血の掟と葛藤
黒月峰の頂に吹き荒れる夜風は、凍てつくような冷たさで沈青言の全身を叩いていた。百毒閣の窓から闇へと身を投げた彼は、左肩を押さえたまま、無極殿の寝殿へと続く極秘の隠し通路「冥道」を這うようにして進んでいた。
「がはっ……、う、ぐ……!」
暗い石道に膝をつき、沈青言は激しく黒い血を吐き出した。喉の奥に深く刺し込まれた「声帯調整用の骨針」が肉を抉り、口内は常に鉄の味が支配している。だが、今の彼を苛むのはその痛みだけではなかった。左肩の傷口――鉄蜘蛛が放った最後の一針「鉄蜘蛛針」の劇毒が、彼の体内に潜む朝廷の毒「骨蝕丹」の熱毒と最悪の反応を起こしていたのだ。
冷たい陰毒と、燃えるような熱毒が経絡の中で激しく衝突し、爆発的な気の暴走を引き起こしている。全身の骨が「みしみし」ときしみ、まるで内側から肉体が砕け散るような激痛が走る。内力は一割以下にまで制限され、指先一つ動かすことすら極限の集中を要した。
(ここで倒れるわけにはいかない……。私が倒れれば、陸風も、その盲目の母も、朝廷によって使い捨てにされる。そして、あの無辜の民たちも……)
沈青言は震える手で、懐から百毒閣で命がけで奪取した「千面草の樹液」の硝子瓶を取り出した。寝室の鏡の前に辿り着くと、彼は仮面の端が汗と毒素によって剥がれかけているのを見た。易容術の三原則――熱水、発汗、表情の激変。そのすべてが、現在の彼の満身創痍の肉体によって破られかけていた。
彼は痛む左腕を強引に動かし、千面草の粘着ゲルを顔の皮膚に塗り直した。焼け付くような皮膚の荒れと痛みが走るが、それを奥歯を噛み締めて耐える。鏡の中に映る顔が、徐々に本来の端正な素顔から、冷酷で不気味な教主「冥夜」の容姿へと完璧に修復されていく。最後に、喉の天突穴にある骨針の位置をミリ単位で微調整し、低く掠れた冥夜の声を固定した。
トントン、と寝室の重い木の扉が不意にノックされた。
「教主様、小梅にございます。……お部屋の奥から、微かに不審な薬草の香りが漂っておりますが、お体に障るご様子ではございませんか?」
扉の外から、筆頭侍女・小梅の鋭く冷徹な声が響いた。彼女はやはり、教主の体調不良と不在を疑っているのだ。沈青言は「絶対の観察眼」を起動し、扉の隙間から伸びる彼女の影が、警戒して耳を澄ませているのを察知した。
「……下がれ」
沈青言は、喉の骨針の痛みを押し殺し、凍りつくような冷たい声を発した。
「私の眠りを妨げる者は、誰であれ生かしてはおかぬ。……小梅、お前も例外ではないぞ」
その言葉に含まれた絶対的な殺気に、扉の外の影が微かに強張るのが見えた。小梅は一瞬躊躇したが、やがて「……失礼いたしました」と静かに引き下がっていった。沈青言は壁に背を預け、崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。なんとか最初の正体露見の危機は免れたが、彼の肉体は既に限界を迎えていた。
しかし、運命は彼に休息を与えることを拒んだ。翌朝の早朝、無極殿の広場に重々しい銅鑼の音が響き渡った。緊急幹部会の招集ではない。それは、全信徒が祭天壇へと集まる、冷酷な「掟の執行」の合図であった。
祭天壇の広大な石畳のプラットフォームには、数千人の魔教信徒がひしめき合い、異様な殺気と熱気が渦巻いていた。その中央、血に汚れた処刑台の上に、一人の男が鎖に繋がれて引きずり出されていた。冥月教の分舵主・周平であった。
「教主様! お助けください! 私は嵌められたのです! 鉄鬼長老、何とか言ってください!」
周平は卑屈な表情で泥にまみれ、必死に命乞いをしていた。彼の罪は、教団の生命線である「鉄血谷」の私鉄鉱山の極秘地図を盗み出し、朝廷の腐敗高官である李監察官に売却しようとしたこと。それが右護法・鉄心の部下によって暴かれたのだ。
玉座から立ち上がり、祭天壇の処刑台へと歩みを進める沈青言(冥夜)の前に、左長老・鉄鬼が立ち塞がった。鉄鬼は背負った巨大な大刀の柄に手をかけ、不敵な笑みを浮かべて沈青言を見つめた。
「教主様。周平の裏切りは明白。教理『叛教者即殺』に従い、全信徒の目の前で、その不届き者の首を直々に刈り取っていただき、我が教団の絶対的な威厳を示していただきとうございます。……それとも、若い教主様は、この裏切り者に慈悲でもお掛けになるおつもりか?」
鉄鬼の言葉は、全信徒の耳に届くように放たれた。鉄鬼は、沈青言が「冷酷な教主」を演じきれるか、それとも「甘さ」を見せて自滅するかを試しているのだ。もし処刑を躊躇えば、鉄鬼は即座に「教主の器にあらず」として反乱の口実を得るだろう。周天境の達人である鉄鬼の鋭い視線が、沈青言の全身を射抜いていた。
沈青言は処刑台の上に立ち、膝をつく周平を見下ろした。その瞬間、彼の脳裏に、かつて飢饉で亡くした妹・小雨の痩せ細った幻影が浮かび上がった。そして、義父・沈大捕頭の温かい後ろ姿と、彼が残した言葉が耳の奥で激しく響いた。
『青言、捕吏の仕事は人を殺すことではない。無実の者を、弱き者を守ることだ。法とは、人を活かすためにある』
(義父上……。私は今、無実かもしれない男を、自らの保身のために殺そうとしています。朝廷の犬として生き延びるために、自らの手を血で染めることが、私の『正義』なのですか?)
激しい自己嫌悪と道徳的葛藤が、沈青言の魂を引き裂く。彼の右手が微かに震え、衣服の奥に隠された「沈大捕頭の錆びた十手」の冷たい鉄の感触が、彼の皮膚に冷酷な現実を突きつけていた。
だが、ここで周平を救えば、自身の正体(影衣衛)が露見し、黒月峰に潜入している擁護派の者たちも、都で人質となっている陸風の母も、すべて朝廷の黒幕・趙無極によって皆殺しにされる。大局を守るためには、この手を血に染める以外の道は残されていなかった。
沈青言は「絶対の観察眼」を極限まで起動した。周平の全身の筋肉の緊張、呼吸の乱れ、そして彼の衣服をミリ単位で観察する。その時、周平の袖口に付着した、微かな「白い結晶の汚れ」が彼の目に留まった。
(これは……官塩のシミ? 鉄血谷の鉱山には存在しない、江南の闇市場でのみ流通する朝廷の塩だ。……周平は、本当に李監察官と裏で繋がっていた。彼は無実ではない。教団を朝廷に売り渡そうとした、本物の裏切り者だ)
その事実を看破した瞬間、沈青言の心から迷いが消え、冷徹な「教主」としての冷酷なペルソナが完成した。しかし、周平は教主の瞳の奥にある微かな揺らぎを察知したのか、口を開いて大声を上げようとした。
「教主様! あなただって、昨夜百毒閣に――」
周平が沈青言の「正体」に関わる疑惑を口にしようとしたその一瞬前、沈青言の指先が袖口の中で微かに動いた。影衣衛の極意「骨針暗器術」が、音もなく放たれる。極細の骨針が、周平の喉の「天突穴」に正確に突き刺さり、彼の声帯の筋肉を一瞬にして麻痺させた。
「あ、う……、お……!」
周平は喉を押さえ、声にならない喘ぎ声を上げて目を見開いた。全信徒には、彼が恐怖のあまり声が出なくなったようにしか見えなかった。
「教団を売る者は、私の手で直々に処分する。それが、我が冥月教の血の掟だ」
沈青言は冷酷に宣言し、右掌を周平の胸元に向けて突き出した。体内で暴れる骨蝕丹の熱毒を強引に抑え込み、冥月教主の秘伝掌法「冥月陰風掌」の極寒の陰気を掌に集中させる。
キィィン、と空気が凍りつくような鋭い音が祭天壇に響き渡った。沈青言の掌から放たれた黒い霧のような冷気が、周平の胸元を直撃する。直撃を受けた周平の衣服が一瞬にして白い霜に覆われ、彼の体内の十二経絡が、極寒の陰気によって一瞬にして物理的に凍結された。
「が、はっ……!」
周平は血を吐くことすら許されず、凍りついたまま処刑台の上に崩れ落ち、絶命した。数千人の信徒たちは、新教主の放った圧倒的に冷酷で無慈悲な一撃に息を呑み、静まり返った。鉄鬼の瞳にも、一瞬だけ驚愕と警戒の光が宿る。沈青言は完璧な「魔教主」を演じきり、鉄鬼の仕掛けた罠を完璧に粉砕したのだ。
沈青言は、周平の遺体が処刑台から引きずり下ろされる一瞬の隙を見逃さなかった。彼は「影歩法」を極限まで抑えた迅速な身法で屈み込み、周平の靴底に仕込まれていた小さな羊皮紙の筒――「鉄血谷の本物の地図」を、誰にも気づかれぬ速度で密かに指先に回収し、袖の中に隠した。これが、後の鉄鬼派の経済的基盤を破壊するための最大の武器となるはずだった。
しかし、すべてが完了し、沈青言が息を整えようとしたその時だった。
まだ息を引き取る直前、死の淵にあった周平の濁った瞳が、仮面の奥にある沈青言の「目」を凝視した。周平は、自らの声を奪い、冷酷に処刑を執行した教主の、その瞳の奥深くに沈む「消えない悲しみ」と「微かな躊躇」を、確かに見抜いたのだ。
「ハ、ハハ……、がはっ……!」
周平は喉から黒い血を狂ったように噴き出しながら、不気味な笑い声を上げた。
「貴様……、やはり、本物の……冥夜様では……!」
その狂った笑い声と断末魔の叫びが、風の吹き荒れる祭天壇に不気味に響き渡り、信徒たちの間に一瞬の凍りつくような沈黙が走った。鉄鬼の鋭い眼光が、再び玉座の沈青言に向けて、蛇のように引き絞られた。
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