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白雲の偽善

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黒月峰の祭天壇で、裏切り者の分舵主・周平を凍てつく掌法で処刑してから半日。沈青言(しんせいげん)は冷酷な魔教主「冥夜(めいや)」の仮面を脱ぎ捨て、再び灰色の粗末な長衣を身に纏っていた。顔の皮膚には、百毒閣から命がけで奪取した「千面草(せんめんそう)の樹液」を慎重に塗り込み、不器用な放浪の浪人「無名(むめい)」としての易容(変装)を施している。


 しかし、彼の肉体はすでに悲鳴を上げていた。左肩に受けた鉄蜘蛛の毒針の傷口が、体内の「骨蝕丹(こつしょくたん)」の熱毒と未だに火花を散らし、経絡を内側から焼き焦がすような激痛が走る。内力の最大出力は一割以下に制限され、呼吸をするたびに喉の奥に刺さった声帯調整用の骨針がきしみ、口内に鉄の味が広がった。


(ここで倒れるわけにはいかない。柳雪楓(りゅうせつふう)に、白厳(はくげん)の正体を突きつけねば、江湖の全面戦争を止めることはできん……)


 沈青言は「冥道」の暗い地下通路を潜り抜け、黒月峰の監視網を突破して江南へと急いだ。長江の水面を渡る湿った冷たい風が、彼の青白い頬を撫でる。


 江南の長江沿いに佇む三階建ての茶館「臨江閣(りんこうかく)」。ここは、沈青言の亡き義父・沈大捕頭に恩を持つ元・影衣衛の隠密、お香(おこう)が経営する秘密の連絡拠点だった。三階の最奥、長江を一望できる個室の扉を静かに開けると、そこにはすでに一人の女侠が待っていた。


「無名(むめい)殿……! ご無事でしたか!」


 純白の長衣をなびかせ、立ち上がったのは柳雪楓だった。彼女の澄んだ瞳には、安堵と同時に、深い焦燥の光が揺れている。背には白雲剣派の至宝である名剣「飛霜剣(ひそうけん)」が静かに収められていた。


「……遅れてすまない、雪楓殿。山道が少し荒れていてな」


 沈青言は掠れた声を絞り出し、お香が差し出した温かい茶を一口啜った。温かい湯気が変装の仮面を刺激するが、彼は「絶対の観察眼」を起動し、周囲の気配を壁越しに探る。お香は黙って扇子を手にし、個室の入り口で周囲を警戒していた。


「無名殿、あなたが手に入れたという、魔教の裏切り者・周平の遺品とは一体……」


 柳雪楓が身を乗り出す。沈青言は袖の奥から、周平の靴底から極秘裏に回収した「鉄血谷の地図」の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。


「周平は魔教の鉄血谷から鉄鉱石を盗み出し、朝廷の李監察官(りかんさつかん)に売り渡そうとしていた。だが、この地図の裏面をよく見てほしい。そこには、ただの鉱山ルートだけではなく、今夜、長江の第三隠れ港で行われる『官塩と鉄の闇取引』の正確な日時と場所が記されている」


 柳雪楓は地図を凝視し、その白い指先を不気味に強張らせた。


「官塩……。朝廷が民から不当に没収した塩を、悪徳官僚が闇市場で密売しているのですね。そして、魔教はその資金源として鉄を供給している。……絶対に許せません。魔教が朝廷の腐敗した牙と結託し、民を搾取している証拠です。今夜、その取引現場を急襲し、彼らの悪事を暴きましょう!」


 彼女の瞳には、一切の妥協を許さない純粋な正義の炎が燃えていた。沈青言はその美しくも眩しい光を見つめ、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。彼女が信じる「正道」の光が、どれほど残酷な影を隠しているか、これから彼女自身が目撃することになるのだ。


「……行こう、雪楓殿。真実は、闇の中にこそ転がっている」


 沈青言は錆びた鉄剣を腰に下げ、彼女と共に闇夜の長江へと身を躍らせた。


 夜霧が深く立ち込める長江の寂れた倉庫街。湿った泥と魚の生臭い匂いが漂う岸辺に、数隻の小舟が音もなく接岸していた。松明の鈍い光が、水面に揺れる霧を不気味に照らし出している。


 沈青言と柳雪楓は、荷揚げ用の木箱の影に身を潜めた。沈青言は「絶対の観察眼」を研ぎ澄ませ、取引を行う者たちの動きを観察した。荷を運ぶ男たちの不自然に鍛え上げられた歩法、そして腰に隠された「白雲剣派」の独特な剣の柄――。


(やはりな……。周平の地図に記されていた『買い手』は、魔教の鉄鬼派だけではない。正道の盟主であるはずの、白雲剣派の直系弟子たちだ)


 木箱の陰から、取引を仕切る男たちの声が微かに聞こえてくる。


「李監察官からの伝言だ。今回の官塩の取り分は、白厳(はくげん)大師の私兵を武装させるための軍資金として、すでに江南の塩商ギルドの隠し金庫へ送られた。残りの玄鉄鉱は、すべて白雲山の武器庫へ運べ」


「心得ている。魔教の鉄鬼長老との取引も、これで最後だ。新教主の冥夜(めいや)とかいう若造は、未だに我々の動きに気づいておらん」


 その言葉を聞いた瞬間、柳雪楓の体が激しく震えた。彼女の背負う飛霜剣から、動揺に乱れた冷たい剣気が微かに漏れ出し、周囲の泥水が一瞬にして薄い氷へと変わる。


「そんな……、嘘よ……」


 彼女は片手で口を覆い、信じられないものを見るように目を見開いた。


「叔父上……白厳大師が、朝廷の悪徳官僚と手を結び、塩を密売しているというのですか? 白雲剣派の軍資金が、民から奪った官塩の黒い金で賄われているなんて……!」


 高潔な「除邪扶正(じょじゃふせい)」の信念を掲げ、江湖の道徳的模範であるはずの白雲剣派。その長老であり、彼女の実の叔父である白厳大師が、裏で朝廷の小悪党・李監察官と結託し、民を搾取して私腹を肥やしていたという醜い真実。彼女がこれまで信じてきた「正義」の世界が、足元からガラガラと崩れ去っていく。


「雪楓殿、静かに」


 沈青言は彼女の肩を静かに抱き寄せ、その震えを抑えるように耳元で囁いた。


「世の中の正義は、名声の仮面を被っている。……だが、絶望してはならない。真の義とは、門派の看板ではなく、自らの手で何を救うかによって決まるのだ」


 彼自身、朝廷の冷酷な猟犬として生きてきたからこそ、その欺瞞の痛みが誰よりも分かった。しかし、彼らの静かな対話を引き裂くように、周囲の霧の中から、無数の松明が突如として灯された。


「くくく、ネズミが紛れ込んでいるとは思わなかったぞ。しかも、我が従妹の雪楓ではないか」


 不気味な薄笑いを浮かべ、暗闇から歩み出てきたのは、白厳大師の甥であり、白雲剣派の卑劣な若い剣士、白蓮(びゃくれん)だった。


 白蓮は宝石を散りばめた美しい剣を弄び、背後には大刀を構えた李監察官の私兵たちと、白雲剣派の過激派弟子数十人を従えていた。彼らは、臨江閣の周囲、そしてこの隠れ港の退路を完全に包囲していた。


「無名とかいう素性の知れぬ浪人と、お前がここで何を見ていたかは知らんが……叔父上の大事な取引を覗き見たからには、生きてこの長江を去ることはできんぞ、雪楓」


 白蓮の傲慢な声が、夜霧の長江に冷酷に響き渡った。沈青言は左肩の激痛を覚えながら、錆びた鉄剣を引き抜き、絶望の淵に立つ柳雪楓の前に立ち塞がった。彼らの前に、退路なき包囲網が完成しようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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