ハサミを手に取った瞬間、刃の先が私の人差し指の皮膚を浅く切り裂いた。痛みが走ると同時に、傷口から流れ出たのは、赤い血ではなかった。それは、水銀のように青白く発光する、極細の「銀色の糸」――私の命そのものである霊糸だった。
銀糸は錆びついたハサミの刃を伝い、プランターの底へと流れ込んでいく。その瞬間、倉庫の床一面に描かれていた不可視の魔法陣が、銀色の光を放って起動した。
「うむ……久しいな。一ノ瀬の血を引く娘よ」
暗闇の中から、低く、煙に巻かれたような声が響いた。プランターの土が割れ、そこから太く不気味な黒蛇が這い出てくる。その蛇は赤い隻眼を妖しく光らせ、器用に真鍮製の古い煙管を咥えていた。紫色の煙が倉庫内に充満し、甘く退廃的な香りが鼻腔を突く。
「我が名は『おろち』。かつて神の機織りから零れ落ち、一ノ瀬の祖に封印された大蛇の残滓。お前がそのハサミを握り、銀の血を捧げたことで、封印の糸は切られた」
黒蛇は私の周囲を這い回り、その冷たい身体を私の動かない右腕に滑らせた。隻眼が、私の魂の匂いを品定めするように細められる。
「言葉を捨て、沈黙の中に生きる道を選んだか。だが、そのハサミを握るということは、他者の悲劇の運命を切り裂く代わりに、己の肉体を硝子へと変える呪いを受け入れるということだ。等価交換の契約を結ぶ覚悟が、お前にあるのか?」
おろちの問いかけが、私の脳内に直接響き渡る。断れば、私はあの冷え切ったアパートに戻り、沼田の暴力と、沈黙の絶望に押しつぶされて死ぬだけだ。誰の記憶にも残らず、名もなき花のように枯れていく。そんな未来は、死ぬよりも恐ろしかった。
私はハサミを強く握りしめた。喋れない私の代わりに、指先から溢れ出た銀の霊糸がおろちの身体に巻き付き、きつく結び目を作る。それが、私の言葉なき返答だった。
「くく、いい眼だ。ならば契約は成った。お前の命をインクとし、運命のシナリオを書き換えるがいい――『調律者』よ」
契約が完了した瞬間、私の右手の指先に冷たい感覚が走り、皮膚が微かに硬質化したような錯覚を覚えた。そして、おろちの魔力と同調した私の視界が、急激に変貌する。
倉庫の埃っぽい窓の向こう。誠陵高校の巨大な校舎全体を覆うように、天井から、地面から、おびおびしい数の「黒い蜘蛛の糸」が這い回り、学校全体を巨大な繭のように包み込んでいくのが見えた。一般の人間には決して見えない、悲劇を強制する運命神の脚本の気配。
それが、私を調律者の道へと引きずり込む、最初の悲劇の幕開けだった。
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