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影の守護者

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長江の夜霧は冷たく、湿った泥と血の臭いが立ち込めていた。


 江南の隠れ港で白雲剣派の過激派・白蓮の包囲を切り抜けた沈青言(しんせいげん)は、満身創痍の体を引きずり、黒月峰の裏手に位置する秘密通路「冥道(めいどう)」へと滑り込んでいた。左肩に受けた鉄蜘蛛の毒針の古傷が、体内の「骨蝕丹(こつしょくたん)」の熱毒と激しく反発し、経絡を引き裂くような激痛が走る。内力は一割以下に制限され、一歩歩くたびに喉の奥に刺さった声帯調整用の骨針がきしみ、口内に生暖かい鉄の味が広がった。


 柳雪楓(りゅうせつふう)をお香(おこう)の茶館「臨江閣(りんこうかく)」に託し、自らは「無名(むめい)」の変装を解いて教主「冥夜(めいや)」へと戻らねばならない。沈青言は無極殿の寝室の床下から這い上がると、鏡の前にへたり込んだ。汗と血によって「千面草(せんめんそう)」の接着ゲルが浮き上がり、顔の皮膚が焼け付くように痛む。


「くっ……、まだ、倒れるわけには……いかない」


 彼は懐から百毒閣で命がけで奪取した「千面草の樹液」を取り出し、震える指先で仮面の端を慎重に皮膚へと密着させていった。喉の「天突穴」に刺さった骨針を指先で微かに調整する。喉の奥を針で抉られるような激痛と共に、彼の声は再び、あの凍てつくように低く掠れた「冥夜」のトーンへと固定された。鉄の半面を顔の左半分に装着した瞬間、彼の気配は完璧な魔教の若き暴君へと変貌を遂げた。


 その時、寝室の飾り壁の裏から、衣擦れの音が微かに響いた。


 沈青言は瞬時に「絶対の観察眼」を起動し、気配を探った。現れたのは、彼が鉄鬼(てっき)の陣営から寝返らせ、二重スパイとして使役している信徒、蛇影(じゃえい)だった。蛇影は怯えたように周囲を見回し、処刑台の泥を落としたばかりの床に膝をついた。


「教主様、一大事にございます。左長老・鉄鬼が、教団序列二位の右護法・鉄心(てっしん)様の暗殺を企てております」


 沈青言は鉄の半面の奥から冷酷な眼光を放ち、低く掠れた声で先を促した。


「……話せ」


「は、はい。鉄鬼は、鉄心様の最も信頼する直属の部下・冷鋒(れいほう)を大金と地位で抱き込みました。今夜、無極殿で開かれる緊急幹部会の席上、冷鋒が鉄心様に差し出す茶の中に、内力を一時的に霧散させる無色無臭の猛毒『軟筋散(なんきんさん)』を混入させる計画にございます。鉄心様が毒に倒れれば、鉄鬼はその場で教主様の『武力の無能』を責め、総壇の守備隊を力ずくで掌握する腹積もりです」


 蛇影は懐から、朝廷の刻印が削られた一枚の金塊を取り出した。それには微かに塩の結晶が付着していた。李監察官(りかんさつかん)が鉄鬼に渡した、あの密輸黄金の残骸だ。


「これは冷鋒に渡された賄賂の一部にございます。鉄鬼は確実に、今夜の幹部会で鉄心様を排除する気です」


 沈青言の脳裏に、冷徹な計算が走る。右護法・鉄心は規律を絶対視する硬骨漢であり、教団内の半数の武力を握る保守派の巨頭だ。彼が失われれば、魔教は完全に鉄鬼の野望のままに動き、朝廷の望む「正邪の全面戦争」へと突き進むことになる。それだけは絶対に阻止せねばならない。


「……下がれ。この件、私が自ら処置する。お前はこれまで通り、鉄鬼の影として動け」


「御意にございます」


 蛇影が闇に消えた後、沈青言は深く息を吐き、右手の震えを強引に抑え込んだ。自らの武力が制限されている今、冷鋒の裏切りを正面から暴くだけでは足りない。鉄心自身の信頼を完全に勝ち取り、鉄鬼を政治的に孤立させる「完璧な罠」が必要だった。


 沈青言は無極殿の厨房を三十年間仕切る老料理人、老劉(ろうりゅう)を極秘裏に召喚した。老劉は先代教主への恩義から、若い教主の身を実の息子のように案じている唯一の「安全の番人」だ。


「教主様、このような深夜に私めをお呼び出しになるとは、お体に障るご様子でも……」


「老劉、今夜の幹部会で出される茶の給仕は、すべて冷鋒に任せよ。だが、お前は常に給仕の背後に控え、私の合図を待て。お前が持つ『純銀の箸』が必要だ」


 老劉は、沈青言の言葉の裏にある「毒殺の予兆」を瞬時に察知し、丸い顔を引き締めた。


「心得ました。私めの命に代えましても、厨房と無極殿の安全は守り抜いて見せます」


 夜更け。無極殿の広大な石造りの大広間に、重々しい空気が満ちていた。


 中央の円卓を囲むように、左長老・鉄鬼、右護法・鉄心、そして冷鋒をはじめとする教団の幹部たちが着席していた。鉄鬼は巨大な覇王槍を傍らに立てかけ、不敵な笑みを浮かべて玉座を見つめている。鉄心は鋼のような灰髪を短く刈り込み、厳格な表情で腕を組んでいた。


「教主様、先日の周平の処刑により、信徒たちの間に微かな動揺が広がっております。今こそ、教団の規律を正し、鉄血谷の防衛を強化すべきにございます」


 鉄心が重厚な声で発言すると、その背後に控えていた冷鋒が、恭しく一歩前に出た。


「鉄心様、お疲れのご様子。私めが淹れました、日頃ご愛用の寒月茶をどうぞ」


 冷鋒は端正な表情を崩さず、湯気の立ち上る茶碗を鉄心の前に置いた。その動作には一切の無駄がなく、誰もが彼を「忠実な部下」と信じて疑わなかった。


 沈青言は玉座の上で「絶対の観察眼」を起動し、冷鋒の指先の動きをミリ単位で観察した。冷鋒が茶碗を置いた一瞬、彼の右手の薬指が微かに引き攣り、その視線が鉄鬼と一瞬だけ交差したのを沈青言は見逃さなかった。茶の香りの奥に、微かに甘く不自然な化学反応の匂い――軟筋散の気配が混ざっている。


 鉄心が茶碗を手に取り、口元へと運ぼうとしたその瞬間。


「待て」


 玉座から、冥夜の低く掠れた声が無極殿の壁を震わせた。


 鉄心の手が止まり、円卓の全員が玉座へと視線を向けた。鉄鬼の眉が不気味に跳ね上がる。


「教主様、何か不審な点でもございますか?」


 鉄心が問いかけると、沈青言はゆっくりと立ち上がり、大理石の階段を一段ずつ下りていった。一歩踏み出すたびに、左肩の毒傷が火を噴くように痛むが、顔の仮面は微動だにさせない。


「……冷鋒。お前が淹れたその茶、随分と香りが良い。だが、我が教団の規律を重んじる右護法にふさわしいものか、少々疑わしいな」


 冷鋒の顔色が、一瞬にして土色へと変わった。彼は必死に頭を下げ、声を震わせた。


「教主様、私めはただ、鉄心様の体調を案じて……」


「老劉、入れ」


 沈青言の短い命令と共に、背後から老劉が厳かに進み出た。その手には、一本の「純銀の箸」が握られていた。老劉は無言で鉄心の前に進むと、その箸を茶碗の液体へと静かに浸した。


 次の瞬間、無極殿にいた全員が息を呑んだ。


 澄んだ茶の水面に触れた純銀の箸が、触れた箇所から一瞬にして、漆黒の炭のように変色していったのだ。軟筋散が銀と反応し、その猛毒の正体を衆目の前に晒した瞬間だった。


「な……っ!」


 鉄心の瞳が怒りに見開かれ、円卓を叩いて立ち上がった。凄まじい「周天境(しゅうてんきょう)」の内力が彼の全身から放たれ、周囲の空気が激しく振動する。


「冷鋒! 貴様、私を裏切ったか!」


「ち、違う! 私は嵌められたのだ!」


 冷鋒は狂ったように叫び、懐から短刀を引き抜くと、目の前の鉄心を人質に取ろうと襲いかかった。だが、鉄心は避ける動作すら見せなかった。彼の全身の骨関節から「パキパキ」と凄まじい音が響き渡り、皮膚が一時的に鉄のような鈍い輝きを帯びる。冥月教秘伝「金剛鉄骨功」――周天境の達人が放つ絶対の肉体防御だ。


 キンッ!


 冷鋒の短刀の刃が鉄心の首筋に触れた瞬間、金属同士が衝突したような鋭い音が響き、刃は根元から粉々に砕け散った。鉄心の内力の反発を受け、冷鋒は数歩後退し、顔を歪めた。


「逃がすな!」


 冷鋒が正門に向けて身を躍らせようとしたその時、沈青言の指先が微かに動いた。


 袖口から放たれた極細の「骨針暗器術(こつしんあんきじゅつ)」が、夜風を切り裂いて冷鋒の背中の「大椎穴」と「命門穴」に正確に突き刺さった。内力を封印された冷鋒は、悲鳴を上げる間もなく全身の筋肉が完全麻痺し、大理石の床の上へと崩れ落ちた。


「教主様、この冷鋒、私めが直々に処分いたします!」


 鉄心が怒りに震える拳を握りしめ、冷鋒の首をへし折ろうとした時、沈青言は冷酷な声でそれを制した。


「待て、鉄心。裏切り者の背後にいる『主』を暴かねば、我が教団の癌は消え去らぬ」


 沈青言は右袖の奥から、事前に蛇影から奪っておいた、あの密輸黄金の金塊を円卓の中央へと放り投げた。重厚な金属音が、大理石の床に不気味に響き渡る。その金塊の表面には、李監察官との裏取引を示す、半分削られた朝廷の刻印が刻まれていた。


「冷鋒の寝室から見つかった金塊だ。……鉄鬼長老、この朝廷の刻印に見覚えはないか?」


 鉄鬼の表情が、一瞬にして凍りついた。覇王槍を握る彼の指先が、怒りと焦燥で激しく震える。しかし、鉄鬼はすぐに不敵な笑みを取り戻し、ゆっくりと立ち上がった。彼の全身から、圧倒的な破壊力を秘めた赤黒い「鉄血魔功」の気が立ち上る。


「教主様、ずいぶんと見事な知略だ。我が教団の内部をこれほど鮮やかに引っかき回すとはな……。ならば、その武功も先代様に劣らぬものか、この老骨が直々に確かめて進ぜよう!」


 鉄鬼の巨大な大刀が引き抜かれ、無極殿の床を切り裂くような凄まじい風圧が沈青言を襲う。教主の武力そのものを試すための、直接的な脅迫が開始されようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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